第4話 名無しとグレイドハイド家

――二年前



「起きたか」


 僕の記憶は、その声を聴いたところから始まった。

 自分が横たわっているということは直ぐに解った。

 声のした方に視線だけ向けると、椅子に腰掛け、こちらをじっと見ている女の人がいた。


「私はベルキスカ。 ここは私の家だ」


 ベルキスカと名乗った女性はそれだけ言うと、座っていた椅子から立ち上がった。

「……少し出ていよう。 整理が付いたころにまた来る」


「え?」


 彼女は、僕が何かを問い返す前に部屋を出て行った。

 整理……?

 一体なんのことかと声をかけようとした瞬間、全身が痺れるような痛みに襲われた。

 その時初めて、自分の体のいたるところに巻かれた包帯に気がついた。


「……」


 整理とはこの事か。

 自身の身に起こったことの整理をつけろということなのだろうと、その時は思った。

 ――ただ、残念なことに、自分には何故このような怪我を負ったのかが、全く思い出せなかった。


「……」


 そして、僕はそのことに関して特別な感慨は一切浮かんでこなかった。 だから、何に整理をつければいいのか、どこから整理したらいいのかが、皆目見当もつかなかった。

 いや、それどころか……。


「意識が戻ったと聞いたが、やはり若いと回復が早いようだな」


 今度は先ほどの鋭さを感じさせる女性の声とはうって変わり、聞く者を落ち着かせるような響きを持った男性の声。

 開いた扉から現れたのは、癖のある短めの白髪を後へ流し、顔にある皺が貫禄さえみせる男性。 後ろに先ほどの女性を連れたその人は表情を和らげながら、目の前にあった椅子に腰掛けた。

 僕はその男性に会釈だけで答えた。


「私はギルバート。 ギルバート・グレイドハイドという、この一帯を治める領主だ。 先ほどまで君を診ていた娘の父でもある」


 親子……。

 それにしては似てないなとも思ったが、父と娘ならそういうこともあるのかもしれない。


「僕は――」


 僕は……。 そう、それだ。 さっき自分が気にかかったのは。 


「――父さん、彼はまだ混乱しているようだ」


「いや、そうじゃ、ないんです……」


 そうじゃない。 事はどうやら、もっと深刻だった。


「何も、思い出せない……」


 混乱しているせいなのか、それとも外的要因があるからなのか……。

 今まで何をしていたのか、どこにいたのか、自身の身の回りのことも、自分の名前さえも、口をついて出てくることは無かった。

 その事実に、しかしどういうわけか、それほどうろたえる様なことはなかった。 それは自分に対しての思いが無い……混乱するだけの過去も、自我も、消え去ってしまったからか……。


「……そうか。 まぁ、それも無理は無いのかもしれない。 君は、この町から少し離れた街道で倒れていたんだ。 近くで横転し、炎上した車と一緒に。 それをこの館に帰ってくる途中だった私が見つけた」


 目の前の男性は自分の身に起きたことを説明してくれるが、それはまるで、紙芝居でも語り聞かされているかのように、他人事として聞こえた。


「他に同乗者がいたかは分からないが、君以外に人の姿は無かった。 加えて、一目見ただけで怪我の具合は一刻を争う事態だと判断した」


 ――つまり、自分はこの人に命を救われたということらしい。

 想像することしか出来ないが、乗用車が炎上するほどの事故に巻き込まれたというからには、よほどのことが起こったのだろう。 助けられた後に手厚い看護まで受けたようだ。


「何も覚えていない君がいきなり言われても、受け止めるのは難しいだろう」


 というより、実感がない。 本当に何一つ思い出せないのだ。

 だが、それでも――。


「その、ありがとうございました。 治療までしてもらって」


 空っぽになった自分が言える台詞なんて、陳腐なまでにありきたりのものだった。 そうだとしても、命の恩人である目の前の彼、ギルバートさんに感謝を述べることは、当然のことだと思った。


「構わないさ。 これもきっと何かの巡り会わせだ」 


 ギルバートさんはその事をさほども重く受け止めず、当然のこととして笑った。 彼にとって人を助けることは大して大事ではなく、当たり前の倫理観に則ったことのようだ。


「そんなことより、今は君のことだ。 自身のことが何も分からない状態では、何事も立ち行かないだろう」


「……」


 言葉も無い。 まったく持ってその通りだ。

 助けてもらったことは本当に感謝している。 感謝しているが……今の自分には、何一つ無い。  自分が無いが故に引くも進むも出来ない。


「……君をここへ運んだ後、再び現場に戻って事態を把握しようと残骸などを調査したのだが、残念ながら把握できたのは、車種の特定くらいのものだった。 そしてそれも、君に繋がるような情報を得ることには至らなかった。 だから、私の方で君の素性に関して知りえていることは……無い」


