29 街角スター

 街に出た二人は、いくつかのブティックを回り、今回の祝祭に相応しい服装についてを学んだ。ネルフェットは当然のことながら見当はずれなことを言うことはなく、すべてが新鮮なトニアにとっては有益な時間となった。おまけに、突然の王子の来訪に舞い上がる店員たちの親切な知識まで得ることができた。

 すっかり不安は取り除かれ、トニアはメモに描いた服を満足そうに眺めて安堵の笑みを浮かべる。

 記念写真をせがまれていたネルフェットが店から出てくると、トニアは座っていたベンチから彼を見上げた。


「写真、撮れた?」

「ああ」

「ふふ。みんな喜んでたね、ネルフェットに会えて」

「……それならいいけど」

「あはは。照れてる」

「…………照れてない」


 街の人たちと触れ合うネルフェットの姿を始めて目の当たりにし、トニアはちょっとだけ心がふわふわと浮かれているのが分かった。

 自分のことではないけれど、彼が周りの人たちと楽しそうに笑っている姿を見ていると、凪のような優しい風が心を揺らすのだ。その感覚がトニアは好きだった。まるでお気に入りのジャムを食べた時のようで。

 ネルフェットはメモを開いているトニアの手元を見下ろし、そのまま隣に座った。手を組んでから腕を膝につき前傾姿勢になって休む彼は、トニアのことを斜め下から見上げる。


「……ミハウに聞けばいいのに」

「え?」


 トニアはメモに向かっていた顔を反射的に上げ、じーっと自分のことを見ているネルフェットと目を合わせる、


「服のこと。ミハウが招待したんだから、遠慮せず聞けばいいだろ?」

「あ……えっと……確かに、そうだね」


 腑に落ちない表情をしているネルフェットからトニアは気まずそうに目を逸らす。

 そういえば彼はミハウを尊敬していると言っていた。彼に憧れたこともあると。合唱団にいたころからの長い付き合いの彼がそう言うということは、ネルフェットはミハウのあの素っ気なさすぎる態度のことも承知している可能性はある。外面は確かに良い。しかし実際に彼に近づいてみると、あまり印象が良いとは言えない。裏表が激しい人間の典型だ。

 トニアにとってのミハウへの認識は今のところそれで落ち着いている。

 ということはつまり、ミハウを長年見てきたネルフェットは彼のそういうところに憧れているのだろうか。

 彼にとってミハウはどういった存在なのか。


(ネルフェットの理想の人のイメージって……なに……?)


 トニアは逸らした視線をネルフェットに戻し、まじまじと彼の表情を窺う。眉をしかめてトニアの反応を訝しんでいる彼の不機嫌そうな顔を見るに、この推測は強ち間違いではないかもしれないとトニアは顔を白くする。

 ちょっと不躾な態度に憧れるのも無理もないかもしれない。彼が幼いころから色々と制限されることもあったのは部外者のトニアにも分かる。遅れてきた反抗期にミハウの路線は胸に刺さった可能性もある。


「トニア?」


 じろじろと顔を見られ、ネルフェットは流石に怪しんで首を傾げた。


「あっ。なんでもないよ。んー……ほ、ほら、ミハウさん、祝祭の準備で忙しいから……!」


 咄嗟に言い訳したところで地雷を踏んだことにトニアはすかさず気づいた。祝祭で忙しいのは、この目の前の王子だって同じことだ。いやでも、主催は王だし、ネルフェットはそこまででもないかも。

 一筋の可能性にかけてトニアは誤魔化すように笑う。


「そう」


 ネルフェットは身体を真っ直ぐに戻し、納得したようにトニアから目を離す。


(嘘。本当に信じてくれた?)


