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このカフェは、カウンターで先に注文を済ませてから寛ぐタイプのシステムだ。
人は疎らで空席の方が多かったが、一応いつもと同じように場所取りをしてからカウンターへ向かった。
広々とした緑の絨毯と綺麗に剪定された花々と木々が、大きな窓ガラス越しから見える。ここが今日の私の特等席だ。
店員に見ない顔だな。と思われているような意味深な視線を感じながら、それに気づかないふりをしてアイスのカフェラテを1つ頼んで席についた。我ながら気にしすぎだと思う。
私はカフェラテをひと口頂いてから、窓ガラスに目をやった。
本当にこの町は自然が溢れている。ここもそうだが、緑がない場所を探すほうが難しい。私は深呼吸をした。
呼吸はいつも通りだ。
私はいつも鞄に入れている文庫本を取り出して、続きに挟んでいた栞を目印にページをめくった。
ここは持ち込みの本も読んでいいらしい。ありがたい。
1時間くらい経った頃だろうか。
居心地の良さに、つい本の読むペースの落とし所を忘れてしまっていたので、どれくらい時間が経過したのか詳細には分からなかったが、周りの空気が少しざわついたのを不思議に思って周りを軽く見渡した。
雨だ。
しかもなかなかの土砂降り具合い。
「わー!!すごーい!」
「見て見ておかあさん!!」
子供達のはしゃぐ声とその親達のがっくりと肩を落としそうな不満げな声。それらに反応して、私と同じくざわつきを察知して顔を上げる勉強中の学生達。
私がこの町に来て初めての雨だった。先程までアスファルトがじりじりと燃え始める夏のように日照りが強かったのに、見る見るこの雨に冷やされていく。
“ 篠突く雨”と“ 干天の慈雨”。私の語彙で表すならばこの2つがお似合いだと思った。
顔を上げてからしばらくはその雨音と景色の変貌ぶりに少しばかり圧倒されていたが、変わらない景色を見続けるのは退屈だし、本の続きの方が気になったので、氷で少し薄まったカフェラテをさっきより多めに口に含んでからまた本に目を落とした。
どれくらい経っただろう。
気がついた時には、周りには誰も居なくなっていた。
私は少しばかり焦った。
元々そんなに人数がいたわけではなかったが、先程まで聞こえていた子供たちの声も、さっきまで机にかじり付いていた学生達も。目の届く場所には誰も居なくなっていた。
おかしい。
そう感じた私は腕時計を見た。まだ図書館が閉館するには早い。カウンターにはまだ店員の姿もある。
たまたま人が捌けるタイミングが被っただけなのだろう。そう私は結論付けた。
しかし、そうは言っても何とも言えないこの空気感。先程までいた人達の残像を探してしまいたくなるくらいに静まりかえっている。そう言えば、図書館とは本来こういうものだったか。人が居るのか居ないのか。そんな静けさが妙に不気味に思えた。
私はだんだん居場所を失ったような気持ちになって、仕方なく図書館を出ることにした。
ほとんど泥水みたいになった残りのカフェラテを飲み干して、予想外の苦さに舌を縮めながら返却口のあるカウンターへゆっくりと向かった。
出入り口へ向かう道中さえ、誰にも会わなかった。私は足早に歩いた。
呼吸が早い。やっと外へ出られた。
まだ、雨が降っていた。
先程と比べると雨脚は弱まってはいるが、傘がなければ濡れるには十分だ。私は折り畳み傘を鞄の底から
そこから、取り出せなかった。
ない、ない。嘘だろ。朝確かに持っていくと決めたよな、私は準備しなかったのか?おい、おい…まじかよ…
この間1秒もかからない独り言が頭の中を駆け抜けていた。
「……最悪だ。」
「え?」
「……え?」
私はてっきり私一人きりだと思っていたものですから、無意識に出ていた自分の声と、聞こえるはずのない返答に、思わず疑問符をつけて返していた。
これは不味い、と己の勘が口を働かせた。
「あ、えっ……と。すみません。」
「あっいえ!こちらこそ、わたし、ボーッとしてて。話しかけられたのかと思ったんですけど…」
「あ、いえ、全然、話しかけてないです、私も。その、あの、独り言というか、つい1人しかいないと思ってたのでびっくりして…その、傘を探してたんですけど、鞄の中になくて、」
「そう..だったんですね。よかったです。 …傘はどこか、無くしたんですか?」
「あ、いや、そうではなくてその、持ってきてたと思ってたんですけど、忘れたみたいで…言い方が下手で、分かりずらかったですよね、すみません。」
「いえそんな!わたしもちゃんと聞けてなくて、ごめんなさい。」
自分のコミュニケーション能力の無さは知っていたが、こんなにも強く実感したのは今日が初めてだった。自分の失態なのに、初対面の、しかも恐らく自分より年下の女性に気を遣わせて…
私は何をやっているんだろう。
気まずい5秒程の沈黙の後、彼女はきまりが悪い私に話しかけてきた。
「あの……。」
「はい…?」
「わたし、駅まで歩きなんですけど、もし良かったら、傘、使いませんか?」
「えっ…?」
「あの、図書館、今日はもう閉まっちゃうみたいですし、中にはたぶん、もう誰もいないですし、雨も夜まで止まないらしいので、もしおにいさんが良かったらですけど…あの、1本しか傘ないのでこれしか無いんですけど……あ、帰り道もしかして逆方向ですか?」
私は何をやっているんだろう。
初対面の、しかも恐らく自分より年下の女性に気を遣わせて…おまけに傘まで借りようとしているんだから、もう、呆れて物も言えない。
そして何よりこの彼女に失礼だと思った。傘が欲しいからと言ってしまえばそれでけなのかもしれない。でも、初対面の見ず知らずのおっさんに(見た目は若く見えるが)傘に入れてやるなんて提案を果たして自分なら思い付くだろうか?仮に思い付いたとしても、提案なんか絶対にしない。
だから今の私に彼女の提案を断る理由も、術も、ない。
「あっ、…えっと駅の方です…、でも、ほんとに、いいんですか?」
「わたしは構いませんよ。」
そう言って彼女は少し微笑んだ。
「じゃあ、あの、お言葉に、甘えさせていただきます…すみません。」
「いえいえそんな!それじゃあ、…行きましょうか?」
「…はい。」
私は何をやっているんだろう。
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