34 狂った歯車
祝祭が過ぎてから一週間と四日。トニアはどんよりとした雲を背負いながら学院を後にする。
休日の今日は学生の姿もまばらで、彼女の鞄もファイルと筆記用具しか入っていないためか薄い。
一通の封筒が鞄から飛び出したまま、彼女は昼下がりの街を歩く。
気が向けば買っている行きつけのコーヒー店の前も俯いたまま通り過ぎ、頭に乗っかった空気が重くなって歩くのが億劫になったトニアは目についたベンチに座り込んだ。
「はぁ……」
顔も上げないままため息だけを吐く。無造作に置いた鞄からついに封筒が出て行ってしまい、ベンチの上に露わになる。
「…………はぁ」
もう一度ため息を吐く。もう何度吐きだしても気が済まないほどに彼女の気分は地底の奥深くまで沈んでいた。
封筒をくしゃっと拾い上げた拍子に、一度剥がされた糊がぺりぺりと音を立てる。
彼女は親指で開きかけた封を開け、学院で一度見ただけですぐに隠してしまった紙を一枚そっと引き出した。
何度見ても書かれている文字は変わらない。
闇の落ちた暗い瞳で、じーっと睨みつけてみても効果はない。
「だめかぁ……」
紙を持つ手に力が入る。トニアはぎゅっと瞼を閉じて頭を抱えた。
今日、一週間前に受けた模擬試験の結果が返ってきた。ライセンスを取るための腕試しのようなもので、基礎試験に加えた専門試験の模試を受けたのだ。
結果は散々なもので、トニアはこれまでに取ったことのない悲惨な評価に絶望していた。
基礎試験に至っては、合格点をクリアどころではなく、満点に近いこともしばしばあったというのに。
専門試験の結果はさらに最悪なもので、覚えていたはずの問題すら答えることができなかった。
その原因をトニアはよく分かっている。
試験に集中できていなかった。いや、そもそもの勉強にすら真剣に取り組むことができなかった。
勿論、しっかりと時間を設けて問題集を解いていたし、講義も真面目に受けていた。けれど、問題はそこではなかった。
もっと中心の、精神的なものを守りきることができなかったことを彼女は認めている。
ミハウを危うく病院送りにしてしまったこと。ネルフェットとの世界の違いをまざまざと実感したこと。そして、自身が彼の脅威となり得ること。
そのどれもが彼女の支柱を揺らし、脳内に静寂が訪れる度に悪魔の如く断末魔が響く。
完全に調子が狂ってしまっている。
トニアは封筒を乱雑に鞄にしまい、肩をすくめてしょんぼりと小さくなった。
ミハウが言っていた未来の可能性。実際に会話をしたリリオラはとても気さくで、マニトーアのことを嫌っているようには見えなかった。しかし彼女も立場のある立派な大人。あれはただの社交辞令だとも解釈できる。
おまけに、自分はネルフェットの秘密を未だに知っている。誰にも語ることはなく、心に秘めたその事実は彼にとっての時限爆弾であることは間違いない。
自分がネルフェットの近くにいることは、思ったよりもリスクのあることなのかもしれない。トニアはミハウの切実な眼差しを思い返し、彼の懸念を汲み取る。
友だちだと浮かれていては、いずれ彼らの足元を崩す引き金を引いてしまう。
トニアはソグラツィオに来て一番の悲しみが心情を包み込み、こみ上げてくるしょっぱさに胸がつかえる。
「どうしよう……」
試験の本番まで猶予もそこまでない。この調子では、模擬試験と同じ結果で落ち着くことが予想できる。
大きな爪で引っ掛かれたかさぶたを何度もかきむしってしまう衝動にかられ、トニアは瞳を潤ませた。
試験の都合もあり、祝祭以降ミハウとは何回か電話で会話をしただけだった。祝祭の後、彼はしばらく宮殿ではなく借りているアパートで過ごしているらしい。気が向いたのか、トニアに連絡先を教えてくれたのだ。
初めて電話がかかってきた時には、驚きのあまり心臓が飛び出るかと思った。彼の用件は祝祭での慌ただしさのお詫びだった。ピエレットに連絡先を聞いたそうだが、意外と律儀なものだとトニアは弱っていた心を少し膨らませた。
それから、トニアもミハウの体調に変わりがないか気がかりで、彼の変わらない声を聞くために電話をかけた。
電話だろうと彼の様子は大きく変わらず、トニアの話に適度な言葉を返してくれるだけに終わる。
それでも電話を向こうから切ることはないので、トニアは彼に電話をすることは特段嫌だとは思わなかった。
試験を受けたことも話していたから、恐らく結果を悪気なく聞いてくることが推測される。自分の不甲斐なさに、彼女の忍耐を詰め込んだダムはいっぱいになってしまった。
ごそごそと鞄からハンドタオルを取り出し、涙を拭くために顔を上げる。すると、彼女の視界には真っ直ぐに大好きな人が飛び込んできた。
ジルド・マビリオ。トニアがソグラツィオに来た頃には気配すら感じなかったのに、いつの間にか街中に掲げられていた兄の姿。
国際的な活躍がしたいと意気込んでいた彼のこと。ソグラツィオの豊かな市場に進出したい気持ちは、彼もエージェントも同じだった。ライバルである他国の俳優たちとは違い、なかなか機会に恵まれず落ち込んでいた様子もよく覚えている。今回は世界共通の広告でのお披露目となったが、きっと彼は足掛かりをつかんで喜んでいるはずだ。
トニアはこぼれた涙を拭いてすぐに、また視界が滲んでいった。
家族と会話をしたのもいつが最後だっただろうか。紋様が出てからというもの、自分のことに精一杯で連絡する余裕がなかった。トニアは溢れる涙をハンドタオルで押さえ、ぐしぐしと顔をこする。
甘えてもいいのだろうか。
遠く離れた故郷の風が、彼女の脆くなった心に優しく吹き込んだ。
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