3.脚



 生まれた時からずっと、頭を下げ、体を縮こませ、息を潜めて生きてきた。

 走って逃げる時はいつも、仕方が無い時。死ぬほど痛いのが目に見えていて、でも抗う方法が他に見つからない時。仕方が無いから、走り出す。無我夢中で、その一歩を踏み出す。

 村の子供たちに石を投げられた時、長老に井戸の縁で背を押された時、父親に掴みかかられた時、母親が斧を振りかぶった時、この脚はいい働きをしてくれた。

 この脚のせいで死にかけて、この脚のお陰で生きている。呪われた、愛すべき両脚。


 俺の、毛むくじゃらの両脚。


「……っ!」


 垂直に、飛んだ。その真下で、腐敗した犬の口が閉じられるガチッという音がした。


「走れ! 逃げろ! 走れ!」


 カノウが犬の顔を足で蹴り飛ばし、手招く。怖気るように半歩引いたハナコの腕を掴み、反対の腕でハレを小脇に抱えエンショウは走り出す。


 走馬灯っぽいの見たな……。


 前を走るカノウたちの背を全速力で追っていると、思い出したように冷や汗が吹き出してきた。

 あのゾンビ犬が突っ込んできた瞬間、視界に移る全てがとてつもなくゆっくりに見えた。避けたのは、無意識だ。あのまま突っ立っていたら、脚を食いちぎられ、死んでいただろう。

 流石にこんな場所で、こんな状態では死にたくはない。……まあ、死んだ連中みんな、死ぬ前にはそう思うのか。死ぬことを考えているのは良くない気がして、前向きになるために、未来のことを考えることにする。

 俺、生きてここから出られたらさ、みんなと一緒に酒をあおりながら肉をたらふく食うんだ――


「ねぇ」


 ふと、ハナコに呼び掛けられ、エンショウは我に返る。そういえば彼女の腕を掴んだままだった。だが、まだ後ろからゾンビ犬のものと思しき唸り声がしているし、前を走る前衛が止まる気配もない。

 ハナコには申し訳ないがもう少しこのまま走らせてもらおう、と腕を離すことなく「どしたん!」と返すと、「迷宮から出る方法、多分わかったわ」とハナコは平時と変わらぬ声のトーンで言った。


「え!? 出る方法!?」


 思わず素っ頓狂な声を上げる。それに対してハナコは「ええ」と頷く。


「さっきのカノウさんの話がヒントになった。冒険者にとって出口のことはわざわざ話す程のことじゃないんだわ。つまり、出入り口には大したギミックは施されてない。ワープさせられたり、なんらかの条件付きで閉じ込められているわけでは、多分ない」

「そっか! えっと、じゃあ、どういうこと!?」

「最初、入ってきた場所まで戻りましょう。その辺りを調べたら簡単に出られるはず。壁を触るとか。出入り口が消えたように見えていただけよ、きっと。中のモンスターが外に出ないための仕掛けかしら」

「なるほどね! まぁあの時、真っ暗闇だったから、どこら辺かなんて、方向すら、全然、分かんないけど! っ、はぁ! 喋りながら走るの、きつ! ハレ結構重い!」

「今じゃない方が良かったわね」


 ハナコが黙り、狭い通路に、六人の足音と荒い息だけがバタバタと響く。


「犬振り切った!?」


 前を走るカノウが叫ぶと、エンショウに抱えられたハレがもぞりと動き背後を確認する。


「いないヨ! 犬、来てない! 止まっていいヨ!」

「ダメっ! 正面にもなんかいる! ……ウミくんっ!」


 ヨミチの悲鳴と足音が錯綜し、次の瞬間ウミが一足で前へと飛び出す。両脚を踏みしめると、遠心力を使い目の前に現れたモンスターの体へと尾を激しく打ち込んだ。


「ア、抜けねェ」

「えっ」


 液体状のモンスター……スライムに尾を受け止められたウミは、勢いのままバランスを崩し顔から地面に落ちる。


「ウミ!」


 敵の群れの真ん中に転がったウミは、尾の根元までもをスライムに一気に飲み込まれ、立ち上がれず藻掻く。


「魔法撃てる!?」

「……っ、ダメ、近すぎるわ。ウミにも当たってしまう」


 尾を引き抜こうと地面に爪を立て踏ん張るウミに、残りのスライムがぐちぐちと不快な音を立てながら液体の触手を伸ばす。

 まずい、まずいまずいまずい。

 ウミが抜け出せるまで、せめて気を引きたい。手のひらの中で小石を転がし、エンショウは身をかがめる。スライムは五匹。一匹あたりの大きさはドワーフのカノウの半分くらいだ。意外と、でかい。飛び越えてウミの側までいけるか……。いや、いくしかない。…………頑張ってくれ、俺の両脚!

