38 見えた灯り
講義が終わったトニアは無意識のうちに右手で唇を抑えてぐるぐると思考を働かせながら廊下を歩く。
彼女の斜め下を向いた視線は何も捉えず、仮定を夢想し外部の音も大して耳には届かない。
自分の足取りだけにかろうじて意識を残す。しばらく歩いていると、それを迎えるようにしてしっかりと磨かれたブラウンの靴先が視界に入った。
ぶつかりそうになった彼女が顔を上げると、懐かしい顔が首を傾げる。
「トニア、何か考え事?」
警戒心の欠けた表情のネルフェットが問いかけると、随分と長い間会っていなかったように思える彼の姿にトニアの頬は綻んだ。
「ちょっとね。あっ……それよりも、祝祭の日は……その……ごめんなさい。迷惑をかけて……。ミハウさんにも付き添ってくれてありがとう。ネルフェットがテキパキ対応してくれたおかげで、彼も……助かった」
最後に見た彼の背負っていた煌びやかな空気を思い出し、トニアは咄嗟に身をすくめる。
「いや、なんてことないよ。あの後、ミハウにもちゃんと会えたよね? ミハウもトニアがわざとやったんじゃないって分かってるから、大丈夫」
「うん。ネルフェット、本当にありがとう」
もう一度ぺこりと頭を下げる。トニアは彼とこんなに近くで会話を出来ることが奇跡のように思え、顔を上げるなりはにかんだ。
彼女のコットンキャンディーのような笑い声が耳をくすぐる。
ネルフェットは彼女に見惚れてしまいそうになるのを気づかれないようにそっと焦点を彼女から逸らした。
「ミハウさんには、とんでもないことしちゃったけど……でも、そのおかげで、いいこともあったの」
「いいこと……?」
ネルフェットの眉がピクリと上がる。
「そう。ミハウさんのお父様の話とか、ネルフェットの幼少期の話とか、色々と聞くことができたから」
「……どうしてそうなるんだ?」
ミハウが倒れたことからそこまでのいきさつが分からず、ネルフェットはきょとんとしたまま素朴な疑問を口にした。
「ふふふ。雨過天晴ってことかな」
「……うん?」
朗らかなトニアの雰囲気に流され、ネルフェットはおおよその納得がないまま頷いた。
「ミハウの父親の話、聞いたの?」
カフェテリアへと向かうトニアに並んで歩き出したネルフェットは、先ほど通り過ぎたトニアの言葉を振り返る。
「うん。話してくれた……。なんだか、悲しい話だよね」
「……ああ。そうだな」
低い声で返事をするネルフェットに、トニアは彼も無関係な人間ではないことを思い出す。
「あ……ごめんなさい……。私、無神経だね……」
合唱団に入っていたネルフェットもミハウの父親とは親交があったことはずだ。ミハウが言うには父親同士も交流があった。おまけに、追放したのは恐らくリリオラ。当時の彼が何を思ったのかは読み取れない。しかし今隣にいるネルフェットの表情を見る限り、彼にとっても辛い出来事だったと言える。
トニアはミハウとのわだかまりが一つ解決したように思えて浮かれていた自分を省みた。
「トニアが気にすることじゃない。今もあの時も、俺は何もできなかったわけだし」
沈んだ顔をするトニアにネルフェットは気さくに笑いかける。
「あの時も俺は、どうすればいいのか分からなかった。追放は正しいのか、おかしいのか、その判断すらすることを拒んだ。……ミハウには本当、悪いことをしたな……」
「ね、ネルフェットのせいでも、ない……でしょ……?」
慌てて顔を上げてネルフェットの横顔を見上げる。彼の瞳が暗がりを覚えるのを嫌い、トニアは前のめりになって訴えかけた。
「……トニアはそう言ってくれるの? ははっ。ありがと。ちょっと元気出た」
「うん……私は、そう思う。……それに、ミハウさんもきっと……」
「俺を責めないって?」
「うん……!」
トニアはトラムでのミハウの話しぶりを思い返し、自信を持って頷く。
「そういえば……前に、宮殿で見た写真って、あれ……ミハウさんのお父様……?」
ふと頭に蘇った光景にトニアは泡沫の声を出した。
「そうだよ。俺とミハウと一緒に撮った写真。……まぁ、母が撮ったんだけど写真が下手で、結局俺たちしか写ってないけどさ。俺が初めてミハウとデュエットを歌った時の舞台で。無事に終わったのが嬉しくて撮ったんだ」
「ふふふ。いい笑顔してたもんね、ネルフェット」
「あの写真も捨てられそうになったけど、どうにかお願いして残してもらった。あれなら顔は写ってないし、俺にとっても思い出だしさ。廊下にしっかり飾ってたんだけど、いつの間にやら追いやられて……」
