36 燻る香
晴天で一点の曇りもない朝。トニアは足取り軽く始発停留所へと向かう。ミハウとそこで待ち合わせをして、そのままトラムに乗る予定だ。街の中心部から少し歩いたところにある停留所は広場に面しているためか、知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうだった。トニアは目印の標識を見落とさないように進み、既に数人が集まっているサーモン色をした建物の前で止まる。
この建物もお菓子の国で建てられたみたいで興味深い。トニアが壁に並んだ半円形アーチの窓を見上げると、伸びた首の肌に引っ張られて口がぽかんと開いた。
「何か発見があったか? トニア」
冷たい空気が口内に侵入して乾燥してきたころ、トニアの隣にはコートのポケットに手をしまい込んだミハウが無頓着な顔をして並んだ。
「はい。ここは珍しくレンガ造りで、小口積みなんですね。だから、あのカーブのところとか、綺麗な曲線が描けています。滑らかですよね」
トニアは彼の問いに素直に答えた後で、ハッとして横を向く。
「ミハウさん……ッ! お、おはようございます!」
「おはよう」
トニアは巻いていたマフラーが肩から落ち、差し込むひんやりとした風に温まった肌が引き締まる感覚を知る。
「あの、朝早くからありがとうございます」
祝祭以来の対面に深々と頭を下げると、髪の毛がベールのように落ちてきた。
「混む前に乗った方がいいだろ」
「はい。そうですね。ふふ、楽しみです……!」
顔を上げたトニアは、体温と外気の差異で頬がほのかに温もりで染まっていた。ミハウは無言でこくり、と頷くと、マフラーを直す彼女をじっと観察する。
彼女が身なりを整えていると、青と白に彩られた車体がレールを揺らしてやってきた。ヴィンテージというだけあって、既に全盛期を終えたその丸みを帯びた四角い体は綺麗に磨かれた後もくすみが残っていた。
普通のトラムとの違いは、屋根の上に乗ったコーヒーカップのオブジェだろう。トニアは大型犬が一匹は入れそうなカップを目にし、「おおおお」と声を上げる。
街中を走っているところに遭遇したのも片手で数えるまでもない程度。ずっと欲しくて溜まらなかった遊具を目にした子どものようにトニアの瞳はちらちらと輝く。
順番にトラムに乗り込み、一番後ろのテーブルをミハウと挟み合うようにして座る。テーブルが置いてある以外は普通の電車。しかし視線の先には路面にある店舗のカフェと同じように小さなカウンターにカップやパンが並んでいて、早速の注文にコーヒーを注ぐ店員の姿が見えた。
テーブルに置かれたチューリップを模したライトを覗き込むように見つめ、トニアはそわそわとした心地の良い興奮に頬を綻ばせる。
ゴトン、と椅子から振動が伝わり、トニアが顔を上げると窓の外の景色がゆっくりと流れだした。不思議な感覚で風景に見惚れていると、注文を取りに来た店員とミハウが会話を始める。トニアも彼の視線に促されて急いでコーヒーとサンドウィッチを頼んだ。
周りのテーブルにカップが運ばれ始めると、立ち込める香ばしい甘さと苦さに胃が刺激され、食欲の扉が開かれた。軽食が待ちきれないトニアは、目の前にいるミハウに空腹がバレないようににこっと笑って誤魔化した。
ミハウが怪訝な表情をしたので、トニアは続けて視界をテーブルに下げる。彼女の視線は最初から置かれている紙ナプキンやシュガーの入った筒状の入れ物に吸い込まれた。
「あ……」
彼女の口から空気が抜けると、今度はミハウが首を傾げる。
「シロップ……置いてあるんだ」
「……ああ。本当だ」
トニアの呟きにミハウも視線を下げて反応した。しかしすぐにそれがどうしたと言わんばかりに眉をしかめる。
「私、マニトーアではカフェでもバイトしてたんです。だから、こういう、細かいところ? が、気になっちゃうんです。何が置いてあるのか、店によって特徴があるので」
「そう。じゃあトニアはコーヒーに詳しい?」
「多少は。でも、オーナーには敵わないかな」
気恥ずかしそうにくすくすと笑うトニア。ミハウが彼女の飾り気のない表情に目を向けると、ちょうど二人が注文したコーヒーと軽食がトレイに乗って運ばれてきた。
ようやく手にした食べ物に、トニアには満面の笑みが浮かぶ。淹れたての細かな泡が立ったコーヒーを一口飲むと、一気に身体の奥まで熱が通っていく。トニアは冷えていた身体が命を取り戻したようで、和んだ声を出す。
「トニアは、表情がころころ変わっておもちゃみたいだな」
「……え? それって……褒められてる、のですか?」
「…………」
思わず出た言葉を流し込むように、ミハウはカップを口につけ無言で傾けた。