 そのときのギルバートの顔は、ここに来て始めて笑みが絶えた。 つまりそれは紛れも無い事実ということなのだろう。


「……僕は、どれぐらい眠っていたんですか?」


「丸二日といったところだ。 医者の予想では目が覚めるのに四、五日はかかると言っていたが、君は存外頑丈だな」


 それでも、二日も眠りっぱなしなほど、自分の体は消耗していたのか。

 一体、自分の身に何が起きたんだ……。

 考えが顔に出ていたのか、ギルバートはそれを払拭させるように言う。


「今しばらくは、休養に勤めるがいい。 しかし、それが終われば、その後のことも考えなくてはいけない。 君が何者で、いったいどこから来たのかを」


 ……そうだ。 今は傷病の身ではあるが、いつまでもここにいることは出来ないことくらい、今の自分でも分かる。


「とは言っても、意識もはっきりしているようだし、 少し時間を置けば、もしかしたら何か思い出すかもしれない」


「父さん、起きたばかりであれこれ考えるのは、いくら意識が戻ったとはいっても心身ともに良くないだろう。 彼はまだ怪我人なんだぞ」


 ギルバートさんの後ろにいたベルキスカさんが気遣ってくれるが、今の僕には何も言えない。 どちらかというと、二人に対しては感謝というより申し訳なさのほうが勝る。

 だからか、今自分に出来ることは可能な限り協力しなければという義務感が感情の上位を占めていた。


「いえ、そんな……」


「ふむ、確かにその通りだ。 すまないな。 私も気が急いていたのかもしれん。 時間ももう遅い。 この話は明日の朝にしよう」


 謝られてしまっても、むしろこっちが困ってしまうのだが、ギルバートという男性はよほどのお人好しなのだろうということは、これまでの会話で納得できた。

 そして、建設的に考えてもその提案は助かった。

 最初に目覚めた時彼女が言っていたように、自分の置かれている立場を整理する時間と、その時間で何かひとつでも思い出せるかもしれなかったからだ。


「ありがとうございます。 そうさせてもらいます」


「ああ。 ゆっくり休んでくれ」


「またな」


 ギルバートに続いて、ベルカがそう言って部屋を出て行った。


「……」 


 とたんに静まり返る部屋。

 まずは、何から考えよう。

 どこから手をつければいいんだろう。

 そう思案しようとした頭の中に、すっと針のように入り込んできた、一つの気になるどうでもいいこと――。


「何も無いって、感情も希薄になるんだな……」


 ――翌朝


「おはよう。 起きて大丈夫か?」


 早朝、再びベルキスカさんが自分の様子を見るためにやって来た。

 結局あの後、自身のことを考えるも思考迷路に入り込むばかりで、何一思い出すことは無かった。 だが、考えるだけ考えつくしたせいか、妙に頭の中と感情面はすっきりしていた。 というよりも、開き直ることが出来たと言えるかもしれない。

 爪の先ほども自分のことを思い出せない以上、白紙から仕切りなおすしか道は残されていないのだから。

 故に、これが本当の空元気というやつだ。


「どういうわけか、思った以上にすっきりしています。 これも身の回りを綺麗さっぱり無くしたせいかもしれません」


 自分でも意外なほど明るい声が出た。 しかし彼女はその返答に眉をひそめてしまった。


「人は時に、自分の身辺を整理するために断舎利を行うけど、お前の場合は捨てすぎだ。 普通の人間は気分の為に、大切な記憶まで整理はしない」


「……そう、ですね」


 ベルキスカさんがどう思ったのかは分からないが、実際その通りだ。 僕の場合、少しばかり捨てすぎたのかもしれない。 ただ、記憶を失う前の自分もきっと、記憶の断舎利なんて本位ではなかっただろう事は確かだろう。


「おはよう少年。 よく眠れたか?」


 ベルキスカさんに続いて、今度はギルバートさんが部屋に入ってきた。


「おはようございます。 いや、実は寝てません」と、ベルキスカさんの時と同じように、自嘲気味に答えた。


「……その様子だと、どうやら記憶はまだ戻っていないようだな」


「え、なんで分かったんですか?」


「あのような状況から何かを思い出した人間は、そんなに落ち着いてない」


 顔にでも出ていたかと思ったが、言われてみるとそれもそうかもしれない。


「……なるほど」


 だけど、ここで取り乱したりして、最悪二人に迷惑をかけるようなことになるくらいだったら、こうして落ち着いていられる自分のいい加減さにはいくらか感謝してもいいかもしれない。


