第七章-1
薄い緑の光が世界に広がる中、金色の帯の上を、ソラは進む。常闇では気づかなかったが、ソラの白い毛皮が、赤く染まっている。足取りも重い。
リエはソラの背から降り、自分の足で歩く。一歩歩くたびに、鈍い痛みが全身に走る。気づかないうちに、どこかを怪我したらしい。
ヒナリはリエの隣を歩く。目立った怪我は無いが、汚れがひどい。髪に泥が絡まっている。
「手首の烙印はどう? 消えた?」
「うん。消えたよ、ほら」
綺麗なリエの手首を見て、ヒナリは笑みをこぼす。
「良かったね。里の人達も、きっと無事だよ」
「うん」
リエはバア様の姿を思いうかべる。腰をかがめ、薬草の名前を教えてくれる姿。家の中で葉をすり潰す時の手つき。頭を撫でてくれる時の笑顔。元気が湧いてきて、リエの足取りが少し軽くなった。
出口を目指し、昼も夜もない世界を歩く。ソラだけが頼りだ。
「もうすぐ出口だ。里の河原に着くぞ」
「本当に?」
「本当だ」
白い出口をくぐる。
リエ達は、河原にいた。
石化した人はいなかった。誰もいない。
リエは階段を駆けあがり、お宮の戸を勢いよく開けた。
人がいた。
生きている人が、狭いお堂の中で立ち話をしていた。戸が開いたことに驚き、視線が一斉に
「流し神子?」
「どうしてここにいる?」
リエが説明しようとした時、誰かが、人混みをかきわけてリエの前にやって来る。
「リエ? リエなのかい?」
リエは目を見開いた。一番会いたかった人が、目の前にいる。
「バア様!」
バア様はリエを抱きしめる。
「これは何かの夢か、幻かい?」
「違うよ! あのね、呪いはもう解けたの。これからはね、石化病も呪いも流し神子もないんだよ!」
バア様は涙を流し、リエをますます強く抱きしめる。
お堂の外で、ソラとヒナリは、リエが泣きじゃくる声を、静かに聞いていた。
ひと月以上も石化し、時間が止まっていた人々は、何がどうなっているのか、分からなかった。リエとソラとヒナリは、一生懸命説明するが、中々信じようとしない。
だが、ほどなくして、若い夫婦に赤ん坊が生まれた。その赤ん坊の手首に、アザは無かった。
若い夫婦は、むせび泣いた。リエ達に何度も何度も礼を言った。
赤ん坊の綺麗な手首を見て、里の人達の困惑と不信感が吹き飛び、喜びが爆発した。
お宮の正門から出て、長い坂道を下った先にある里。その中心の広場に、みんなが食べ物を持ちより、宴会が開かれた。
主役はもちろん、リエとソラとヒナリ。もっとも、ソラは霊獣様霊獣様と崇められるのに耐えられず、霊道へ逃げてしまったので、主役は二人だ。
白米、焼き魚、煮物、肉の丸焼き、甘い団子。リエのヒナリの皿の上に、どんどん食べ物が運ばれていく。
リエとヒナリは、里の人々に、今までの冒険をかいつまんで話した。
「海で泳いでたらね、リエちゃんとソラくんに会ったんだよ」
ヒナリは、身分がバレると面倒だと思ったのか、自分をただの里人と偽った。
リエも、山で見せられた幻の話はしなかった。まだ、あのことについて話すことが怖かった。
夜が更け、宴もたけなわになった頃。リエとヒナリは、そっと席を抜けだした。手元には、魚と肉をのせた皿。
お宮の裏門をくぐり、瑞木の森へ入る。
「ソラ?」
暗い森に呼びかけると、茂みがごそごそと動き、ソラが出てきた。
「ソラ、魚とお肉を持ってきたよ」
「助かる」
ソラは肉にがっつく。リエは、その横に座った。
「ソラ、ヒナリ」
「どうした?」
「なに?」
「ありがとう。ここまで助けてくれて。二人がいなかったら、呪いは解けなかったよ」
真面目に礼を言った途端、リエは何故か急に恥ずかしくなり、顔を背けた。
「元はといえば、お前が俺の怪我を手当したからだ。俺は、その礼をしたかったんだ……まあ、ここまで長くなるとは思わなかったが」
「私も、こんなに長い間、陸にいると思わなかったよ」
ヒナリは笑う。
「二人はこれからどうするの? 家に帰るの?」
「そうだな。俺は森に帰るぞ」
「私も、とりあえず竜宮に帰ろうかな」
「そっか……」
リエは目を伏せた。
(もうお別れなんだ。大変なことばっかりだったけど、ソラとヒナリがいなくなるのは寂しいな)
ふと、夜空を見上げる。影のように黒い木々の向こう側に、白く輝く星々が見える。いつかの夜も、こんな星を見た。
「そうだ!」
リエはぴょんと立ちあがった。
「ねえ、最後にさ、もう一度会いにいこうよ。宿の人とか、シグレさんとか、旅で会った人に! ソラ、連れていってくれないかな?」