隣のテーブルから聞こえる朗らかな会話と侵食してくる平穏な空気とは違い、外にいた時と変わらない温度を保つ二人の動静。
トニアは今日ミハウを誘い出した本当の目的を思い返し、負けぬものかとサンドウィッチを頬張る。
しかし彼女の予想に反し、次に口を開いたのはミハウだった。
「君は興味のあることに対して猪突猛進でとにかく突き進む。周りの目など構わずに。でも、そういう熱心すぎるところが、君らしくていいんじゃないか?」
カップをトレイの上に戻したミハウは他意のない眼差しでトニアの瞳を見る。トニアは彼がこぼした突然の自身への印象に、天地がひっくり返るのを目の当たりにした人間のようにきょとんとした顔をした。
そのまま吃驚仰天をこの世に表した標本になれそうな彼女の表情に、ミハウはまた怪訝に眉を歪める。
「あ、ごめんなさい。ミハウさんがそんなことを言ってくれるとは思わなくて」
トニアは驚いた余波が治まらず、考えるよりも先に声を出す。彼が彼女の感想を聞き、お気に召さない表情をしていると、トラムは次の停留所へと止まる。
車体は数名の入れ替えがあった後で再び走り出す。新たな振動が身体を巡り、かたかたとカップが小刻みに揺れた。
「だからネルフェットも、君を放っておけないんだ」
「……どうしてですか?」
不意に出てきた名前にトニアはぱちぱちと瞬きをする。彼が自分に気をかけてくれるのは、恐らくあの秘密に縛られているから。彼が楽器を演奏することがなければ、二人の関係はとうに切れていることだろう。
二人を繋ぐ秘密をミハウに言うわけにはいかないトニアは彼の見解に興味を持つ。
長年の付き合いの二人なのだから、きっとトニアの知らないネルフェットを知っている。彼女は霧のような彼の幻影に心が引き寄せられた。
「ネルフェットもトニアと同じ。やると決めたことは熱心に向き合う。昔、同じ合唱団に入っていた時も、ネルフェットは正直、音痴だった。それでもあいつは誰よりも練習を重ねて必死で追いつこうとした。俺は幸運なことに他の皆よりも上手く歌うことができたから、どうしてそこまで必死になるのか最初は分からなかった。でも、ある公演で俺が調子悪くていつもみたいに歌えなかった時、隣にいたネルフェットがすぐにカバーしてくれたんだ。まだその時もそこまで上手くはなかった。けど、そんなことよりもあいつは目の前にいる観客のことを一番に考えて、その場を取り持った。どうにか無事に歌い終えて、袖で落ち込んでいた俺のところに来て、恥ずかしそうに笑いながらあいつはこう言ったんだ。ミハウみたいに歌いたい、今日、少しは近づけたかな? って」
ミハウはテーブルに置いた手を組んで、落ち着いた調子で話し始める。
「素直に言えば、全然近くはなかった。調子が良い時の自分の歌声とは全く違ったから。だけど初めて舞台に立った時よりも確実に成長はしてた。だから俺は黙って頷いたんだ。そうしたらネルフェットは、父親に褒められた時と同じくらい無邪気に喜んだ。たった一回の公演のミス。当時、失敗に慣れていなかった俺はそれだけでひどく落ち込んでた。けどネルフェットはそんなこと、まったく気にしてない。今日はしょうがなかったね、って言って、もう次の公演を見据えて練習に戻るんだ」
すれ違うトラムが窓のすぐ隣を通り抜け、窓に反射したミハウの横顔に、トニアは当時の二人の面影を感じた。
「それから、どんどん練習を重ねて、ついにネルフェットはデュエットパートを任されるようになった。歌が上手くなっていっても、どこまでも上を目指して、絶対ミハウのソロ曲を奪ってやるって言ったりしてさ。その時俺は、あいつの情熱を見た気がした。お世辞も憚られるほどの音痴だったネルフェットがここまで這い上がってくるんだって。俺はあいつの頑張りに、なんだか救われたんだよ。だから声変わりした後も歌い続けようって思えるようになった。熱意は迷路の行く先を照らしてくれる。それを教えてくれたからな」
トニアは祝祭の日に見たミハウの懸念の手掛かりを得た気がした。ただ一方で、どこか釈然としない。トニアはまだ奥の見えないミハウの心模様を探り、控えめに表情を窺った。
「……前に、歌えるのはネルフェットのおかげだって、言ってましたよね。……ネルフェットの熱意に、勇気を貰ったから……?」
「……いいや。正確には違う。それは心理的なことだ。ネルフェットは……数年後にまた俺を助けてくれた」
「………それ、は……お父様が追放されたことと、関係が……?」
恐る恐る尋ねる。ミハウの表情は揺らぐこともなく真っ直ぐにトニアに炎の鎮まった瞳を向けた。
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