 短く息を吐いて呼吸を整える。駆け出そうと右足を踏み込んだ瞬間、小柄な影がふらりと、エンショウの前に立ち塞がった。


「気持ち悪いよぉ……っ」


 響く甲高い涙声と、鈍い殴打の音。

 仁王立ちのヨミチ。その両手には棍棒が握られている。

 滅多打ち、としか形容ができなかった。小さな体のどこからそんな力が出るのかという勢いの乱打はスライムに確実にダメージを与え、一撃ごとに触手が縮み、動きが徐々に鈍くなる。

 その合間を縫って、カノウは素早くウミに駆け寄ると尾の根元を掴んだ。足と地面の間に尾を挟み、こそぐようにしてスライムを引き剥がす。


「ウミ! 大丈夫!」

「あぶねェ、えっちなことになるとこだった」

「言ってる場合か!」


 地面に落ち、なおウミへ触手を伸ばすスライムを、カノウは脱いだ上着を腕に巻き付けて殴る。スライムが上着ごとカノウの腕を取り込もうとした瞬間、上着を残して腕だけ引き抜き、布の上からスライムを殴りつける。


「どこかに核が……あった!」


 振り下ろした拳に手応えを感じたカノウが声を上げると同時に、スライムは溶けるように消えていく。


「早く死んでよぉ〜〜」

「もう死んでる! 死んでる!」


 一人で残りのスライムを片付け、それに飽き足らずもはや地面のシミになっているそれにいまだ棍棒を振り下ろしているヨミチを、エンショウは宥めながら止める。

 どうどうと声をかけながら腕を掴むと、意外な力によろめいた。

 初めこそ、こんなチビで度胸も無さそうな人間が戦士なんて冗談だと思ったが、なるほど適正自体はあるらしいと、感心する。

 先程「武器」を拾った時、カノウ、ウミの両名が戦闘経験の有無を理由に、自衛のためにヨミチに棍棒を持たせておくことを勧めた時は内心躊躇したが、どうやら間違いでは無かったようだ。

 ヨミチという男、発する言葉や見た目とは裏腹に、妙な胆力がある。


「犬、来てないね?」


 カノウが口に指を当てて耳を澄ました。他の面々も口をつぐみ動きを止めるが、周囲からモンスターの物音はしない。

 六人は揃って深く息を吐いた。


「……ちっと休むかァ」


 疲労を滲ませたウミの提案に各々は頷き、その場でしゃがみこむ。

 遭難してから初めての休憩だった。精神、肉体の疲労は皆相当にきている。

 エンショウは隣に座るヨミチが、顔の穴という穴から液体を垂れ流した酷い有様になっているのを見て、仲間たちに「ハンカチ持ってない?」と訊ねた。

 肩を竦めたり首を振る中、ウミがシミのついたしわくちゃのハンカチをポケットから取り出し、投げて寄越す。

 弧を描いたそれをエンショウは片手でキャッチすると、ヨミチの手を拭き、垂れている鼻を拭いてやった。

「くっさ!」と言ってハンカチを遠ざけようとするヨミチを無視して、頬に着いた泥や涙のあとまで拭いながら、エンショウはハナコを振り向く。


「ハナちゃん、さっき話してくれたこと、みんなに伝えといてよ」


「ハナちゃん」という呼び方にハナコは少し怪訝な顔をしたが、やがて頷くと、ハレを抱え、えずくヨミチの手を引き、ウミとカノウの元へ歩み寄る。


 ……さて。

 一人になるとエンショウは、周囲に目を配った。


 盗賊、なんて呼ばれるようになったからにはせねばならないことがある。

 エンショウ果てを擦り合わせると、気合を入れるように短く息を吐いた。

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