第16話・涙のお嬢さま、それから
で、そのころ住み込みのヤンキーメイドが何をしていたかというと。
「ぐふふふ…おじょーさまいるうちは食えねーからなぁ、コレ」
と、お湯を入れてから二分が経過したペヤングの容器を前にして、舌なめずりしていた。
それくらいなら昼間にでもやっていればよさそうなものだが、ご丁寧にペヤングの隣には、ビール缶。最近小遣いの心配もあまりしなくて良くなったので、ヱビスである。
「就業時間内だけど、まーこれくらいはなー、っと……三分経ったか?」
食に関しては割とキッチリしてる麻季ではあるが、カップ麺の時間にまでは頓着もせず、大体でいーだろ、と容器を持って流しへ向かい、お湯を捨てる。ペヤングだばぁ、なんて不様はしない。
しっかり湯をきって、ソースを投入。調味料の絡んだかやくが食欲を誘った。
ここだけはいつも通りに塗り箸(実は輪島塗の結構な逸品)を使い、麺をかき混ぜ両手をあわせて元気よく「いっただっきまーす!」。
それから、ヱビスの缶を開けてビールをぐびり。うんめー!とか誰もいない高級マンションの一室で、若い娘がそれはどーなのか、と篠が見たら頭痛でもしてきそうな喜色を満面にたたえつつ、山盛りつまんだ麺を口に放り込んだ。
「あー、たまに食うとたまんねーなー!」
同意する者は少なくないだろう感想。ただしこの場で同意されることはないだろうけれど。
安い油の味をビールで洗い流していると「なんでこんなことしてるんだろうか」と一瞬疑問も沸くが、そこは命の洗濯だとでも考えなおし、無心に麺をすする。合間にビール。口寂しくて、カップのフチに貼りついたかやくのキャベツを箸で摘まんで、口に入れる。
育ちのいい篠の舌を満足させられるのだから、麻季も確かな味覚は持ち合わせてはいる。
旦椋家はもともと京都の出で、明治の初めに関東に移住したもので、本家筋は関西では今でもそれなりの旧家扱いはされている。
群馬の麻季の実家ではもうそんな時代のあったことなど昔の話にはなっているものの、家の気風にそんな時代の匂いもいくらか残っているから、麻季に自覚はなくとも料理の中には篠の育ちに感応する部分のあるのだろう…が。
「…アルコールはいいけどなんかもの足りねーなー…ベーコンでも焼こうかなー…」
おビール様にあってはそんな品などかなぐり捨てて、ただ貪るよーに肉と炭水化物を摂取するだけになるのだ。
そして欲望の赴くままに、冷蔵庫の動物性タンパク質を漁っていた時だった。
「…んー、ベーコンじゃなくて生ハム…はビールに合わないし…って、あれ?」
玄関のから物音がして、そういえばお嬢さまが帰ってくる時間かな、と思ったのだが、いつもなら麻季が顔を出すより先にリビングに入ってくる篠がやってこない。
実のところ電子ロックだから大仰に鍵が鳴る音などしないので、浅居の本宅から誰か来たのか?と少し慌てて玄関に向かうと。
「…って、おじょーさまじゃねーですか。どうしたんです、帰ってきて上がりもせず。ま、とにかくおかえりなさ…い?」
様子がおかしい。
いつもなら麻季を前にすると、いかにもお嬢さま然とした自信ありげな強気の視線を振りまくというのに、今は俯いて身動ぎ一つしない。
「お嬢さま?…えーと、何かあったんでふわぁっ?!」
麻季ぃっ!…と、靴も脱がずに廊下に上がった篠は、その勢いのまま麻季をその両腕の外側から抱きしめ、というより抱きついてきた。
篠の腕の力は意外に強く、いきなりそんな真似をされてわけも分からない麻季は何をどうしたらいいのか分からず軽く混乱したまま、それでもこれこそメイドの役目と心得たかのように、なんだか嗚咽めいてしゃくり上げてるお嬢さまの耳元に、そっと尋ねた。
「…お嬢さま?どうかされましたか?泣くほどひどいことがあったのだとしたら……あたしがソイツをぶっ飛ばしてきてやりますよ?」
いやメイドの言うことではないだろうけど、それでも篠は堪えたものを絞り出すように、麻季の問いかけにくぐもった声で答える。
「麻季、麻季ぃ……だいじょうぶだからね…何があってもわたしは麻季を、守ってあげるからね…わたしが家族になってあげるから、だから麻季も…」
「は?あ、あのーお嬢さま?何があったかとりあえず上がって…」
せめて靴くらいは脱がせてあげないと、と主の束縛から逃れようとしたのだが、それでも篠は、力を緩めたら腕の中の女性がどこか遠くに行ってしまうとでも思っているかのように、それを許そうとしないのだった。
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