信楽の戦い
「六角四郎、やはり動き申した」
かつて主家の嫡男だった人間の名前を口に出すトーンとしては、あまりにも冷酷なものだった。甲賀衆の総指揮役を担う三雲定持は、俺の指示を通し、報告を受ける連絡役である。甲賀衆が半蔵と長門守の説得で態度を軟化してくれたのは幸いだった。
「こちらに向かっているか?」
「はっ。左様」
六角義賢の陣営はロクな重臣が残っておらず、甲賀衆も軒並み反旗を翻したために統制が取れないばかりか、甲賀衆が流した流言により情報の錯綜も著しいようだ。それゆえに六角定頼陣営がどのような動きを見せているのか、それすらも不透明な状況に立たされており、今頃は義賢も歯噛みするばかりだろう。その上、六角定頼の本隊が浅井亮政が駐在する佐和山城に向かい、義賢の注意を惹き付けてくれた。そのお陰で俺が率いる軍勢の動きを掴ませずに済み、俺は敵の混乱に乗じて信楽に兵を進め、三雲城の背後に布陣することに成功していた。
しかし、どうにかして六角義賢を観音寺城から引き摺り出す必要があった。
「元々頭に血が上りやすい男だ。乗ってくれれば運が良い程度に思っていたが、期待は裏切らぬな」
義賢はバカにされるのをもっとも嫌っている人物だ。そして同時に自分の身分に対し矜持と誇りを過分抱えている。そんな中、卑しい素破と蔑んでいる甲賀衆に思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけたらどうなるだろうか。それだけではない。甲賀衆が近々観音寺城を襲撃し乗っ取ろうと計画を立てているなどと聞いたら、当然義賢は憤慨する。
情報の真偽も定かではない中、たとえデマであると分かっていても甲賀衆の蜂起に怯えるくらいなら打って出ようという姿勢は理解できる。六角家に限らず、戦国大名は「ナメられたら終わり」なのだ。狙い通り、義賢は三千の兵を率いて観音寺城を出立した。
「ふん、こうもあっさりと三雲城を放棄するとは腰抜けどもが。やはり噂は噂であったということか」
六角義賢は拍子抜けといった表情で呆れた笑いをこぼした。周囲の家臣は追従する様に賛意を示していく。事実、三雲城は抵抗らしい抵抗はなく、城内に残っていた者も頃合いを見て脱出を試みていた。
「甲賀衆は信楽の方へ落ち延びたとの由にございます」
「ふっ、ならばこれは好機であるわけだ。直ちに潜んでいる素破どもを一網打尽にせよ。この俺を虚仮にした報いを受けさせ、近江を磐石に掌握するのだ」
有力な重臣が軒並み定頼陣営に付いている中で、義賢の判断に異を唱えることのできる者はいなかった。誰しもが口答えすれば処罰されるという恐怖のもと、義賢に付き従っていた。
そして義賢自身は三雲城に留まったまま、翌朝には信楽に通ずる山道へ第一陣を入れた。これは過去、甲賀衆が山に潜みゲリラ戦を展開したことから、囮を放った形である。この第一陣はなんの問題もなく山道を抜け、信楽の東端にたどり着いた。そのため、義賢の懸念が杞憂に終わったと考えると同時に、甲賀衆は指揮官がおらず戦略的な戦い方が出来ないという結論に至る。
かくして義賢の率いる本隊は山道へと駒を進めた。
「な、何事だ!」
山中に、突如として耳を聾する炸裂音が響き渡った。義賢の喫驚と同時に、得体のしれない恐怖が将兵の間に伝播する。本隊の行軍は途中までつつがなく遂行されていた。しかし危機の予兆すら感じられない静寂に、緊張が緩んだのだろう。最後尾の義賢が未知の中間部を過ぎたあたりで、その轟音は起こった。その正体は鉄砲である。
冨樫家で複製を進めていた鉄砲は数は少ないながらも原本と変わらぬ性能を保持し、増産と本格的な戦での運用に向けて準備が着々と進められていた。その第一弾として、今回十丁が伊賀衆の手練れによって使用されたのである。
ただ、靖十郎の軍も総数は決して多くはない。いくら鉄砲という最新鋭の武器を用いても、その数が多いわけではないので正面から戦えば相応の損害は覚悟しなければならなかった。そのため、あくまで威嚇射撃という形で六角軍を混乱に導くことを主目的とした運用がなされた。
機が熟すのを待ち、背後から威嚇射撃を響かせる。これによって、元々鉄砲のような大きな音が苦手な馬は一斉に暴れ出した。馬上の義賢も同様で、バランスを崩して勢いよく地面に叩きつけられた。
「グハッ……」
「し、四郎様!」
「ええい、何者の仕業だ!」
一時は衝撃と痛みに目を回しながらも、何とか立ち上がり辺りを見回すが、轟音の正体に気づくことはできない。