 彼が憧れている存在でもあるミハウと、どう付き合っていけばいいのか分からなくて悩んでいるなんて言うのは気が引けた。だからミハウに聞いたらまた鬱陶しがられるかもしれないなんて、そんな懸念を彼女は抑え込んだ。しかしまったくの口から出まかせをネルフェットがすんなりと受け入れてくれたことが意外だった。

 ミハウはネルフェットにとって大切な友人だ。そんな彼を疑うことなんて言えないし、自分が上手くいっていないことを伝えるのも怖かった。

 トニアは街に視線を向けているネルフェットをちらりと見やり、ほっと綿のような軽い息を吐きだした。


 彼の瞳は活気に溢れた街の様子を愛おしく映し出す。積み重ねていく営みがめくるめくたびに、ネルフェットの頬が柔らかに綻んでいくのが分かった。

 彼の瞳に入っていなくとも、僅かな表情の変化すらも見えてしまうこの距離にいると、自分までもがその憧憬の一部になれたと幻を見てしまう。

 皆を包み込むような穏やかで精悍な意の通った眼差しに、トニアの心の紐は次第に緩んでいく。

 気が抜けたのだろう。だからつい、奥底に沈めていた錆だらけの鉄くずが浮かんできてしまったのだ。


「ねぇネルフェット。ミハウさんって、リリオラさんと仲が良いの?」


 ぼうっとネルフェットを見つめたまま、トニアの口は意図せず動く。


「は?」


 泡玉のような声にぽかんとしながら、ネルフェットは現実感のない顔でトニアだけを瞳に映す。


「……あっ」


 自分が何を言ってしまったのかが分からず、トニアは慌てて口を抑えた。恥ずかしさと気まずさで体温は急激に上がり、沸騰した水面のように挙動不審になる。


「な、なんでもない……! ごめん。変なこと聞いて」


 彼が見逃してくれることはなく、彼の視線は見て欲しくない不審な姿に容赦なく固定されていた。

 ミハウとリリオラの関係を聞くなんてタイミングがあまりにもおかしい。突拍子もない問いにどれほど困惑することか。彼とミハウの話題はあまり話したくなかったというのに。

 トニアは慌てるあまり開いた瞳孔がネルフェットの鋭い眼差しに刺される感覚に陥った。


「何かあった? ミハウ、リリオラのこと何か言ってた?」


 トニアの方に身体を向け、ネルフェットは尋問のように真面目な表情をする。


「違う。何もない。何もないんだけど……」


 言えたらきっと楽にはなれる。

 思考の底に隠した不安が顔を覗かせ、トニアはずしんと重力が重くなっていく。


「トニア」


 しかしネルフェットの真剣な声に、胸の奥で固く閉じた南京錠にヒビが入る。トニアは忘れようとしていた恐れが溢れる前に、彼の手元に目線を落として少しの意地を張った。


「ほ、ほら。リリオラさん、マニトーアが苦手だって……。だから、ね? ミハウさんも私といるの、苦痛に思ってたら悪いな……って。あ! わ、私は大丈夫だよ? ミハウさんのこと嫌とか、そういうのないからね!」


 本当は少し怖い。けれどそれだけは隠し通したかった。

 トニアは呼吸を整えた後で顔を上げて笑ってみせる。


「ミハウさん、声楽家だし、音楽の話とかもしたいけど……マニトーアの音楽のこととか……口が滑っちゃうかもしれないから……き、気を付けた方がいいなら教えて欲しくて」


 トニアが言い終えると、ネルフェットの眉は切なく揺らぎ、申し訳なさそうに瞳が水気を帯びていく。トニアは彼の表情に苦痛が滲んでいくことにぎょっとして、余計なことを言ってしまったことを即座に後悔した。


「ごめん……トニア。俺が余計なこと言ったから……」


 ネルフェットの声は低く、自己を戒めるように冷酷だった。


「リリオラのことは気にしなくていい。確かに彼女はマニトーアが好きじゃない。でもだからといって、ミハウも……そう、でもないと……」


 彼の言葉がつまる。喉の奥につっかえたしこりが、その先を言うことを躊躇っているようだ。ネルフェットは数秒の葛藤の後で、がばっと頭を下げる。


「本当に申し訳なかった。トニア、君は何も悪くないから。俺が無神経なばかりに」

「ネルフェット……? 何に謝っているの? 私は、リリオラさんの話聞いても大丈夫だって、前に……」


 考えもなしに口から勝手に出て行った言葉たちが憎らしくて、彼女は数分前をやり直したいと強く願った。リリオラのことに言及したのは自分のせいだ。ずっとしまいこんでおけばよかったものを。トニアはネルフェットに顔を上げて欲しくて肩に触れようとするが、臆病な心がそれをさせてくれない。