「……そっか」
「でも俺はミハウの父親の存在を消してしまいたくはなくて、強引に置いてるんだけど」
ネルフェットは、はにかみを残した自嘲的な笑みを浮かべる。
「うん……。とてもいい写真だったから、絶対にそのままでいいよ」
トニアはそんな彼の照れ隠しを真正面から包み込み、柔らかに笑う。
やはり彼と対等に会話を出来ている今の状況がトニアにとっては現実感がなかった。ただの庶民の自分に、ネルフェットが目を向けてくれるなんて。いつまでもこうやって会話をしてくれることはないのだと分かっているからこそ、トニアはこの瞬間をそのまま瓶に入れて宝物にしたくなる。
ふざけた自分の些細な願望に、トニアは胸が痒くなってきた。
「あ、そうだ。ネルフェット。それでね」
むずむずと落ち着かない心に全身が支配される前に、トニアは手を叩いてネルフェットの気を引く。ネルフェットは少し驚いたように瞼を開けた後、トニアの話を待つ。
「私、ようやく分かった気がするの! この紋様の意味が!」
「……意味?」
ネルフェットはトニアの晴れた瞳を興味深そうに見る。
「私、きっとミハウさんのために何かができるんだと思うの! ミハウさん、と、いうかお父様。マニトーアの音楽に触れたことで悲劇が起きたでしょう? だからきっと、私だったんだなって思える」
トニアはきらきらと光を纏う声を出して、掲げた腕の袖が落ちて姿を現した紋様を見上げた。
「私、ミハウさんを助けたい。ミハウさんには、大好きな歌をもっとずーーっと楽しんで欲しいから。今のままじゃ、きっと素直に楽しめない。彼を縛る苦しみを楽にしてあげたいの」
「……そっか。……うん。それは……いいな」
彼女の意欲に満ちた表情に気づき、ネルフェットは陽炎のような眼差しを向ける。祝祭の前に彼女が見せたミハウへの杞憂。それが今の彼女からは全く見えない。すっかり綺麗にどこかへ吹き飛んでしまったようだ。それどころか、ミハウに対する強い情が彼女からひしひしと伝わってくる。
祝祭の後、彼と何があったのかは分からない。
しかし紋様が繋がってからというものぎくしゃくしていた二人の歯車が噛み合い、ゆっくりとでも回り始めたというのであれば、見守るべきなのだ。それが彼の教わった矜持だった。
ネルフェットは蜃気楼のような声を返した後、トニアの親愛なる大志を想う。
トニアは彼の眼差しに微笑みかけ、再び熱意に燃える。
マニトーア出身の自分だからこそ大胆にできることがある。それはきっと、紋様の意図。
紋様は、過去が残した暗い靄から彼を救うために二人を導いたのだ。
それが彼女が先が見えない迷路から見つけた運命の答えだった。
学院が一日の講義を終えた頃には、外はもう当然のように夜になっていて街灯がなければ真っ暗だった。
ネルフェットは空っぽの屋敷を出て急ぎ足で門まで向かった。今日も夜遅くから文化庁との会議がある。ネルフェットの提案に前向きな姿勢を見せてくれた彼らは、仕事終わりで疲れているはずなのにネルフェットのために時間を割いてくれたのだ。
時間が惜しいネルフェットが人の少ない門に目を向けると、門の真上についた明かりのせいでそこに立っている人物の姿がよく見えた。
帰りを急ぐ彼も、その影を見て思わず足を止める。
「ごめんなさい! ミハウさん! お待たせしました……!」
大きな鞄を身体の前に抱えたトニアが門で待っていた背の高い男性に駆け寄っていく。
「いい。でも余裕もないから早く向かうか」
「はいっ!」
トニアは元気よく頷き、その笑顔が明かりに照らされる。
「ほら。チケット持ってる?」
「もちろんです! あまり見くびらないでください」
「はいはい」
トニアが抱えていた鞄をひょいっと持ち上げ、ミハウが肩から掛けた。
「あ! 重いからいいですよ……!」
「だから持つんだろ」
申し訳ないのか、わたわたと手を振るトニアにミハウが呆れたように呟く。そのまま「ありがとうございます」と素直に笑いながら歩き始めたトニアと彼女の隣に並ぶミハウの背中を、ネルフェットは近くの街灯の後ろからじっと見送る。
遠くなっていく二人からは、時折トニアの笑い声が聞こえてきた。ミハウと親しげに歩く彼女の姿。ネルフェットは一人、物語に取り残された気分に風船から空気が抜けていくような感覚に陥る。握った拳にも力は入らず、一度鼻で大きく酸素を吸った後で、彼は二人が去った方向とは違う方面へと帰っていった。
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