3.攻めの一手
最終コーナを出て分岐、クロがピット・ロードへと入る。
ホーム・ストレートを横目に減速、所定位置へときれいに収まる――や。
群がった。ピット・スタッフ。ジャッキ・アップと燃料補給を並行しつつ、駿へとカウントを提示する。『2秒』。
タイアが素早く換えられる。燃料タンクの空気を抜くと同時に燃料が圧送されてくる。あと1秒。
ジャッキ・ダウン、補給終了、立て続け。
スタッフが速やかに退いた。正面クリア。合図がくる。
ブレーキ解除。クロを進める。隣のホーム・ストレート、差しかかるV12勢を横目にピット・ロードの出口へ――抜けた。加速。天使の絶叫、いま再び。
「満タンにしないのね」麗がクロを見送りつつ、「これも戦術?」
「タイアはモータ車だって換えなきゃならん」監督が指を一本立てて、「そしてこの所要時間はエンジン勢と変わらない。いくら充電が速いったって、タイアがなけりゃ走れないからな」
「つまり」麗が小首を傾げて、「こちらのピット・タイムを?」
「そういうこと」監督が指を踊らせた。「モータ車と同じ水準へ持ち込んだのさ。これで向こうの利点が一つ吹き飛ぶ」
「こっちの燃料は?」麗が眉の端に問いを引っかけ、「ゴールまでには足りないはずよ」
「タイア交換はもう一回ある」監督が再び指一本。「計算したさ。あと一回の給油でゴールまでは保つ。終盤でわざわざ余計な燃料抱えるこたぁない」
「隣は3.5秒かかったわ」
「パワー・バンドに限って言や、」監督が見せてしたり顔。「ロータリィ・エンジンてのは効率いいんだ。余計な部品をぶん回したりしないからな」
『駿』翌々周、クロの無線へ監督の声。『いまモータ車がピットに入った。最後のV12もだ――ぶん回せ!』
「了解!」
進路はクリア。シケイン目前。ギアを叩き落として猛減速。
ロス最小。ライン取りにも文句なし。最終コーナを経てホーム・ストレート、全力加速で突き抜ける。
第1コーナ前で横に白、復帰するモータ車のシルエット。全速のクロが――追い抜く。そのまま第1コーナ、後続がカーヴの陰へと沈む。
「先頭!」麗が指を鳴らした。
出資達成率が勢いを増す。40――を越えた。40.6%。
「さて駿、」監督が無線へ呼びかける。「猫の皮は外していいぞ。タンクの重みもタイアの馴染みもいい頃合いだ、後ろに圧をかけてやれ!」
リードを取った。邪魔もない。駿は全力。距離を稼ぐ。
このリードが続く保証はない。現に予選ラップはモータ車がさらっていった。全力で追い上げにかかられたなら、独走でいられる時間も長くない。
前方に影。背中を捉えた。周回遅れの最後尾、V12。その速度が見る間に落ちていく。
「……トラブル!?」
と、そこで眼に黄色。イエロゥ・フラグ、追い越し禁止。
イエロゥ・フラグはピットのモニタにも映る。
「事故!?」麗の声に緊張が乗る。
「いや、」公式発表を眼に監督。「故障車が出た。最後尾――自力でこっちへ走行中らしい」
「いいところで……いえ、」麗が首を一つ振って思い直す。「愚痴ってる場合じゃないわね」
周回遅れを追い越せないからには、リードを稼ぎようがない。
「事故ってないだけマシってもんさ」監督の眼尻に凄みが覗く。「駿とクロには悪いが、こいつが望んだ展開だ」
半拍、麗が思い当たって口に出す。「ガタがきた?」
「そう、」監督が頷き、「そして車体のダメージを修復してる暇は誰にもない――俺達の勝負はこれからだ」
『駿!』シケイン目前、駿の鼓膜へ監督の声。『じきに故障車が抜けるぞ――用意はいいな!?』
「いつでも」駿が拡張現実、後方視界へ眼を投げる――付かず離れずモータ車。
『いいか、』監督が続ける。『故障車がピット・ロードへ抜けたら――攻めろ。出だしっから遠慮は無用だ』
「トラブルにビビってる連中は?」声を揺らがせもせずに駿。
『ビビらせついでに、』監督の声が悪く笑む。『ド肝も引っこ抜いてやれ。ロータリィのシンプル構造は伊達じゃないってな!』
最終コーナを大人しく抜ける。視界にマーシャル・ポスト要員、その手にグリーンのフラグを構えて――、
トラブルを吐いたV12が、ピット・ロードへ――、
入った。翻る。グリーン・フラグ。追い越し解禁。アクセル開放。駿の身体に加速G。
ホーム・ストレート、ロケットさながらの猛加速。後続を置き去り、ギアを掻き上げ、速度に速度を乗せていく。
背後。モータ車。離れない。
ぶん回す。なお加速。第1コーナへの進入ライン。限界。ブレーキ。全力。インを差す。
「さぁて、」監督が口の端、小さく舌を覗かせる。「ここからが勝負どころだ。音を上げるなよ」
「いずれは周回遅れ勢が出て、」麗はモニタの先、クロの行方を睨みつつ、「頭の重い展開になるわね」
「確かに周回遅れの存在ってのは軽くない」監督が両手をこすり合わせて、「進路を譲歩する義務があるったって、独走できなきゃライン取りだって乱れるし、向こうだって『気付かない』ってこともある。負担はゼロってわけにはいかない」