 ネルフェットは頭を下げたまま大きく頭を横に振る。


「いいや。たとえトニアが大丈夫だと言っても、俺は大丈夫じゃない。本当に、ただただ愚かだった。そうはっきりと言える」


 トニアが困惑しているうちにネルフェットは静かに顔を上げ、先ほど街を見ていた時と同じ眼差しでトニアのことをしっかりと見つめる。


「正直に白状する。俺は、マニトーアのことを懐疑的に見ていた。トニアに初めて会った時も、マニトーア人だって聞いて身構えた。君は……気づいていたと思うけど、勝手に警戒して、恐れてた」

「…………ネルフェット」


 警戒されていたことにはもちろん気づいていた。その理由を突き止める余裕などはなかったけれど、もしやと思う節はあった。しかしそれを認めるのが怖くて、トニアは他の理由を探して疑念を蔵の奥へと押さえつけた。

 気づけば彼と友だちになって、もうそんなことはすっかり忘れてしまっていた。だが、ミハウのことを見ていると、どうしても当時のことが思い起こされてしまったのだ。

 彼女にとっての唯一のヒント。ミハウとネルフェットの共通点。それが話に聞いていたリリオラだけだった。

 彼だって、彼女の様子を近くで見てきたはずだ。

 トニアは脆くも陰影のあるネルフェットの身を裂く表情に胸がつまり、ゆっくりと首を横に振った。


「ううん。恐れることは悪いことじゃないよ。ネルフェット。だから、謝らないで……」


 トニアの声はつぎはぎの心を結ぶ糸のように優しく彼のことを包み込んだ。ネルフェットは彼女の器量に自分がいかにつまらない人間なのかと思い、情けなさから嘲るように口元は揺らぐ。


「過去は、どうしても存在するから……。だから、私は、リリオラさんも責めたくない。ただ、ただほんの少しだけ不安に思っただけだから。傷口に積極的に触れられたい人なんてきっといないでしょう? だから……だからちょっと気になっただけ。ごめんね。リリオラさんは、ネルフェットの大事な人でもあるのにね」


 結局のところミハウが何を思っているのかは分からなかった。ネルフェットもあまり触れたくなさそうに見える。ならばこの話はもう終わらせよう。トニアはどうにか終結へと運ばせる。


「あ、リリオラさんって、教育係? だったんでしょう? 綺麗な人だし、ネルフェットったらラッキーだね」

「ラッキーって……」


 ネルフェットの表情が少しだけ砕けた。呆れた瞳をしているけれど、トニアは彼が自分のことを責めるのを止めるきっかけを見つけてにこりと笑う。


「ちゃんと話したことないけど、いつか話せたらいいな。あ、話してくれるかな?」

「……多分。なんか最近機嫌良さそうだし」

「そうなの? ふふ。リリオラさんってどんな人?」


 無邪気に問う彼女に、ネルフェットはどう答えればいいのか悩んだ。どうにか簡潔に言うことはできないかと記憶の辞書を探る。


「スパルタだけど、嫌いにはなれない。そんな人」

「え? どういうこと? あはは」


 思春期に両親の話をする少年のようにバツの悪い顔をしているので、トニアは思わず声を出して笑った。


「俺にとってはリリオラが親代わりみたいなもんだったし。教育ママって感じ? よくは知らないけど、イメージで。だから俺もしっかりしなきゃってずっと気を張ってて……結構大変だったんだからな」

「そうなんだ。あ、じゃあ、学院では羽を伸ばしてるんだね」

「まぁ……そうかもな」


 ネルフェットの視線は再び街へと向かう。行き交う人々は、二人がベンチに座っていることにも特別な関心を寄こさない。ネルフェットがいることに気がついていない人もいる。それぞれが自分の生活を歩んでいるからだ。その中では、王子だろうと脇役にすぎない。トニアはそんな絶妙なこの街の空気が気に入っていた。一線を画したような彼らの世界を眺め、ふふ、と顔を綻ばせる。