「分かりませぬ!」
「分からぬなら確かめに行くくらいの胆力はないのか、この腰抜けめが!」
「はっ、申し訳ございませぬ!」
「とにかく前へ進むのだ! もうじき山を抜けるであろう」
未熟な義賢も冷静さを欠いており、背後から迫る恐怖に耐えきれず我先にと将兵を押し退けるように猛進していく。その間にも甲賀衆と伊賀衆の巧みなゲリラ戦術により多くの兵を失うも、運良く義賢に攻撃が当たることはなかった。
そしてようやく山を抜けた開放感の先に待っていたのは、絶望の二文字であった。
「ろ、六角の旗だと……?」
あるはずのないもの。いるとしても、烏合の衆に過ぎない甲賀衆の粗末な軍だと義賢は思い込んでいた。受け止めきれない状況に思考が停止する。
「よもや父上ということはあるまい。父上は浅井を狙って北上している。……いや、これは」
思い当たる節は一つしかなかった。冨樫靖十郎泰俊、義賢にとって最も忌々しく、この世から消し去りたいと何度も思った男。その靖十郎が六角の旗を携えて自らの前に立ち塞がっている。苛立ちは最高潮に達した。
「クソ! やはり父上は冨樫に六角の家督を譲るつもりで引き入れたのだ! この俺を差し置いて……なぜだ、なぜなのだ!」
慟哭にも似た義賢の叫び声が響く。そして本来の旗とは違う水色に色染めされた旗に、六角家を汚された屈辱感を覚えた。
「四郎様、今は」
「五月蝿いわ! あの忌々しい冨樫の首を取るのだ! あの首を献上せし暁には、望む褒美を全て取らせよう。あの男は六角を蝕む悪鬼である!」
その声に呼応して動き出すものの、動きは鈍重であった。鶴翼の陣で義賢軍を取り囲む定泰軍に、一切の隙が見当たらず、ロクな隊列も形成できていない中で命を捨てて突進する者などいなかったからである。背後の山道は甲賀衆や伊賀衆が敗走する将兵を待ち構えており、まさに背水の陣となっていた。
「何をしておる! 早く戦わぬか!」
義賢の声は届かない。代わりに背後から再び銃声が響き渡ると、その音に恐怖を感じパニックを起こす者がまばらに現れた。一度起きた混乱は波及して収拾の付かない恐慌状態に陥っていく。
その好機を見逃すはずはなく、定泰軍の前方部隊が槍を構えて勢いよく突進する。槍は容赦なく義賢軍の将兵を襲い、迸る血は返り血で定泰軍の水色の旗を侵食していった。そして緋色の土と混ざった韓紅の液体が、両軍の甲冑に跳ねて色染めしていく。
「六角の嫡男である俺に斯様な狼藉を働いて許されると思うておるのか!」
「嫡男? 謀反者の間違いであろう」
聞こえていると思ったのか、義賢は靖十郎に対し魂の激昂を浴びせた。飄々として受け止めた靖十郎は、聞こえていながらも小さく反応するに留める。そこに英傑・六角定頼の息子という色眼鏡は一切なく、冷ややかに『謀反者』と罵った。
「哀れな御方よ」
「……左様ですな」
沓澤玄蕃助は崩れゆく義賢軍の有様を直視し、明らかに強がった態度を貫く主君を慮りつつ、小声で同調する。歴史上では織田信長に近江から追放されながらも豊臣秀吉の御伽衆となって往生した人間の未来を、自分の行動によって断ち切ってしまうことに抵抗があった。最期は定頼の決断に任せ、罪悪感から逃れたかったのも靖十郎の紛れもない本心。しかし、義賢の立場に代わって六角家をまとめ上げようとしている靖十郎自身が、その逃げを許容しなかった。
六角義賢の最期をこの目で見届けなければならない、そんな使命感があった。
「おのれ、冨樫泰俊よ! この恨み、地獄に行こうと忘れぬわ!」
必死に足掻こうと自ら少なくなった兵を使役する義賢は、未熟ながらも強い思いで猛々しく舞っていた。
「お主の的外れで未熟で愚かな恨み、目障りで仕方なかったわ! やること全てが六角のためにならぬ愚者の所業であった。だからこそ私が選ばれたのだ! だがこの六角家はこの私が引き継ぐ。そしてお主のしてきたことが、確かに過ちだったと証明しよう!」
最期まで静かに見守るつもりだった靖十郎も、最後の最後で思いの丈をぶちまけた。義賢はその言葉を叩き潰すかのように右手の刀を力ずくで振るい、歯を折れ曲がりそうなほど強く軋ませた。
そして直後、雑兵が携えた一本の槍によって腹部を深々と貫かれる。血の絨毯となっていた地面に倒れ込むと共に、勢い盛んな定泰軍に押し潰されていった。
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