王子の苦悩
忍野木しか
第一章
プロローグ
富士峰高校1年B組、
平均より数センチ背が低い。猫っ毛の天パ。眼鏡の縁にかかる黒髪。趣味は読書と植物観察。内向的で友達が少なく、昼休みは旧校舎裏の木陰で過ごす。
小学生の頃のあだ名は「王子」
初夏の晴天。暑苦しいクラスの開け放たれた窓。教壇で話す世界史の教師、福山茂男の声がはためく白いカーテンに隠れ青い空の向こうへと飛ばされていく。
恋をしているのかな……。
消しゴムの表明を親指で擦っていた吉田障子は、先程から、斜め前に座っている女生徒に心を奪われていた。静かな夏の風に三原千夏の長い髪をサラサラと流れる。細い毛先。眩い日差しに煌めく黒髪。授業中にも関わらず障子はその黒板を見つめる千夏の可憐な白い頬から目が離せなかった。
「こら! 授業に集中せんか!」
ビクッと肩を震わせた障子は慌てて黒板に向き直ると、咄嗟に、小声で「すいません」と謝った。
だが、福山の視線は廊下側の田川明彦に向けられていた。お調子者の明彦はまるで自分以外の誰かが注意されたかのようにキョトンとした表情をすると、キョロキョロとクラスメイト達を見渡し始める。ドッとクラスに笑い声が広がった。ほっそりとした指で唇を覆った千夏の笑顔が眩しい。あまりの恥ずかしさに全身から汗が吹き出した障子は、こっそりと机の中から下敷きを取り出すと、俯きがちに制服の中を扇いだ。
世界史の授業が終わると昼休みのチャイムが教室に鳴り響いた。途端に騒がしくなるクラスメイト達。仲の良い友達と集まって弁当箱を開く女子。購買に走る男子。中には部活の練習の為に着替え始めるものもいた。
のそっと立ち上がった障子は弁当箱を両手に持ち上げると教室を抜け出した。階段を降りると正面玄関に向かって歩みを進める。日陰の涼しい昇降口で運動靴に履き替えた障子は誰もいない旧校舎裏を目指した。
古い木造の校舎には演劇部の女生徒たちが出入りしているらしい。だが、昼休みの旧校舎は静かだった。裏に回るとグネグネと折れ曲がった大きなシダレヤナギがあり、そのヤナギの木には戦前の女生徒の幽霊が出るという噂があった為に、一部の生徒を除いて誰もその木に近付こうとはしなかったのだ。幸いにも、障子はまだその幽霊に出会ったことがなかった。
そよ風に流れるシダレヤナギの枝を眺めながら昼飯を食べるのが障子の日課である。さっそく特等席の石段に座ると障子は弁当箱を開いた。
障子には「王子」というあだ名があった。本人にとっては全く有り難くないあだ名ではあったが、それを付けてくれたのがまだ小学生に上がったばかりの頃の三原千夏だった。その「王子」というあだ名は小学生の頃に流行して、中学に上がると風に吹かれる塵のように何処かへと消えてしまった。中学生の頃の障子は今よりも多感で臆病でよく学校を休んでいたのだ。
障子は「王子」というあだ名は大嫌いだった。未だにそれでからかってくる者もいるくらいなのだ。だが、あだ名を付けてくれた千夏の事はどうしても忘れられなかった。
何で僕に王子というあだ名を付けたのだろう。名前が似ていたからだろうか。もしも別の理由があるのなら、聞いてみたい……。
静かに流れるシダレヤナギの青葉。赤いソーセージを箸で持ち上げた障子は、ため息を付きながらそれを口に運んだ。
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