 彼がもっとよく知りたいと望んだ世界がここにはある。


「あ、トニア。見て」

「え? なに?」


 ネルフェットが不意に一件のお店の前に掲示されたポスターを指差す。時計の広告のようで、かっちりとした服をわざと少し気崩し、アンニュイな表情をした俳優が高そうな腕時計をして紙の中に収まっている。

 その前を若い学生グループが俳優を見て何やら湧き立ちながら通り過ぎていく。


「あの人、マニトーアの俳優なんだってな。最近は皆、歌手や俳優がどこの国の人かなんて気にもしないでフラットな感覚で受け入れてる。もちろん好きにもなるし、応援もする。どんなに規制しようとしたって、そんな勝手な願望がまかり通るわけがないんだ。表では制御できて、理想を手に入れたつもりになっても、本当の意味での制御なんて叶うわけがない。真に何かを規制することなんてできないんだよ。理屈を押し付けるだけに終わる」


 トニアはネルフェットが指差したポスターをじっと見つめ、彼の声を耳に入れる。


「それをよく分かってるのは、王室とか体制の人間じゃなくてさ、国民たちなんだよな」


 ネルフェットは芯の通った姿勢ではっきりと話す。まるで見えない誰かに敬意を捧げるかの如く。


「俺、恵まれた環境にいるはずなのにさ、全然気づこうともしなかったんだよ。俺たちが描くべきこの先の未来に、皆とどれだけ認識のギャップがあるのかって。皆の方がよっぽど王の器に相応しい。恥ずかしいことだけど」


 悔しそうにはにかんだネルフェットはトニアのことを横目で見た後で覚悟を決めたように瞼を閉じて微笑んだ。


「父が俺を後継者として認めてくれるのなら、俺はこれから、もっと真摯に世界と歩み寄りたいな」


 まだ王の威厳としての迫力などを彼から感じることはない。親しみやすくて、王子だということを忘れてしまいそうなほどに街に溶け込みかけている。

 けれどそんな彼の横顔がとても頼もしく見えた。トニアは彼の見据える希望が光の粒となって心を舞い、こちらまで勇気をお裾分けしてもらえた気がした。


「ふふふ。ネルフェットが国王になる日が楽しみ。その時は、今日学んだ服を着て、ばっちりお祝いさせてね!」

「ああ。それはいいな」


 トニアは久々に気持ちが浮き上がり、緩んだ頬が戻らなくなってしまった。ネルフェットも照れたままつられて笑うものだから、トニアはワクワクとした期待が止まらなくなる。きっと彼は、この国にもっと素晴らしい光景を見せてくれるはず。そう夢を見てしまうからだ。

 すると先ほどのポスターの前で、また別の女性グループがきゃいきゃいと騒いでいる声が聞こえてきた。二人は一斉にそちらに目を向け、楽しそうにはしゃぐ彼女たちを微笑ましく見る。


「あの俳優、最近ソグラツィオでもよく見るようになったけど、ほんと人気だな」


 感心するようにつぶやくネルフェット。実のところ彼もポスターの前ではしゃぐ女性たちの気持ちが少し理解できた。ポスターの彼はどちらかというと男性美の強いタイプで、ワイルドながらも大きな目は目尻が甘く垂れ、荒々しさと優雅さが共存したような悠々たる佇まいをしている。

 身体も当然のように鍛えられていて、同性としてつい憧れを抱いてしまいそうな容貌。話している姿を見たことはないが、インタビューを読む限り、落ち着きも兼ね備えていそうに見えた。


