小話三、噛み合うピース

 この春、あたし河原奈緒は中学生になった。中学校の制服もまだ着慣れないうちに、あたしは一つの壁にぶち当たっていた。勉強だ。

 科目別に先生がいて、小学校に比べれば内容の複雑化した授業。望んで入ったとはいえ、時間と、体力を奪っていく部活。このままではいけない、何とかしないと、と思う内に段々授業の内容が頭に入らなくなってきた。

 そんな五月中旬のこと。席替えをして日が浅い内の英語の授業で、英語を担当する板橋先生に指された。

「河原さん、では本文中の、“It is very cute.”の“It”は何の事を指しているかしら?」

あたしは答えが全く分からず、固まってしまった。分かりませんと言おうとしたとき、後ろから小さな声が聞こえた。

「マキの鉛筆」

「え」

 それが先生の問いの答えだと気が付いた時には声に出していた。

「『マキの鉛筆』、です」

「great」

 ほっとした。助言をくれたのが誰かは咄嗟には分からなかった。誰だか分からないけれどありがとう。そんなことを思ってから、気が付いた。聞こえてきた声は、真後ろからだった。真後ろにいたのは、見た目も中身も優等生そうな、広瀬麻結だった。

彼女は、そんな表面上取り繕うような、そんな手助けはしないと思っていたから、少し意外だった。

 板橋先生の目を盗んで後ろを振り返り、小声でお礼を言う。

「さっきはありがとう、広瀬さん」

 彼女は柔らかく微笑みながら、同じく小声でこう言った。

「どういたしまして」


  ◇


 英語の授業の一件があってから、あたしは広瀬さんの動向を少し気にかけるようになった。とはいえ、お互いクラス内で行動を共にする「友達」はもういたため、特段接点はなかった。

 そんな状況が変わったのは六月上旬の午後イチの体育の授業だった。その日は朝から雨が降っていた。種目自体は体育館で行うバレーボールだったから、特に問題はないはずだった。雨による湿気で、床が少々滑りやすくなっていた以外は。

 誰かが倒れた音がした。あたしがいるチームは休憩中だった。音がした方を見ると、広瀬さんが蹲っている。試合中に転んだようだ。左足首を押さえ、苦痛に顔をゆがませていた。

 あたしは咄嗟にコート内に入り、保健室に行くかどうか相談している桐谷きりたに先生と広瀬さんの間に割り込んで、言った。

「あたしが保健室に連れて行きます」

「でも、悪いよ。自分一人で…」

 広瀬さんがか細い声で言う。それに覆いかぶせるように桐谷先生が広瀬さんに言う。

「いや、河原に頼もう。今日、米澤先生は午後から外出の予定だ。もしもう出かけられていた場合、一人では処置できないだろう?」

 そして、桐谷先生は、あたしに向かってこう言った。

「河原、簡単にでいいから、足首を固定して、保冷剤か何かで冷やしておいてくれ。他の生徒に指示を出したら保健室に行くから、それまでの間、頼む。出来るか?」

「はい」

 あたしはしっかりと頷きながら返事をした。


  ◇


 広瀬さんを支えながら保健室に移動すると、桐谷先生の心配は的中していたことが分かった。保健室に、米澤先生はおらず、鍵も掛かっていた。あたしは職員室にいた三浦先生に声をかけ、鍵を開けてもらった。あとから桐谷先生が来ることを伝えると、三浦先生は保健室を後にした。あたしは戸棚から包帯を探し出し、広瀬さんに入り口に近い方のベッドに上がってもらって、左足首を出してもらった。

 まず、足首に包帯をまわし、次に足の裏から足の甲を通ってまた足首に、八の字を描くように巻いていく。

「すごいね、河原さん。私、こういうの全然なんだよ」

 巻いている最中に広瀬さんが言う。

「そんなことないよ。なんとなく、こうかなって感覚だもん」

「でも、それができないんだ。私には」

 広瀬さんがそんなことを言う。運動ができないのはこれまでの体育の授業で分かっていたものの、処置は出来そうな気はしていた。成績優秀な彼女には、知に対しての死角はないと思っていたから。だから、運動の他に、こんなことが不得手だとは思っていなかった。

「そうかな?」

「そうだよ」

 広瀬さんと会話をしながら、包帯を巻きあげる。

「私、もっとちゃんとしなきゃいけないの。だから、本当はこういうこともちゃんと分かっておかなきゃいけないんだ。知識として知っているだけじゃなくて、ちゃんと使えるように。今の河原さんみたいに」

 あたしは保健室内の冷蔵冷凍庫から保冷剤を探して、包帯を探している間に見つけたタオルをその保冷剤に巻いた。

「そんな、大層なものじゃないよ」

「河原さんにとってはそうかもしれないけれど、私にとってはそうだよ」

 タオルに巻かれた保冷剤を広瀬さんの左足首に当てる。

「それなら、さ。あたしだって、広瀬さんのことすごいって、思ってるんだよ?勉強とかそつなくこなせてさ。あたしには無理だもん。この前も助けられたし」

「いや、それこそ大したことしてないよ」

「大したことだよ。あたしにとっては。それこそ救いの手、いや声だったから」

「大げさな」

「ホントだってば」

 二人して、笑う。静かに、笑顔が自然に浮かんだ。

「ねえ、広瀬さん。あたし、広瀬さんと仲良くなりたいな。あたしの無くて、広瀬さんの持っているものを、あたしに教えてほしい」

 言葉は自然と出た。彼女をもっと知りたかった。あたしにないものを持っているのに、あたしをすごいという、彼女を。

「私も、仲良くしてほしいな。友達になってくれる?」

儚げな顔でそういう彼女は脆くて、それでいて可愛らしかった。

「うん」

 あたしはすぐに頷いた。

「よろしくね。

 広瀬さんは一瞬驚いた後、再び微笑んでこう言った。

「こちらこそよろしく。


  ◇


 程なくして桐谷先生が保健室に到着した。包帯の巻き方などを見て、直す必要の無いことを確認し、あたしと桐谷先生は授業に戻った。広瀬さんはそのまま更衣室で着替えて教室で待機することになった。

 授業が終わり、教室に戻ってから、あたしは早速麻結に話しかけに行った。

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