「もしも何か思い出せていたのなら、君の身の振り方もそれに合わせて考えられたのだがな」


「すみません……」


 言葉も無い。 助けてもらったが、いつまでもここで厄介になれるわけではないことくらい、記憶をなくした自分でさえ分かる。 こうして自立するための促しをしてくれることは、むしろ感謝すべきことだろう。


「謝る事は無い。 昨日の今日だ、簡単に答えの出る問題じゃないのは分かっている。 だが、聞いておかなくてはならない事でもあった。 今の君に、今後の君自身のことを選ばせなくてはならないからな」


「はい」


「酷い事を言うようだが、当家は素性の知れない者を長く囲っておくことが出来るような立場ではない。 だから、こういったケースでは然るべき機関に君を案内するのが、基本的な流れとなる」


 別に何一つ“酷い事”など無い。 この二人には、二人の立場がある。 その然るべき機関という場所さえ教えてくれれば、喜んでそこへ移ろうというもの。 ……どんなところかは知らないが。


「分かりました。 では、もしそこへ行くための手続きが必要なら、これから――」


「しかし、だ」


 話を円滑に進めるためにこちらからその件を申し受けようとしたところで、ギルバートさんはそれを遮るように手をこちらにかざした。


「君は私の領地で原因不明の事故、もしくは事件にあった。 ならば、出来る限り力になりたいということもあるが、なにより原因を迅速に突き止めたい。 此度の件に事件性があるのなら、このままにしておくことは出来ないからだ。 そこには、おそらく君の協力が不可欠だ。 だからというわけじゃないが、君さえよければ互いの為に協力し合わないか?」


「協力……と、言いますと?」


 思っていた話の斜め上の提案だ。 現状の身の上に起こった問題の調査に自分が必要であるということはなんとなく分かる。 そのために協力しろというのなら、断る理由は無いが……。


「君の身に起こった事件の解決への一番の近道は、やはり君が何かを思い出すことだと思う。 しかし、君が私の領地から離れてしまうと、そのきっかけも一緒に遠のいてしまうような気がするんだ」


 ギルバートがそう言うと、後ろにいたベルキスカがそれに続く。


「印象や記憶は、場所やモノに関連付けされる。 つまり、ここより遠くの地へ行くことによって、自分の記憶と事件、事故の糸口が失われることは好ましくないということだ」


「だから、君には私の領地で生活してもらうことを希望する。 そして何か分かったら何でもいい、教えてほしい」


 ギルバートさんは僕の肩に手を置き、片眉を吊り上げて探るように僕の目を見据えてきた。


「あ、はい……」


 別段、断る理由は無い。 というより、自分にとってはどちらでもよかったというのが素直な感想だ。

 正直なところ、一夜を費やして戻らなかった記憶が、早々戻るとも思えなかった。 だから、この地に居ようが離れようが、一切を持たない自分には執着するものが無いのだ。

 あえて留まる理由を探すとすれば、ただそれを求められたからといったところだ。

 だが、ギルバートさんはその返答を好意的に受け取ったのか、表情がわずかに明るくなった。 後ろに控えていたベルキスカさんも、僕の返答に満足しているようだった。


「よかった。 では、この地に残ってれるお返しというわけでもないが、私達は君に名前と住居を提供しよう」


「名前と……住居?」


「いつまでも名無しでいるわけにもいかんだろう。 それに、こちらとしても名前があった方が都合がいい。 君にとっても、名前は必要だろう?」


 ギルバートさんはベルキスカさんが手にしていた一枚の紙を受け取り、僕に手渡した。


「だから、君は今からケビンだ」


 そこには名前と思しき一行が記されていた。


「ケビン……」


「そうだ。 “ケビン・オーティア”。 数十年前にその名の男性が町はずれに住んでいたのだが、今は住居だけがひっそりと佇んでいるのみだ。 もともと家屋自体は当家で管理していたものだから、君が住むぶんには何の問題もない。 まぁ、流石に多少は手を入れなければならんだろうが……なに、それも人手があればすぐ終わるだろう」


「……」


 突然のことで何と口にしたらいいのか、自分の頭では戸惑いが九割を占めていた為に、中々考えが纏まらなかった。

 ただ、はっきりしていることは自分が今、最上の施しを受けているということだ。 


「……何から何まで、ありがとうございます」


 この誰だか分からない僕は、目の前の二人に文字通り一生分の恩が出来た。


 ――それが、ケビン・オーティアが生まれた日だった。

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