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 あっという間に1週間が過ぎた。

 この1週間、初対面の女性の傘に入れてもらう以外は、特段変わった事はなかった。

 私は今月末で正式に会社を辞めた。

 終わりは呆気ないものだ。紙切れ1枚にその旨が記載されていた。

 よく日本語は美しいとか情緒があるとか言われるけど、ここには人の心などカケラもない日本語の文字達が綺麗に並んでいて、それはそれは美しかった。

 「____。令和◯年5月31日を以って退職とする。」

 有難いことに、お金の心配はしばらくはせずに済む。私のような人のための国の制度と少しずつだが貯めておいた貯金は2ヶ月程なら無職のまま生活しても、必要最低限度の生活を送ることが出来た。あの頃、将来を見据えてやり繰りしていた自分には本当に身に染みて感謝している。

 幾重にも前置きがされた最期の文を読み終えて、私はその文をごみ箱の底の方へ押しやった。

 呼吸は至って冷静だった。


 彼女と次に出会ったのは、その1週間後だった。

 私は気晴らしに、またあの図書館へと向かっていた。理由は、まあ。会社も辞めて晴れて無職となったアラサー独身男が気晴らしに行ける所など、きっと限られているからだ。

 私のこれと言った趣味と言えば、強いて言うなら“お気に入りの場所で寛ぎながら読書すること”だ。

 だからまた彼女に再会、というか見かけた時、1ミリも想像してなかった訳ではないけれど、…いや、1ミリでも想像してしまったからか。

 どうにも自分の居心地が悪く、むずむず痒い。

 私は、傘を貸してくれた恩人を容易く瞬時に見なかったことにした。

 これ以上関わることで、自分の失態を晒したくはなかったからだ。


 図書館についてすぐに、私は前回と同じ定位置に着席した。

 今日の天気は晴れ。

 雨の心配はいらない。

 月が変わり、空の青と葉の緑が一層主張するようになっていた。

 今朝は濃いめのコーヒーを飲んだから、もうカフェインを体が欲していなかったので、今日は珍しくオレンジジュースを頼んだ。

 本当はりんごジュースが好きだ。ここにはどうやら置いていないらしい。

 オレンジジュースをゴクゴクと飲んでから、いつもの文庫本を取り出して、いつもの栞から開いた。


 「あれ…?おにいさん?」

 今日は人が多かった。

 多かったから、彼女が声をかけてきた事にすぐに反応出来なかった。一瞬、時が止まった。

 「あ、どうも。」

 さも今気が付きました風に、少し驚いた表情も添えた。

 「こんにちわ。」

 「こんにちは。」

 「いつから来てたんですか?」

 「えーっと、いつだったかな…1時間くらい前かな…?」

 「え!私もそのくらいに来ました!」

 (ええ。知っていますよ。)

 「偶然ですねっ」

 「ほんとですね」

 「でもわたしは何だかまた会える気がしてました。」

 「え、あー…そうなんですね。私はもう会えないと思っていました。」

 (いや待て。これじゃ本当は会いたかったみたいじゃないか…?)

 「おにいさん何読んでるんですか?」

 「え、ああ、普通の小説ですよ。」

 「へー…。」

 「…あなたの方は何か調べものですか?」

 「んー、まあそんな感じですかね。」

 「そうですか。」

 少しの無言の後。

 「おにいさん、隣の席、座っても良いですか?」

 私は自分の隣の空席を確認してから、彼女の提案に驚いた。

 「え、あ…良いですけど…?」

 「あの実はそこ、おにいさんが座ってるその席。わたしお気に入りの場所なんですよね。この席から見える景色が好きで…他の席でもいいんですけど…ちょっとでも近い方がいいなって思って。」

 彼女は少し遠慮がちに笑いながら言った。

 私は彼女のこの発言で全てを理解した。なぜ彼女がこの人の多さの中から私を見つけられたのか。なぜ私に再び声を掛けてきたのか。なぜ彼女がこんなにも食い気味なのか…

 「あ、すみません…!知らなくて、どうぞ。良かったら、ここ使ってくださいっ。」

 私はガタッと椅子の音が響き渡るほど勢いよく立ち上がっていた。

 周りが一瞬静まり返ったのが分かった。彼女は驚いた顔をして、またフッと笑った。

 「いやいや!いいんです!こういうのは早い者勝ちですから。隣、失礼しますね?」

 「いや!ほんとに!どうぞ、私の後で申し訳ないですけど、ほんとにどうぞ。」

 私は彼女が隣の空席に移動するまでに出来るだけ素早く移動を終えた。

 その光景が彼女にどう映ったかは分からなかったが、

 「おにいさん、椅子取りゲームしてるみたい…」

 そう言って笑い声を堪えながら笑っていた。

 私は彼女の聞き慣れない表現の仕方に、少し恥ずかしさを感じたが、彼女に特等席を譲るという目標は達成出来たので、彼女に「笑いすぎだよ…」とツッコミを小さく入れてから、私も遠慮がちに笑っていた。

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