5.手を繋いで歩きませんか?-11
「……」
言葉が消えた。エルヴィーラはもう語らない。ランヴァルトも返す言葉が見つからない。
ここに至って、相互不理解だと云う事を理解しただけになってしまった。
これから先ずっと側にいても、エルヴィーラはランヴァルトの恋い慕う気持ちを理解してくれない。ランヴァルトもまた、エルヴィーラの在り方を理解してあげられないだろう。
二人が一緒にいても、何も変わらない。何も生まれない。劇的な展開など転がってもこない。ただただ無意味な平行線が横たわり続ける、それだけだ。
(…………それでも)
右手を動かす。握り、開き、固まっていた体を少しだけほぐした。
(分かり合えなくても……)
持ち上げた右腕。エスコートする時のように手の平を上にして、エルヴィーラへと差し出した。
エルヴィーラは動かない。両手で持った扇子で顔を隠し、僅かに俯いていた。
ピシリと、ヒビの入る音。ついに『万年胡桃』へ亀裂が走った。竜種クラスでなければ傷付けられないと謳われた世界最硬度の木材が、エルヴィーラに負けたのだ。
――それでも、手を差し出した。
「エルヴィーラさま」
呼びかける。扇子が少しだけ下がり、エルヴィーラの目が見えた。俯いた影の中で、財貨の金が揺らめき、輝いている。
エルヴィーラはランヴァルトの顔を見て、差し出した手を見て、停止した。
「僕には……やっぱり、分かりません。貴女がどうしてそこまで、僕を守ろうとしてくれるのか。僕と云う人間を選んだ理由を聞いても、理解出来ません」
「……そうですか」
「でも、嬉しかったです」
エルヴィーラの顔が上向く。影で無くなった顔、瞳は日光を反射して鉱質の輝きを見せた。
「分からなくても……嬉しいです。僕の事をいっぱい考えてくれて、僕のために色々な事をしてくれて……。僕のためにそこまでしてくれる人は、世界中どこを探しても、異世界にだっていません。貴女だけが、僕を救ってくれた」
「……」
「貴女の事が知りたくて、僕が選ばれた理由が知りたくて……聞けば分かると思っていたんです。傲慢でした。貴女の心は貴女だけのもので、聞いたところで理解出来るなんて決まってないのに……話しをすれば分かり合えるって、愚かにも思い込んでいました。そんな訳がないのに」
「……」
「話し合っても分かりません。一緒にいても、理解し合える日は来ないと、思います。僕らはきっと、平行線のままです」
「……」
エルヴィーラから答えはない。それでもランヴァルトは語りかけた。ほんの僅かでもいいから、理解されなくてもいいから、ランヴァルトの心が伝わってくれないかと願いながら。
「……それでもいいと、エルヴィーラ様も、思って、くれますか」
「……」
「分かり合えなくても、理解出来なくても、隣りを歩く事は出来ると」
「……」
「恋でなくてもいいんです。人が決めた感情の名前に、貴女の心を強引に押し込めなくても、いいんです。一生その感情に名前が付かなくっても構いません。僕はエルヴィーラ様をお慕いし続けます。どうか僕と……手を繋いで、歩いてくれませんか」
「……」
ランヴァルトの顔と手を、エルヴィーラは交互に見た。迷っている、悩んでいると云うより、困っているように感じる。
『万年胡桃』さえ破損させる自身の手が、脆いランヴァルトの手を壊してしまわないかと。
「……貴女なら、大丈夫です、エルヴィーラ様。貴女は絶対に、僕を傷付けない」
「……」
「信じています。知っています。……ずっと、見てましたから」
恋を無駄な感情だと云ったエルヴィーラ。その想いを抱き続けたランヴァルトを否定する言葉だ。でもランヴァルトは傷付かなかった。
彼女はランヴァルトからの恋慕を、いらないとは一言も云っていない。分からないとは云った。人類が獲得した不要な感情だとも。でも、「私を好きになるな」と突っぱねる事はしなかったのだ。
それだけで善かった。ランヴァルトには充分だった。
「……」
エルヴィーラはやはり無言のままだ。
扇子が閉じられる。両手が一度下ろされて、それから左手だけが持ち上がった。そろそろと、ガラス細工へふれるような慎重さで、ランヴァルトの手の平へエルヴィーラの手の平が重なる。
ランヴァルトより小さな手。けれど比べものにならないくらいに、強い手だ。
重ねられた手が嬉しくて、優しく握りしめる。
「手を繋ぐことから、始めましょう」
「……それだけで、善いのですか」
「いいと思います」
「……あなたの感情を、私自身の感情を、理解出来なくても、ゆるされますか」
「誰も咎められませんよ。僕らがよければ、それでいいんです」
「……そうですか」
エルヴィーラが唐突に歩き出した。いきなりの事に
さくり、エルヴィーラの足下で芝生が揺れる音がした。風の音も、木々のざわめきも、人の気配も、いつの間にか戻っている。
歩くエルヴィーラの隣りへ並んだ。前を向いて歩く彼女の顔は無表情のまま。けれど体温があった。
「……僕、どこへも行きません」
「行かないのですか。自由に、どこへでも行って構いません、何をしても善いのですよ。私が全て保証します。苦労などさせませんが」
「なら、ここがいいです。貴女の隣りに、ずっといます」
「…………」
エルヴィーラがこちらを見た。無表情で、煌めく金の目で、ランヴァルトをじっと見つめて来る。
ふと、その表情がほころんだ。目が柔らかく緩んで、口元が優しい弧を描く。
ランヴァルトが知る限り誰にも似ていない、日向のように穏やかで静かな笑みだった。
「――よしなに」
一言だけ告げて、エルヴィーラは前を見て歩く。庭はちょっと歩いたところで端が見えないくらい広かった。まだこの歩みはしばらく止まらないだろう。
ランヴァルトは置いて行かれないようにしながら、また体が熱病の如く熱くなった。勝手に涙が出てくる。心の中であらゆる感情が渦巻いて、叫び出したくなる。
――今見た笑顔こそ、エルヴィーラ本人のものなのだと、分かってしまった。
(ずっと、こうして、歩いていたい)
声を漏らしたら耐えきれなくなって、大声を上げて泣き出してしまいそうで、ランヴァルトは心の中だけで祈る。
この手を離す日が来ませんように。エルヴィーラの隣りにいられる日々が、ずっと続きますようにと。
天にでは無く、エルヴィーラ自身へ、ランヴァルトは祈ったのだった。
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