 ネルフェットはそんな彼に対し、幼いころにミハウに抱いた憧れと尊敬に近しいものを感じ、自分の目指す理想を掲げる対象として密かに注目していた。

 だから街中で実際に人々の視線を奪う姿を目の当たりにし、余計に尊敬の念を強めていった。

 トニアもポスターに見惚れているようで、ぼーっと真っ直ぐに見たまま視線を離さない。加えて、朗らかな様子で表情を崩し、瞳がきらきらと輝いている。

 やはり彼女もこういった男性が好みなのかもしれない。

 ネルフェットはトニアに負けないくらいじっくりと、深刻な眼差しでポスターを注視した。


「うーん……やっぱり、確かに、かっこいいよなぁ」


 そのせいか、つい思ったことが口に出ていたことに彼は気づかない。

 トニアはぶつぶつと独り言を呟くネルフェットを興味深そうに見る。まだ彼の視線はポスターのまま。


「ネルフェット」

「えっ!? な、なに?」


 ぴょんと飛んできた彼女の声に、ネルフェットはようやくポスターから意識を離す。


「ありがとう。褒めてくれて。きっと喜ぶよ」

「え? 何が? 何のこと?」


 にこにこと嬉しそうに笑う彼女が幸せそうなのは良い。しかしその理由が分からず、ネルフェットは狐につままれたように間の抜けた顔をした。


「あの俳優、私のお兄ちゃん。ジルド・マビリオだよ」


 言語を知っているはずなのにその意味が分からないとはまさにこのことだった。耳から入った言葉が文字となってぐにゃぐにゃと歪み、絡まる。

 ネルフェットはぽかんと口を開けたまましばらくの間トニアがソグラツィオ語を話したのかを頭の中で検証する。そして、ようやく彼の脳内で彼女の発言と自分の知っている知識が結びついた。


「えっ!? おっ、お兄様!?」

「うん……?」


 ついさっきまでぽんやりとした顔をしていたネルフェットの表情が一気に迫真に満ちた。トニアは彼が背後でロケットが放たれたかのように飛び上がり、声が裏返ったことにふんわりと首を傾げる。


「え? だってトニアのお兄さんって、農園継いでるんじゃ……」

「それは一番上のお兄ちゃん。ジルドは、姉の双子なの」


 トニアは動揺したままのネルフェットを不思議そうに見つめながらにっこりと笑う。


「へへへ。私は一番上のお兄ちゃんに似てるから、ジルドたちとは全然似てないんだけど……。分からないよね?」


 こくこくこくこくと、声の出ないネルフェットは何度も頷く。

 ジルド・マビリオ。活動名はジルドだけだったので、名前でトニアと関係があるとは想像すらできなかった。

 トニアも認める通り、二人は言われても兄妹だとは分からない。近くで見てみれば面影があるのかもしれないが、似ていないことは確かだ。

 ネルフェットは嫌な汗をかいたまま妙にドキドキと緊張している自分が鬱陶しくなり深呼吸をした。


「私、姉もだけどジルドのことも誇らしくって……! ネルフェットが褒めてくれてすごく嬉しい」

「そ……そう? というか俺、褒めてた?」

「うん」


 独り言の記憶がないネルフェットは考えるように天を見上げる。


「お兄ちゃん、最近ソグラツィオでも顔が売れてきて、今が頑張り時なんだって。だから私も応援してる」

「そっか、まぁ、人気あるし、きっと大丈夫じゃないか? あんなポスターだけで皆思わず見ちゃうんだからさ」

「そうかな? ふふ。それジルドにも聞かせてあげたい」


 柔らかに拍手をするトニア。本当に兄のことが好きなのだろう。ネルフェットは思わずポスターの中のジルドに目を向け、こみ上げてくる感情に目を細めた。

 自分もそんな風にトニアに見てもらえたらいいのに。羨ましさが胸を蔓延っていくのをどうにか蹴散らそうと、ネルフェットは自戒する。


「? どうしたのネルフェット。あ、もしかして……」


 執拗にポスターを見つめるネルフェットの様子に、トニアは何かをひらめいたようで身を乗り出して彼の顔を覗き込む。


「お兄ちゃんのサイン、欲しい?」


 ファンだと思われたようだ。それも間違いではない。だがそんなに感情の栓が開いていたのかと彼の中では無自覚の不安がよぎる。

 ネルフェットはトニアの親切な提案に、情けなさの滲む笑顔を返す。

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