【書籍試し読み増量版】異世界薬局 1/高山理図

高山理図/MFブックス

一話 異世界転生前日譚

 西暦二OXX年、日本。

 日本の薬学研究をリードする国立T大学大学院 薬学研究科。

 世界に名だたる成果を出し最先端の研究環境にある研究室に、准教授として勤務する、とある薬学者がいた。

「先生、製薬会社の方が共同研究のご相談にいらっしゃいました。それから来月の国際学会の飛行機を予約しておきました、後は予算執行報告書をメールで送付しましたのでご確認ください」

 准教授室のデスクの前に今後のスケジュールを確認に来た秘書に、彼はコーヒーを含みながら応じる。

「今月も予定がきついな。来月は……、来月も学会が立て込んでるな。どこで調整しようかな」

「あの、先生。ご予定もですがお体は大丈夫ですか? 昨日も徹夜だったのでは」

 秘書が彼の体を心配していた。そうしていると、准教授室をノックする音が聞こえる。

やくたに先生、お忙しいところ失礼いたします。論文を見ていただけますか」

「研究で行き詰まっているのですが、データを持ってきたので相談に乗ってください」

 多くの大学院生や研究者も、薬谷の准教授室にひっきりなしに押しかけてくる。

 彼は嫌な顔一つせずに彼らに応じ、全ての仕事を完璧にこなしてゆく。

「いいよ、明日までにやっとくから」

「成果報告書を書きました、確認とサインをお願いいたします」

「ああ、もう目を通したから事務に回して」

 息つく暇もなく働くと、すぐに時計は深夜を回る。

「おや、もうこんな時間か」

 栄養補助食品を夕食代わりに貪り、ぱさぱさとした食感に構わずコーヒーで流し込みながら、最新の英語論文に猛烈なスピードで目を通し、世界の研究成果をリアルタイムで把握してゆく。いくつもの研究テーマを同時にこなし、わき目もふらず研究に明け暮れる。そんな彼は、研究熱心な性格が結実し、これまでに難病の新薬を世に送り出してきた。

 彼の成果は世界中で熱望され、世界中の人々は彼の活躍に期待を寄せる。

 彼のもとには多くの研究者と仕事、そして研究資金が集まり、激務の中に身を投じていた。


 デスクの上に並べられたアラームの一つが鳴る。

「さて、自分の実験の時間だ」

 昼も夜もなく大学の研究室に泊まり込むのは、いつからか彼にとっての日常になっていた。若くして准教授にまで出世してしまうと、研究者としてより教育者としての側面も求められる。学生への講義も実習もあるし、研究指導者として学生の研究も見なければならなくなる。教授からの課題も押し付けられ、会議も増え、教科書の執筆依頼、学会への招待講演も断れない。共同研究もいくつも持ちかけられ、日本と海外を飛び回る。

 だが、彼はあくまで創薬研究の現場にいて、自分自身の研究テーマに取り組みたかった。

 そこで、研究の時間が減ってしまった穴埋めに夜や休日を充てているのだった。

 そうやって血の滲むような努力で捻出した時間を使い彼の新薬開発が成功すると、また仕事は雪だるま式に増えてゆく。まさに彼は研究のため、彼の人生の全てを捧げていた。

 自分の創った薬で、地球上からありとあらゆる病気をなくしたい。

 もっと、もっと、もっと人を癒したい。そんな理想を胸に秘めながら。


 飾りっ気のない彼のデスクに、たった一つだけフォトフレームが置いてある。

 フレームの写真の中で、海水浴を楽しむ九歳と四歳の兄妹が元気な笑顔を向けていた。知らない人間からは、「お子さんですか?」と聞かれることもあるが、彼は曖昧にごまかして詳細を語らなかった。

 そこに写っているのは、幼い彼自身と、そして彼の妹だった。

 妹は四歳のとき脳腫瘍をわずらい、彼はその後二年間、妹の闘病を支えていた。手術に放射線治療、抗がん剤の投与など辛い治療に耐え、最後には歩けなくなって意識が朦朧とする中、それでも懸命に病魔に立ち向かい、治癒を信じていた妹。だが、そんな彼女をあざ笑うかのようにがんは彼女の体を痛めつけ、生への気力を奪い、そして彼女の未来を永遠に奪ってしまった。少年だった彼は知識も力もなく、衰弱してゆく彼女をただ励まし、彼女に寄り添い、快復を信じ、彼女の手を取って看取ることしかできなかった。

 そうして彼女は亡くなった。

 手術で脳の中のがんを取り切れなかったのだと、後に医師から聞いた。

 取り切れなかったがんに薬が効かなかったのだ、と今は亡き両親から聞いた。仕方がなかった、運が悪かった、と両親は諦めの言葉を述べた。

 大人たちの言葉は、少年だった彼の心を奮い立たせた。

『諦める? 運が悪かった?』

 手術で取れなかったとしても、飲むだけで効く薬があればよかったのではないか。単純な解決法だ、と彼は思った。そして彼の中で、妹の死という出来事は人生の転機となった。

『ならば創ってやる。副作用の少ない、これまでより少しでもよく効く薬を』

 もうこんな思いはたくさんだ、大切な人を失い心を引き裂かれるような痛みを、ほかの人間が味わうのももうたくさんだ。世界のあちこちで人々をむしばむ病と、病がもたらす死というもの。