「いいぞ」
ソラは即答した。
「今なら霊道も通り放題だし、すぐに会いに行けるな」
次の日の朝、リエ達は早速、二度目の旅に出た。
霊道を通って、まず到着したのは、最初に泊まった宿だ。
女主人は、宿の前で掃き掃除をしていた。やって来た二人の客を見て、驚きの声をあげる。
「久しぶりだねえ! 呪いは解けたのかい?」
「はい、解けました」
「おお、そうかい! 良かったね!」
女主人は二人のために、また団子を作った。リエとヒナリはありがたくいただく。呪いが無い今、団子はますます甘く感じられる。
「火守の里に行ってきたのかい? どんな幻を見た?」
二人がそれに答えようとした時、背後から影がさした。
「あの、すみません……」
宿の入り口に、大きな編笠を被った、大柄な男性だ。冬用の分厚い衣をまとい、両腕から指先まで包帯を巻いている。
「その、今、火守の里について話していませんでしたか?」
「ええ、そうですよ」
リエは頷いた。
「わ、私、火守の里へ行く途中で。その、どうやって行ったか、教えてもらえませんか?」
「もちろん、いいですよ」
旅人は、腰をかがめて入り口をくぐり、リエの斜めむかいに座った。宿の中なのに、彼は編笠を脱ごうとしない。
リエは、今までの旅路をかいつまんで話した。海から里へ、里から森へ。森から山へ。
「世ノ河に沿って、山を登るんです。道中、今までの旅人が残した跡があるので、迷わないと思います。どんどん登っていくと、荒地に出ます。荒地を歩いていくと、霧に包まれて、幻を見ます」
「幻?」
「火守の里の試練です。幻に惑わされたら、里に入れてもらえないんです」
「どんな幻なんですか?」
リエは一瞬、言いよどむ。
「……里の人達に、死んでこいって言われました」
「私は死んだお母さんにどこへ行くのって責められた」
ヒナリは口をへの字に曲げる。
「この野郎、一発ぶん殴ってやる! くらいの、気持ちで挑むといいよ」
「は、はあ」
顔が見えなくても、旅人の困惑が伝わってくる。
「旅人さんも大変ねえ。今日はここに泊まっていく?」
「はい。一晩お願いします。夕飯は、部屋まで持ってきてくれませんか?」
「分かったわ。部屋は手前から二番目が空いてるわよ」
旅人は草履を脱ぎ、廊下へ歩いていく。
「二人とも、もっと話をしていたいけれど、私はかまどに火を入れなくちゃ。また会いにきてね」
女主人は、残った団子を笹の葉で包み、リエに持たせてくれた。
リエとヒナリは、ソラが隠れている茂みまで戻ってきた。
「ただいまー、ソラ、団子をもらったよ」
「それは良かった。だが、団子より珍しいものを見たぞ。鬼だ」
「オニ?」
「さっき宿へ入っていったぞ」
ああ、とヒナリは納得したかのように頷く。
「あのひと、鬼なんだ。初めて見た」
「お、鬼って、あの雷を落とす鬼?」
「雷を落とすかどうかはよく知らんが、とにかく身体が大きく力持ちで、頭に角が生えている。肌は赤い。そんな奴だ」
「鬼かあ。初めて見たよ。鬼も火守の里に行くんだね。どうしたんだろうね?」
リエは二人の会話を、目を白黒させて聞いていた。
霊道を抜けた途端、やかましい鳥のさえずりや虫の鳴き声が聞こえた。
ここは森の中。イチョウの木の下だ。イチョウは葉をすっかり落とし、裸になっている。落ち葉は広場の隅に集められている。
シグレは、家の前にいた。誰かと話をしている。背の低い、大きな荷物を背負った──、
「あ、化け狸のひと!」
二人は目が点になる。そして、顔を綻ばせた。
「無事に帰ってきたんだね!」
「またお会いしましたね。ご無事でなによりです」
彼らの足元には、大きな布が敷かれている。その上には食べ物や衣や様々な道具が並べられている。布の外には、小さな箱が積みあげられている。リエが不思議そうにその荷物を眺めていると、シグレが笑いながら説明した。
「商人が来たからね。取引しようと思って」
「安全に森を歩けるようになって、嬉しいですよ。貴方達が悪霊を倒したんですよね? ありがとうございます」
「商人さんのくれた葉っぱ、使いましたよ。助かりました」
「役に立ったのなら、何よりです」
ソラは箱の臭いを嗅いだ。
「薬ばかりだな。狩りはしないのか?」
「迷ったんだけどね。薬が必要な人が来るから、まだ住むことにしたんだ。薬師としてね」
シグレはそう言った。
「そうか。ならば、近いうちに鬼がここに来るかもしれないな」
「は? オニ? オニって何?」
目を丸くしているシグレ。
その隣で、ヒナリは、商人の品物を次々と手にとる。
