ソルシエールの黒猫
水雲 悠
星を隠す
第1話 魔女の住むところ
土の匂いがして、瞼を開いた。
ぼんやりと視線を漂わせていると、鼻先にある背の低い草の先から、丸っこい天道虫が飛び立つ。その軽やかな飛行を羨みつつ、ぼくは重い身体を引き摺った。
肘をついて起き上がろうと力を込めるが、頭を上げるので精一杯だった。早々にあきらめて天を仰ぎ、日が陰ってきたことに気づく。
入る前に見渡した限りでは、一、二時間あれば一周できそうなくらいの小さな森に見えた。それなのになぜか、中央にあるはずの目的地に辿り着くこともできぬまま、朝から歩き続けて今に至る。おまけに同じような獣道が永遠に続いているので、下手な迷路よりも厄介だった。
「迷いの森」と名がつくのも頷ける。しかし同じ場所を廻っている様子はなく、太陽の位置や木につけた印を頼りに、同じ方向に進んできたはずだった。もはやこの小さな森の中に、とんでもなく広い森が存在しているとしか思えない。
どうなっているんだ。そう呟き、眠気に耐えかねて瞼を閉じる。
***
迷いの森には、東の魔女が住んでいる。それは、このあたりの住民なら誰もが知っている事実だ。王宮に国王が住んでいるのと同じくらい周知の事実だからか、それを確かめた住民はいない。
東の魔女に会ったことのある人物は、魔術師を含めても一握りしかいないらしい。そもそも魔術師にすら出会ったことのない田舎者にとっては、その真偽も含めてどうでもいい噂話に過ぎなかった。
国を護る四人の魔女。少数ながらも特別な権限を有する魔術師。他の国の存在。そのどれもが、ぼくにとっては関係のない話だった。それどころか、一生関わることのない別世界の話だとすら思っていた。それがどうしてこうなったのか、思い出すだけでも頭が痛くなる。
ぼんやりとした意識のなかで、同じことをぐるぐると考える。魔女に会わなければならない。そのためには、この森を抜ける必要がある。だからとにかく歩いているけれど、歩いても歩いても、前に進まない。
おかしいな。そう思うと同時に、これは夢なのかと気づく。いや、これまでの出来事すべてが夢だったのだ。ならば、この夢のはじまりはいつだったのだろう。
現実が近づくほどに、耳鳴りが思考を鈍らせる。
***
「何してるの?」
少女の声が聞こえた。目を覚ますと、ぼくは草原に寝転がっていた。しばらく辺りを見渡してから、さっきまで森にいたことを思い出す。あわてて飛び起きる途中で、白い頭巾を被る少女が視界の端に映った。
「ここは」どこかと尋ねようとして固まる。幻だろうかと瞬きしながら、おそるおそる視線を上げた。
少女の横には、黒い影が((立って))いた。背が高く、目の辺りに楕円の穴がふたつある。
「森の外。その様子だと、さっきまで森にいたんでしょ」
少女はさらりと言い、距離を保ったまましゃがみ込む。その仕草はどことなく大人びていて、ぼくは違和感を覚えた。
「その通り、なんですが」
「魔女に何か用?」
答えに窮する。正直に答えて良いのか、そしてこの少女と影が何者なのか、見当もつかなかった。
「魔女の屋敷を目指していたはずなんです。その途中で倒れて……」
ここで初めて、少女が怪訝そうな顔をした、ように見えた。実際には、頭巾と薄暗さでよくわからなかった。
「森の中で倒れたの? 外に出ようとしていたのではなく?」
「いや、外に出る気はなくて」
少女が押し黙る。隣の影も首を傾げていた。
「外に出た憶えはないってこと?」
首肯すると、少女は考えを巡らせるように俯き、しばらくして立ち上がる。
「ついてきて」
それだけ言って、少女は背を向けて歩き始めた。ぼくは何が何だかわからぬまま、あわてて少女の後を追う。少し休んだおかげか歩けないほどではないものの、上がらない足がいちいち草に引っかかった。
少女は振り向きもしなかったが、背の高い影はぼくを待っていてくれたらしい。ひょろりとした手をこちらに伸ばして、人差し指を振る。影の残像が線を描き、宙に文字が浮かび上がった。
――荷物、持とうか。
影は両手を伸ばして、ぼくの荷物を持ち上げた。なんと物に触れられるらしい。それには驚いたが、何より身が軽くなるのがありがたく、素直に荷物を渡した。
「ありがとうございます」
――どういたしまして。
楕円の目が細くなり、微笑んでいるように見える。人の好い影のようだ。
「あの、どこに向かってるんでしょう」
――森にある家だよ。すぐ着くから。
「え? 森って」
暗くてよくわからないとはいえ、向かっている先が「迷いの森」であることはぼくにもわかった。戸惑ったものの、少女の後を追うのに必死で指摘する余裕がない。
ようやく追いついたところで少女が立っていたのは、小ぢんまりとした家の前だった。灯りがついていて、人の動く気配がある。少女の家なのかと思いきや、彼女はいきなり入ることはせず、他人行儀に扉を叩いた。少しして、光を漏らしながら扉が開く。
「おかえり、遅かったね。……そっちは?」
出てきたのは、鮮やかな赤毛の女性だった。このあたりでは見慣れない顔立ちで、少女の母親には到底見えない。
「入れてあげても?」
「ん? いいけど」
少女はちらりとこちらを見て、入るよう目で促した。灯りに照らされてはじめて気づいたが、少女の髪は白く、瞳の色も極端に薄かった。
「虫が入るから、さっさと入っちゃってよ。話は中で聞くから」
「あ、はい。お邪魔します」
そそくさと玄関を跨ぎ、急いで扉を閉めた。
「君、名前は?」
「アンリです。……あの」
女性は手で制して、ぼくを椅子に座らせる。
「あたしはローザ。訊きたいことは山ほどあるだろうけど、長くなるから後でね。……それで?」
ローザは少女に顔を向ける。少女は頭巾をとって髪を撫でながら、どうでもよさそうに、ため息を混じりにこう尋ねる。
「魔女に会いたかったんでしょ? どうして?」
「それは……」
どこから話せば良いのか、考えがまとまらなかった。そもそも何を話せば、魔女に会う理由になるのかがわからない。
「魔女に? そんなの」
「迷いの森は」
ローザの言葉を少女が遮った。おもむろに頭巾を畳み、膝の上に乗せてから続ける。
「侵入者を阻む結界じゃない。侵入者を疲弊させたうえで、魔女の前に差し出すためにある。だけど途中であきらめれば、森の外に追い出される。そういう
「え、でも」
途中で行き倒れたとはいえ、あきらめた覚えはない。本来はその時点で魔女の屋敷にたどり着けたはずなのに、ぼくはいつの間にか森の外に出されていたのだ。
ローザが眉をひそめる。部屋の隅で立っていた影も、目をぱちくりさせていた。
「その様子だと知らなかったんでしょ。そのわりに、ずいぶんと決心がついていたように見えるけど。魔女に会うことが、そんなに重要だったの?」
決心なんてついていたのだろうか。だいたい、魔女に会って何になるのか。それすらもわからないまま、後先考えずに家を出たのだった。
「妹が、死んだんです」
きっかけは、それだけだった。
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