「でも、」麗が声を監督へ。「追うモータ車にしても条件は同じよね」
「その通り」監督が立てて指一本。「この過酷な展開ってのは、つまり攻めの手でもあるのさ。どっちみち俺達に2位はない」
麗が携帯端末へ眼を落とす。出資達成率――43.8%。
「我慢比べだ」
旋回Gを抜けた拍子に、駿から本音がふと洩れる。そのまま全開加速で次に控えるスプーンの曲線へ。拡張現実、後方視界に――白い影。モータ車。機を狙う。
「いいだろう」駿が歯を食いしばりつつ、「付いてきやがれ!」
周回遅れは、何も1台2台に限らない。
V型エンジンはピストン内で燃焼を起こし、このエネルギィを直線運動として取り出している。これを駆動軸の回転運動へ変換するには相応の機構を要し、また機構が複雑であればあるほど故障のリスクを抱え込む。
そして過酷なレース展開は、あらゆる部品の負荷に拍車をかける。繊細な機構を抱えているほど、消耗のリスクは大きくなる。
また1台、V12が駿の前からピット・イン。
「さぁて、」監督が隣ピット、突貫修理へ眼を投げる。「脱落するヤツぁあらかた出尽くしたか」
全行程の6割半を過ぎて、リタイアしたチームは3割に届く。先頭争いに残っているのはクロとモータ車、追う第2集団のV12――合わせて5台というところ。
「仕掛けるには、」隣で麗がコースを見やる。「まだ早いんじゃない?」
「波乱が一段落ついたってんなら、」監督が人の悪い笑み一つ、「こっちで種を撒きにいくのさ」
「タイア交換?」打ち返して麗。
「そういうこと――駿!」監督が無線へ、「次でピットへ。ピット・インだ!」
「つまり、」麗が小首を傾げつつ、「展開の変わり目で走りを変える?」
「これまでの展開で、」監督が頷き一つ、「タイアは相当ヘタってる。これから引っ掻き回しにいくんなら、踏ん張れなけりゃ話にならん」
「給油は?」麗が顎へ指を添え、
「2秒」即答、監督。
「残り行程3割半」麗から疑問。「足りるの?」
「消費分を律儀に足してるわけじゃない」監督が肩をすくめて、「工程ギリギリ、満タンじゃ逆に負担が増える――それよりそっちは?」
麗の眉が怪訝に踊った。「こっち?」
「出資金だよ」監督は片頬に笑みを引っかけ、「まだまだ盛り上げが足りんだろ?」
気まずげに麗が口をつぐむ。携帯端末、出資達成率――48.6%。
モニタ向こう、ピット・ロードへクロが入った。気付いたモータ車が勢いを増す。つられて加速、V12。
「察しがよくて助かるねぇ」監督の笑みに獰猛の色。「さぁ逃げろ逃げろ、こっちぁこれからまくってくぞ!」
そこへクロの車体がピット・イン。クルーが群がる。
きっかり2秒、進路クリア。クロが前へと滑り出す。加速開始。
「いいか駿!」監督が無線へ飛ばして檄。「まだまだリードが足りん。他の連中はじきピットへ入る。鬼のいぬ間に攻めて攻めて攻めまくれ!!」
そしてピット・ロード出口、天使の絶叫が空を衝く。
タイアを換えれば踏ん張りが戻る。タンクの質量も最小限。より力強く、より雄々しくクロが戦線に返り咲く。
最大加速から一転、第1コーナへ向けて猛減速、されど進入速度は最高水準、そのままラインを攻めに攻め、出口間際でぶん回す。高回転。本領発揮。ライン取りも滑らかに、クロがその身を弾き出す。
沸いた。歓声。怒濤の声援を背に受けて、クロがS字を攻め上る。
「速い!」麗の声に興奮の色。
「よしいいぞ!」監督からも快哉。「連中の尻に火をつけてやれ!!」
モニタ向こうにクロの勇姿、2連のコーナを抜けて加速、ヘアピンへと急接近。
つられて出資達成率が跳ね上がる。50を平らげ、60へ迫り――抜いた。60.8%。
猛追。その先、V12。さらにその先、モータ車。尻に焦りを滲ませて、しかしタイアの疲労が足を引く。
先行のモータ車はバック・ストレートで逃げを打つ。続くV12勢は最高速度で勝負をかける。いずれ末期のタイアでは、直線を攻めるが関の山。追うクロは大きくRを抜けて、スプーンの曲線へ攻めかかる。
突撃。旋回。遠心力。天使が叫ぶ。タイアが地を噛む。脱出。加速。躍り出る。バック・ストレート。ぶん回す。
最終コーナを控えてシケイン前、モータ車がピット・ロードへ姿を消した。遅れてV12勢が後を追う。
進路クリア。バック・ストレートから猛減速。クロがコーナを――抜けた。勢いそのまま再加速。
監督が敵ピットへと眼を向ける。モータ車が滑り込んでくる――なりピット・クルーが群がった。
モニタ向こう、クロが唸りを上げてシケインへ。最大の減速ポイントを攻めに攻め、出口で雄叫び――加速し続け最終コーナ、ホーム・ストレートへと抜ける。
大喝采。降り注ぐ歓声は瀑布さながら。下をくぐって天使の絶叫、駆け抜ける。
2秒。モータ車。ピット・ロードへ。出口へ加速。
「駿!」監督が無線へ、「モータ車が出る。最後の勝負だ! 攻めの一手でねじ伏せろ!!」
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