僕とあいつの付き合い方
aoiaoi
囁き
『なあ、覚えてる?』
覚えてる。
いや、実際のところ、覚えているも覚えていないもよく分からない。
けれど、その小さな問いかけに何か答えてやりたくて、僕は「覚えてる」と答えた。
『お前さ、生まれた時最初泣かなかったよな。母さんのお腹の中で水飲み過ぎちゃって、溺れかけてさ。
医者が必死に背中叩いたりして、やっと泣き出した。あの時は実際苦しかったろ?』
……そうだな、苦しかった。
こいつがそういうんだから、きっとそうなんだろう。
ふわふわとした水の中に浮きながら、僕はそう思った。
そうして、僕は母さんの体から眩しい外へ出た。
溺れかけていたのかはよく分からないが——僕は、外へ生まれ出た瞬間、泣き声を上げなかった。
そうしなきゃ、と思った。
あいつが「お前は最初は泣かない」と僕に教えたから。
母は蒼白になり、医師は必死に僕を泣かせようとした。
ひとしきり分娩室を騒がせてから、僕は泣いた。
ベッドで母さんは嬉し泣きに泣いていた。
これ以上心配させないで、と。
あいつの声は、生まれてからもしょっちゅう僕の脳内で囁いた。
『お前は、この色好きじゃないだろ?』
幼稚園入園の準備で、父さん母さんと一緒にデパートで新しい傘を選ぶ時、母さんの手にした緑色の傘を見てあいつはそう言った。
え……? そうだっけ?
心の中に聞き返す。
『ああ。お前の好きなのは水色じゃないか。ほら、こっちの色だよ』
ふうん……水色か。
そうかもしれない。
僕は、母さんの手を引っ張って言った。
「ぼく、その色じゃなくてこっちがいい」
僕の指した水色の傘を見て、母さんは驚いた顔をした。
「優斗……どうしてそっちがいいの?」
お前と俺が喋っていることは誰にも内緒だ、とあいつに言われていたので、僕は喉から出そうになった言葉をぐっと飲み込んだ。
「だって……好きなんだもん」
母さんは、硬い表情を緩めて優しく微笑んだ。
「そうよね……好きな色に、理由なんてないよね。
じゃあ、こっちにしようか」
「優斗は水色が好きなのか。父さんも子供の頃は水色のものばっかり持ってたなー。やっぱり親子だな」
父さんのその言葉に、母さんはとても嬉しそうな顔をした。
小学校になると、あいつは僕の着る服や生活態度なんかにもあれこれ言うようになった。
『お前、そんなダサいの着るのかよ』
なんだよ? 僕は、これが着たいんだ。ダメなのか?
『ああ、ダメだね。だって母さんはそんな格好好きじゃない。俺の言う通りの服じゃないと、お前母さんに嫌われるよ』
……そうなのか?
母さんに嫌われるのは嫌だ。
あいつがそう言うなら、そうしなきゃならないのかもしれない。僕は母さんが好きな服なんてわからないんだから。
店で選ぶ服や靴なんかも、僕は結局全部あいつの言う通りに選んだ。
あいつの選ぶのは、どれもきちんとした襟付きのシャツや白いセーターみたいなお行儀のいい服で、僕は内心すごくつまらなかった。
『遊びに行く前に勉強だろ』
『9時だからもうベッドに行けよ』
あいつの声は、だんだんとうるさくなる。
あっちへ行け!と心の中で怒鳴った。
でもあいつは平気な顔で言う。
『母さんに嫌われてもいいのか?』
それを言われると何も言い返せず、僕はぐっと我慢した。
小学3年になったある日、母さんが心配そうに僕を見つめて聞いた。
「優斗は、お母さんが何も教えなくても、いろんなことを自分でちゃんとできるのね……勉強も寝る時間も自分で決めて、びっくりするくらいきちんとしてる。
選ぶ服なんかも、いつも不思議に思うの。どうしてあんなお行儀の良いものばかりなの? お友達はみんなもっと動きやすくて元気な服を着てるのに。
そんなに毎日きちんと真面目にしていなくてもいいのよ。もっと子供らしい服を着て、時間なんて忘れて遊んだりゲームしたり……そんな様子が優斗に全然ないところが、お母さん少し心配なの」
なんて言えばいい? あいつのことは話せない。
……そうだ。
あいつはいつも、「母さんに嫌われてもいいのか?」と言っていた。
「……だって、母さんは、こういう子が好きなんでしょう?」
僕の言葉に、なぜか母さんは真っ青になった。
「……それ、誰が言ったの」
「……誰も、言ってないけど……
ちゃんとしてるのって、いけないことなの?」
母さんは、ふうっと苦しそうな息を一つついた。
「もういいわ。
お母さんが変な心配するのがいけないんだね。この話は、もうおしまいにしようか。
そうだ、今日は優斗の好きなクッキー焼いたのよ。食べる?」
母さんは、今の話を切り替えるように明るく笑った。
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