第6話 帰るところ
フィオは挨拶を済ますと、玄関で待っていると言って一人で出て行った。父とふたりで話せということらしい。
気まずい空気が流れる。訊きたいことはたくさんあったが、訊いてはいけないような気がして口に出せない。浮かんだ言葉を不採用にし続けた結果、呼吸すら躊躇うほどの重い沈黙が続いた。
「魔女があんな子どもだったとは」
ぽつりと父がつぶやく。その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「疑ってないんだ?」
「アンリだってそうだろ」
実を言うと、ぼくは今でも信じられているのか怪しかった。成り行きに流されるまま、魔女とは何なのかを考えることすら後回しになっている。それでも、フィオが魔女であることをどこかで受け入れているから、疑う気にもなれないのだろうか。
「母さんのことは?」
「いや、まだ」
父は何度か頷いて、「そうだろうな」とだけ言った。それが後ろめたくて、また気まずくなる。
「とりあえず、座って」
父が引いた椅子に座り、あらためて父と向き合う。やはり、ずいぶんとやつれたような気がしてくる。
「アンリに、話しておきたいことがあって」
「うん」
父が座り直し、背筋を伸ばす。ゆっくり深呼吸をして、静かにこう言った。
「母さんは、アンリの実の母親じゃないんだ」
想定外の告白に、驚きの声も出なかった。
***
母は聡明な人だ。息子の立場として、常々そう思っていた。
家事は言うまでもなく、診療所の手伝いもてきぱきとこなすような、働き者の母親だった。しかしその働きぶりに反して、忙しなさを感じさせない落ち着きもあった。ぼくと同じ年ごろの子どもをもつ母親としては若かったのだろうが、他の母親と並んでも、違和感を覚えない風格をもっていたのだ。
母が孤児院育ちだと聞いた時には、かなり驚いた覚えがある。親戚付き合いがない理由としては納得できたが、母に「孤児」という言葉は似合わない気がした。ちなみに父の両親は早くに亡くなっていたから、幼いころは親戚という概念がなかった。
親戚付き合いがないぶん、他の家庭と比較することも少なかったのだろうが、母は比べるまでもなく、理想の母親と言って差し支えなかった。母以上に完璧な母親なんて、ぼくには考えられないくらいだ。
つまるところ、母がほんとうの母親かどうかなんて、ぼくは疑ったこともなかった。
***
「どうして今、そんな話を?」
魔女に会った父よりも、断然動揺していたに違いない。一方父は、落ち着き払った様子で手を組んでいる。
「ニノンが死んだとわかった時、母さんはいろんな人に声をかけられた。もちろん、気を遣う言葉ばかりではあった。でも中には、また子どもを産めばいいじゃないか、とか……、そんなことを言う人もいた。まだ若いんだから、と」
ふっと、目の前が暗くなる。上半身から血の気が引く感覚を覚えるとともに、手が震えていた。
「母さんが出ていこうとした時、止めようと、したんだ」
父の声が、かすかに震えている。怒っているのかもしれない。
「どうにか説得しようとして、アンリのことも考えてやれと言った。でも母さんは、アンリとニノンは違うんだと言った。あなたにはわからないと……、そう言われたら、止められなかった。何も、わかってなかったんだろうな。母さんのこと」
泣き崩れる母の姿を思い出した。もしかしたらあの時、ぼくは疑っていたのではないだろうか。母は自分が死んだとき、これほど悲しむのだろうかと。
だから愕然とした。妹には敵わないとわかっていても、その紛れもない事実を眼前に突き付けられるのは、やはり苦しいことだ。
「もちろん母さんは、アンリのことを母親として愛していたはずだ。それでもニノンの存在は、母さんにとってはもっと……、特別な、意味をもっていた。だからアンリの母親であるべきだという考えと、また子どもを産めばいいという考えに、区別がつかなくなっていたんだろうな。そんな状態の母さんの口から、この事実を聞かせたくなかった。……だから今、こんな状況になったが話すことにした。いずれにしろ、いつかは話すべきだと思ってたんだ」
