ペトリコールが咲いた時

山島みこ

1



 コンクリートが湿った咽せ返る熱気より。



 心臓のあたりまで響いてくる金属と何かしらがぶつかり合う音。

 椅子の形をした分厚い鉄に、少し硬めの綿をぎゅうぎゅうに詰め込んだ茶色い生地が貼り付けられた、如何にも簡素な背もたれ。座席は適度にクッション性はあるものの、乗り心地が良いとはお世辞にも言えない。

 だが、妙な安心感があるのもまた否めない。


 乗客は片手で足りるほど。


 外はまぶしいほどに青い。


 数十秒で終わるトンネルをいくつか抜けると、右手に海が見えて来た。

 私は進行方向の左側の席に座っているものですから、窓いっぱいの海を独り占め出来ない。視界に他の座席やら手すりやらが目に入る。

 私はいつもそうだ。魔が悪いというか、考え過ぎというか、足踏みをしすぎて自分で穴を掘って抜け出せなくなるというか、

 まあそういう節がある。


 それなら右側の座席に移動すればいいじゃないかって? 

……そこまで海が見たいわけじゃない。


 決して言い訳ではない。ただ、もし右側に座っていれば今頃海を特等席で見られたのに、左側の席を選択してしまった自分が許せないだけだ。選べる機会があったのに、間違った選択をしてしまった自分が、何ともはがゆいのだ。

 最初にここだ。と自分で決めたくせに、その選択をはいはいそっちが魅力的だからそっちに乗り換えましょう。 …とはいかない。そんな簡単な思考回路は持ち合わせていないのだ。

 少なくともその簡単な思考回路があれば、私は今ここには居ないだろう。

 次にこの電車に乗る時は絶対に右側の席に座ろうと心の中で自分に約束しながら、左側の野山と畑に目を流した。





 少しの間眠ってしまった。心臓に響く音も慣れれば心地よいものになる。仕事もそうだ。慣れてしまえばどうと言う事はない。

 左側の野山と畑はいつのまにか森になっていた。森、と言うよりどうやら谷を走っているみたいだ。外の窓に時々、木の枝が少しだけ触れてしまう程には近い。

 こんなに木を近くで見たのはいつぶりだろうか。子供の頃はよく色んな大きさの木の枝を意味もなく集めて遊んでいた。今となっては何が楽しかったのか分からなかったが、あの頃はとにかくよく笑っていたのを何となく思い出す。

 その時、急に視界に飛び込んで来た。鹿だ。2頭。親子か?片っぽだけ体が小さかったな。

 谷の少し開けた険しい場所に、生い茂る草木の中の木漏れ日に照らされながら、こちらをじっと見ていた。

まるで置物かと思うほど美しかった。

 その佇まいと毛並みの輝きに思わず息を呑んだ。通り過ぎるほんの1秒だったと思う。その1秒が永遠かと思えるくらいには、私の脳裏に焼き付くには時間を要さなかった。


 通り過ぎてから、スマホで写真を撮れれば良かったな。と思ったが、すぐにその思考は捨てた。

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