「お父様、どんなものなら喜んでくれるかな?」
「お父様への贈り物ですか? こちらの手ぬぐいなどいかがでしょう?」
「うーん、ちょっと小さすぎるかな」
リエは、くるりと振り返った。大きなイチョウの木、そして広大な森に向けて、深々と頭を下げる。
「里の人を助けてくださり、ありがとうございます」
森からの答えはなかった。ただ、枝が風に揺られて、かすかな音をたてていた。
霊道を抜けた途端、強烈な寒さがリエ達を襲った。リエとヒナリは、ソラの背中に伏せ、白い毛に埋もれる。
始原の山脈では、早くも雪が降りはじめていた。茶色い荒野が雪で覆われ、真っ白だ。
「火守の里は?」
「霊道から行こうとしたが、無理だった。道が無い」
「じゃあ、また試練を突破しないと駄目ってこと?」
「いや、そんなことはしなくてよさそうだ」
ソラは足を止めた。
ねじれた木の根元に、袋が置いてある。置かれたばかりなのか、まだ雪が積もっていない。
中身は、二人分の衣だ。毛皮でできており、衣の上から着るととても温かい。
袋には他にも、色々な物が入っている。リエが火守の里に置いていった旅道具に、複雑な模様が描かれたろうそく。水筒には、お湯が入っている。
「これ、貰ってもいいのかな?」
「いいだろ。袋に入ってるんだから」
頭の後ろに、ポスッと冷たいものが当たる。振り返ると、ヒナリが雪玉を手にして笑っている。
「一度やってみたかったんだ、雪合戦!」
リエも雪玉を投げ返す。投げた雪玉は、見事にヒナリの顔面に命中した。
二人の声が雪原に響く。
ソラは、ねじれた木の下に座り、水筒で前足を温めながら、雪合戦の様子を眺めていた。
海にやって来た時、夕方の空に一番星が輝いていた。
よせてはひいていく波の音が、耳に心地よい。
「こっちはあったかいね」
ヒナリは、背中にズダ袋を背負っていた。火守の里が返してくれた旅荷物である。全部、ヒナリがお土産にもらうことになったのだ。
「ヒナリ、風邪ひかないでね」
「リエちゃんも元気でね」
「うん」
「それじゃあ、またね!」
リエははっとする。
(二度と会えないわけじゃないんだ)
ヒナリの言葉を、リエは繰り返す。
「うん、またね!」
「またな」
ヒナリは水を蹴って海に入っていく。腰まで浸かった時、くるりと後ろを向いて、大きく手を振った。そして、頭から海に飛びこむ。
海面からクジラの背が現れた。夕日に反射し、キラキラ輝く。
「じゃあね!」
最後にそう言って、ヒナリの姿は海の中に消えた。
瑞木の森に帰ってくる。家の前にはバア様がいた。七輪で魚を焼いている。
「バア様、ただいま!」
「おかえりなさい。ああ、霊獣様も一緒ですね」
「何度でも言うが、俺は霊獣じゃない。というか何なんだ、霊獣って」
「貴方のことです」
「いや、違う」
バア様は魚を皿に移した。七輪を囲み、リエとバア様とソラは魚を食べる。
「霊獣様が助けてくださらなければ、リエはここにいませんでした。この子を助けていただき、本当にありがとうございます」
「お互い様だ。リエがいなかったら、俺はとうに死んでたからな」
魚を平らげると、ソラは茂みへ向かう。
「もう行かれるのですか?」
「ああ」
リエは茂みの前までついていく。
「ソラ、大きな怪我、しないでね」
「気をつける」
「またね」
「またな」
ソラは、茂みに入った。白い巨体が、すっと消えた。
リエは少しの間、茂みを見つめた。そして、背を向けた。
夜はふけても、七輪は赤く燃えつづけている。
「リエ。明日は何をするんだい?」
「明日? また、薬でも作ろうかな」
「本当に? もうリエは流し神子じゃないんだよ。薬なんか作らなくていいし、私のことをバア様と呼ぶ必要もないんだ」
「うーん……」
リエは考えに考える。
「あ、そうだ! 遊びに行こうよ!」
「遊びに?」
「うん! 二人で色んなところに行こうよ。ソラとヒナリと、長いこと旅していたけど、まだまだ見たいものがたくさんあるの。ね、いいでしょ、バアちゃん!」
「バ、バアちゃん?」
「そう呼んでいい?」
彼女は目を細める。
「もちろん。私の可愛い可愛いリエ」
リエも笑う。
「じゃあね、まずは里の人ともっとお話しして、それから田んぼを見て、美味しいものをたくさん食べて──」
楽しいおしゃべりが、瑞木の森にこだまする。火は、二人を照らしつづけた。明々と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます