季節はずれの亡骸

紫 李鳥

前編

 


 小澤博昭の死因はO157による食中毒だった。小澤の妻、安喜子の証言によると、小澤は普段から手洗いを励行していなかった。対照的に安喜子のほうは過剰なほどの潔癖症で、


「夕食後のシンクの掃除は欠かしたことがありません。ですから、ウチからの発生ではないと断言できます」


 と、自分に落ち度のないのをアピールした。


 では、どうして小澤一人だけが食中毒を起こしたのか。この事件を担当した山崎は不思議に思った。確かに、肉体疲労や胃弱体質などが食中毒と重なれば死亡に至る原因の一つにはなるが、それにしても、外から持ち帰った菌やウイルスが小澤の手に付着していれば多かれ少なかれ同居している安喜子にも影響が及ぶはずだ。だが、当の安喜子には全く症状がなかった。それが却って山崎に疑惑を抱かせた。大腸菌を食べ物に混入することもできるが、数日間の潜伏期間があるため、発症してからでは原因を特定するのは困難だ。


 そんな時、新宿にある健康器具販売会社の小澤のデスクから一通の手紙が見つかった。


〈死んでお前に復讐してやる〉


 筆跡から、女であることは間違いなかった。消印は小澤が亡くなる二日前だった。


 小澤は病死ではなく、腸管出血性大腸菌を利用した殺人だと確信した山崎は小澤の身辺調査を始めた。小澤には女がいたのでは? 同僚や部下に恨みを買うようなことはなかったか?


 だが、皆が口を揃えた。「判で押したように真面目な人だった」と。つまり、恨みを買うどころか、女の影もなかったのだ。では、あの手紙は誰が書いたものなのか。毛筆で書かれたその文字は、なかなかの能筆だった。これだけの筆跡の持ち主だ、誰か一人くらい心当たりがあっても良さそうなもんだが。


 そんな時、もう一度捜査をやり直すつもりで小澤の会社に赴くと、運良く情報を得ることができた。


「あれっ、この字、どっかで見たな。……どこだっけ」


 小澤と同年代の三十二、三の妹尾は、豊かな髪に手櫛を入れると、筆跡を凝視した。


「……あっ、そうだ。ちょっと待ってください」


 思い当たったのか、急いで腰を上げた。手にしてきたのは一枚のハガキだった。


「これです」


 山崎が置いた便箋の横に並べた。




 謹賀新年

  昨年はご利用頂き

  誠に有り難うございました

  本年も何卒宜しく

  お願い申し上げます

           佐久間




「これは?」


「私が利用していた駐車場のあるじからです」


「女の人ですね?」


「ええ。正月にこの年賀状をいただいて。綺麗な字だったんで、引き出しに仕舞ってたんです」


「確かに同じ筆跡ですね。特にこの“し”の伸ばし方に特徴がある。で、この駐車場は今でもご利用ですか」


「いえ。今はレンタカーショップになってますよ」


「このハガキをもらったのはいつ?」


「今年の一月です」


 妹尾が消印を指差した。


「で、この佐久間という女性と小澤さんの関係ですが」


「さあ……小澤は車じゃなく、電車でしたからね。あの駐車場とは関係ないと思うけど、別のとこで知り合った可能性はあるでしょうが」


「どんな感じの女性でした? いくつぐらいの」


 山崎はメモしながら改行の準備をした。


「さあ……四十前ぐらいですかね? ハキハキしてて勝ち気そうな感じでしたね」


「うむ……」



 レンタカーショップになっている元駐車場に行くと、近所のたばこ屋で話を訊いた。


「ああ、佐久間さんね? 二月頃かしら、突然、姿が見えなくなって。佐久間さんがどうかしたんですか?」


 老女は耳が遠いのか、自分の声を大きくした。


「駐車場を閉めた理由をご存じですか」


「さあ……突然ですよ」


「どんな人でした?」


「なかなかの別嬪べっぴんさんで、一人で何でもバリバリやってましたよ」


「自宅はご存じですか」


「そこの信号を右に行った角の茶色いマンションですよ」



 マンションの管理人から話を訊くと、今年の二月末に解約し、引っ越し先は分からないとのことだった。


「さあ、人の出入りは分かりませんが、亡くなった父親の跡を継いで駐車場を経営していたみたいですよ。あの一等地ですから、レンタカー屋に高額で売ったんじゃないですかね」


 胡麻塩頭の管理人は憶測を交えながら、お節介な性格であることを自らが教えていた。


「あれだけの美人で金もあるんだ、男のほうが放っとかないでしょ。ニヒヒ」


 下卑げびた笑いをした。



 管理人から教えてもらった不動産屋に行くと、佐久間孜子の実家を聞き出した。



 盛岡。孜子の実家は、ぺんぺん草が生い茂る更地だった。豪邸であっただろうと思われる200坪ほどの敷地が、栄華の名残のようにどーんと構え、それが却って物悲しさを如実にょじつにしていた。


「ええ、近所でも有名な旧家でしたよ。じぇんこ持ぢで、娘さんが器量よしなもんで、どこのどなださんが婿入りするがって、近所でも話題でしたよ」


 中年女はほうきを持った手を休めると、腰を反った。


「父っちゃんが心筋梗塞で亡ぐなってがらは東京さ引っ越して。母っちゃんは孜子さんが幼え頃さ病死してらがら」


「孜子さんはどんな人でした?」


「いやぁ、もう勉強のでぎる子で、美人の上さ頭もいいんじゃ、お婿さんが苦労するわねって、近所で勝手なごど言ってましたよ。ふふふ」



 孜子は一体、どこにいるんだ。小澤への手紙は単なる嫌がらせか。食中毒を利用して小澤を殺したのは孜子じゃないのか。山崎は背中を湿らせた麻の背広を腕に掛けると、水分を含んだハンカチで首の汗を拭った。――気分転換に遠野まで足を伸ばすと、河童伝説の民話を傾聴した。帰りに、「前沢牛ローストビーフにぎり寿司」を買うと、新幹線に乗った。


 数日過ぎても手がかりが掴めない山崎は苛立いらだっていた。ところが、間もなくして事態は急変した。

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