 誰かに押し付けて逃れることもできない、一人一人の疾患との戦い。

 その戦いを真に手助けできる、気休めでなく真に患者に寄り添える、心強い武器を創りたい。

 人が病気になるのは偶然であり運命かもしれないが、薬に効果があるのは必然でありたい。

 自分自身が創薬の最前線に立って、世界中から病気を一つずつ駆逐してやろう。

 彼はそんな、薬学者としてはいささか不遜な理想を、今も一途に抱き続けていた。

 過労と激務によってたびたび体を壊し、気力を擦り減らすたび、彼は妹の写真をぼんやりと眺め、存在しない妹の未来と彼女の幸福を想像する。

 愚直に、ひとすじに、いつしか世界の最先端を突き進んできた薬学の道。疾患の撲滅と、人々の病苦からの救済。それは、彼の人生を賭けた闘争だった。

 とはいえ、患者のためを思いながらも、彼は研究室や学会で大半の時間を過ごし、患者と直に接する機会を失って久しかった。

「お疲れさまです。先生はまた今夜も徹夜ですか?」

 彼と同じく深夜まで働いていた女性助教が、申し訳なさそうに声をかけ、帰りの挨拶をする。

「お疲れさま。ああ、そうだな。今夜は外せないんだ、新薬の効果を調べているからね、投薬後一時間おきにデータを取っている」

「昨日もそう仰っていました。毎日外せないのですね」

「まあ、うん。そうだな、仕方ないよ」

「体を壊しますよ。学生や研究員も使って、下に仕事を投げてください。薬谷先生のようにうまくはできないかもしれませんが、それも教育の一環ですし」

「自分の体調は自分で管理するって。仮眠も取るし。一刻も無駄にできないんだ」

 彼は体裁が悪そうにあくびをして、伸びをした。部下に心配をかけるのは、あまりよくないことだと自覚してはいた。

「俺たちは薬学者なんだから」

 それを聞いた女性助教は心底心配したように、多少の諦めも混じった息をつく。

「私も薬学者として申し上げますと、薬谷先生は働きすぎだと思います」

「ああ……分かってる、ありがとう。プロジェクトの区切りがいいところで、少し仕事を減らすよ」

 とはいえ彼は仕事を減らしただけ、また新しい仕事を入れるような困った性格だった。

「そうしてください。本当にそうしてください」

 助教は彼を気遣っていた。過労をしているという、自覚がないようだったからだ。

「患者さんのためを思うと、どうしても結果を急ぎたくなってね」

 彼はいつだってそう言う。患者さんのためだと。

「お気持ちは分かりますが、やりすぎです」


 深夜の実験室の入り口に職員証を兼ねたカードキーをかざすと、電子音がして開錠される。個人認証を経て入室し、蛍光灯の下で一人、彼はほぼ普段着と化しつつある白衣に袖を通した。

「患者さんのため、か……」

 患者。彼は自分の口から飛び出した言葉に、漠然とした虚しさを覚えていた。それは彼にとって、いつも一番に考えているつもりでありながら、いつからか縁遠いものとなっていた。

 彼が過ごしているのは患者ではなく夥しい量の薬品や装置と、地道な研究と向かい合う日々だ。

(俺は、本当に患者さんのためを思ってこうしてるんだろうか)

 最新の機器を駆使し、遺伝子や生体物質から生のデータを解析し、より意味のあるものへと整理してゆく。

(俺の造った薬は患者さんに届いて、その人たちを癒しているんだろうか?)

 実験を終え、力の抜けた手でするりとプラスチック手袋を廃棄する。

「三時四十二分終了、と。次は四時四十二分開始か」

 メモ用紙が切れていたので、右手首に装置の測定時間を水性ペンで書いた。

(患者さんと向かい合って話したのはいつ以来だっけ)

 そんな自問をいくつとなく重ねながら、彼は白衣を脱ぎ、次の実験にスムーズに移れるように身分証を胸ポケットに突っ込んで、研究室のソファで寝袋にくるまり、いつものように仮眠につく。

 アラームは一時間後にセットされた。

「ゆくゆくは、町の薬剤師にでもなるかな……体を壊さなければ」

 周囲から寄せられる彼への期待と、数年先まで埋まっているいくつもの研究プロジェクト、准教授としての彼を取り巻くしがらみが、しばらくはリタイアを許してくれそうにはなかったが。


 一時間後、鳴り響いたアラームの音が彼を起こすことはなかった。

 彼はその世界で、永遠の眠りについた。

 死因は急性心筋梗塞、典型的な過労死だった。

 極限の生活はとうとう終わった。彼の肉体が限界を迎えたのだ。

 薬学者でありながら、常に患者を思いながら、患者の傍にいることもなく、自らを養生することを忘れていた、彼が歩んだのはそんな人生だった。

 薬谷かん

 享年三十一であった。

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