第16話 花咲くとき
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
当たり前だが、部屋の中は真暗だった。
玄関を開けた瞬間、こじんまりとした生活の香りが、鼻につき、栞は安堵のため息を漏らす。
それと同時に、一人暮らしの寂しさを痛感するのであった。
「ただいまぁ」
誰もいないのに、そうやって呟くことがクセになっている。
しかし
「ただいまぁ」
と言う声が部屋の中から聞こえてきた瞬間、栞は小さく悲鳴を上げて飛び上がった。
そして、昨日拾ってきた『人』がいることを思い出すと、驚いてしまった自分を笑いながらも胸を撫で下ろす。
手探りで電気をつけると、蛍光灯が二・三度瞬きをして昼間のような明るさを演出する。
今朝と同じように、テレビの横にその人がいる。
けれど、心なしか背が伸びているように見えた。
「水を飲んだのね」
その人の前に置いていたコップが空になっている。
その人の足元がほんの少し濡れて、そこだけ、水で色が濃くなっているのもわかった。
「水を飲んだのね」
相変わらず、オウム返しは変わらないようだ。
栞はいつものようにベッドでビールを開けながら、どうすればその人と会話が出来るようになるのかを考え始めた。
水を飲んでいたのだから、きっと意思はあるはずだ。
ああしたい、こうしたい。
という願望や欲望。
しかし、それを表へあらわす為の手段を、まだ持ち合わせていないのだろう。
ぼんやりとその人と見ていると時折手を動かしたり、首を傾げたりという動作も見られる。
意思があり、意識もあり、確実にその人は生きている。
「そうだ!」
何か言い案を思いついたのか、栞が嬉しそうに声を上げた。
その人のオウム返しを聞きながら、バッグの中から一枚の写真を取り出す。
一ヶ月前、日帰りで社員旅行へ行った時の集合写真だ。
自分と一哉が映っている写真は今のところ、これ一枚しかない。
栞にとっては宝物だ。
「これを見て」
その人の前に、写真を差し出す。
「これを見て」
言葉を繰り返すが、写真を見ようとはしない。
栞は写真をその人の目の前にかざし、「見えるでしょう?」と聞く。
その人の目が機能しているのかどうか栞はわかっていなかったが、何もしないよりはいい。
オウム返しが出来るのだから、耳は聞こえていて声も出せるのだ。
だとすれば、どうにかしてコミニケーションを取れるはずだ。
「この人、一哉さんっていうのよ」
「この人、一哉さんっていうのよ」
「そう、一哉さん。だからね、今日からあなたの名前は……一哉」
自分でそう言いながら、また頬が赤くなるのがわかった。
この人に向けて、一体なにを言っているんだろう。
あろう事か、自分の好きな人と同じ名前をつけようとしている。
それ以前に、故意に他人と同じ名前を付けられるなんて、嫌に決まっているではないか。
「一哉」
「へ?」
「俺の名前は、一哉」
その人が、自分の言葉でハッキリとそう発音した。
一人称が『俺』ということは、この人は男だという事にもなる。
いままでオウム返ししかしなかったため、栞は声も上げず驚き、目を丸くする。
「そう、あなたは一哉」
「俺は、一哉。よろしく」
意外なほど簡単に会話が出来るようになり、驚きながらも、嬉しさと戸惑いが一緒になってあふれ出しそうになる。
まるで、本当に一哉がそこにいるようだ。
「君は、栞」
「そうよ、私は栞。私の言葉を覚えてたのね」
「覚えてるよ。君は栞」
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