自分で産んだ子どもが特別なのは、想像するまでもないことだ。
母はニノンという実の娘がいたからこそ、その兄であるぼくの母親になれたのだろう。そしてニノンがいなくなった今、母はきっと、ぼくの母親であることに疑問を感じてしまったのだ。
もし新しい子どもを授かったとしても、その疑問を抱いた事実が消えることはない。そしてその子が、ニノンと同じ存在になることもない。
やはり妹がいなくなった時点で、この家族は成り立っていなかったのだ。
「うん。話してくれて、よかった」
ニノンはすごいよ。こんなにばらばらな家族を、ひとりで繋ぎとめていたんだから。それを口にするのは、さすがに酷に思えた。
「ところで、ぼくの本当の母親はどうしてるの?」
「アンリを産んですぐに、病気で亡くなった」
「そう。……どんな人だった?」
「……美しい人だったよ。アンリは、その人とよく似てる。特に目元が、そっくりだ」
父の愛おしそうな表情に、胸が詰まるような苦しさを覚えた。それを振り払って、無理に微笑みをつくる。
ぼくが生きている限り、父は死んだ母親とつながり続けることができるのだ。母が出て行った理由が、痛いほどにわかる気がした。
中途半端に父から目を逸らしていると、不意に父の表情が崩れて、はっとしたときには抱きしめられていた。ぼくはおそるおそる、父の背中に手を回す。
「どうか無事で」
父はどんな気持ちで、ぼくを送り出そうとしているのだろう。引き止めたいところをやむなく送り出しているのか、引き止めようもないと諦めて送り出すことにしたのか。それも、ぼくにはわからなかった。
「必ず」
帰ってくるとは、言えなかった。
***
玄関を開けると、フィオが気づいて振り返った。
「もういいの?」
フィオがぼくの背後を見ていたから、父がいないことに対して尋ねたのだとわかる。
「うん」
「そ」
フィオは何かを察したようで、そのまま踵を返した。
「先に泉に行っておきたい。大丈夫?」
ぼくを心配してくれているのだろう。大丈夫かはさておき、ここで引き返すのも無駄足だ。
「行こう」
フィオは何も言わず、小さく頷いた。
泉までの道のりは、ほとんど人通りがない。道も整備されていないから、木の間を縫うようにして歩く。
「何の話をしてたの?」
話すべきか迷い、曖昧な返事をする。しかしすぐに、隠すようなことでもないかと思い直した。
「母は、実の母親じゃないらしい」
さすがのフィオも驚いたのか、しばらく間が空いた。
「それは、また」
「妹とは十歳離れてるし、考えてみれば不思議でもないけどね。母が出て行った理由もわかる気がする」
「まあ……、実の子どもを愛せない親だって、いることだし」
ずいぶんな励ましに聞こえるが、むやみに励まさないところがフィオの優しさなのかもしれない。
そんな会話をしているうちに、泉の畔に到着する。あらためて見ると、絵に描いたような美しい場所だった。
「ここに精霊が?」
「たしか、あの辺りに」
女性を見た場所に目を向けると、木の陰から女性が姿を現した。やはり幻ではなかったのだと、少しだけ嬉しくなる。
「ほら、あの」
フィオが小さく頷いて目を細め、頭巾をとりながら女性の方へと歩み寄っていく。ぼくは少しだけ安心して、それに続いた。
「魔女には会えたようね」
女性が笑いかけるので、反射的に「はい」と答えた。すると、フィオが振り返って立ち止まる。
「何?」
「え? 何って……」
しばらくしてから理解した。フィオには女性の声が聞こえていないのかもしれない。
「できればひとりで来てほしかったけれど、魔女に会えたのならよかった。またおいでなさい」
そう言って、女性の姿が消え始める。フィオにはやはり聞こえていないらしく、ぼくの視線を追い、女性を見上げているだけだった。
「そんな、待ってください」
咄嗟に追いかけようとするが、フィオに制される。
「もういい。よくわかった」
フィオは頭巾を被り直し、来た道を戻り始める。
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