後継の重圧

「四郎が斯様な愚かな真似をするとは思わなんだ」


 目の前で怒りと軽蔑を露わにする六角定頼は、少数の兵を随行させて北伊勢から長野領を通って壬生野城へ落ち延びた。定頼の胸臆に帯びる感情は、推して知るべしだろう。


 その可能性はあると、俺も考えなかったわけではない。義賢の俺に対する敵愾心、周囲への不信感は異常なものだったからだ。いずれ六角家に痛手を負わせるような失敗を起こして、乱世における六角家の盤石な立場に亀裂をもたらすのではないかと危惧はしていた。しかし六角家の嫡男でありながら父親、ひいては六角家を裏切る行為に走ったのは、定頼が漏らす通り愚かだとしか言いようがない。


「しかし四郎殿はなぜこのような愚行に走ったので?」

「浅井が唆したに違いない。四郎の背後には浅井がおる。宿老を一人も残さなかったのが仇になったわ。考えなかったわけではない。四郎は体調が悪いと申しておったからな。医者からも健康には問題ないとの墨付きだった。それで問題はないと判断したわけだが、私も甘かった」


 定頼は北近江へ頻繁に兵を送っていたものの、浅井亮政の巧みな国人掌握により決定打を与えられない展開が続いていた。しかしながら北近江守護の京極は家中で専横を強める浅井に反発し、実権を握った亮政とは長く対立している。数年前に京極と浅井が和解してはいるものの、京極の不満は溜まる一方であり、不安定な状態となっていた。


 その中で伊賀と北伊勢を手中に収め、破竹の勢いで勢力を拡大する六角は脅威だった。そして辛うじて侵攻を防げていた状況が崩れることを危惧した亮政は、一計を案じたのである。亮政も観音寺城に間者を忍ばせて様子を窺っていたのだろう。親子関係が険悪となりつつあり、近江に定頼が不在という格好の状況を見逃さず、義賢に近づいた。


「嫡男ともあろう方が裏切るなどと思う方が不思議にございましょう。これは私が四郎殿を煽り、和解に本気で向き合わなかったことが原因にございまする」


 史実で定頼の存命時において義賢が叛旗を翻すことはなかった。つまり、俺の存在が原因でこのような事態になったのは否定できない事実なのである。そして義賢と険悪な関係を無理して正そうとしなかったのも俺の意思だ。ただ、大人気ない態度を貫いていたという自覚はあるが、それが悪かったとも思っていない。


「いや、四郎を正せなんだ父親である我が責任だ。靖十郎殿が気に病む必要はない。愚かな息子を甘やかしてしまったこと、どうか許して欲しい」


 そう言って、定頼はほんの少しだけ頭を下げた。


「頭をお上げくだされ。此度の一件、私も責任の一端を感じておりますれば、解決のため助力させて頂きまする」

「ゆるりと休んで欲しいと申したのにも関わらずかたじけない。身内の恥を自らで解決できぬのは断腸の思いだが、どうか力を貸して欲しい」

「無論にございまする。近江は宿老や地位の高い重臣が治める領地を除いて多くが浅井に与したと伺いましたが、戦力はいかほどに?」

「寝返った国人を加えると近江の軍勢は二万に上ると試算している」


 南近江は元々独立性の高い地域だったこともあり、多くの国人が管領代の力が及ばぬ状況になったと見るや否や、挙って寝返った。一部の重臣も身の危険を感じたからか浅井に与したという。


「伊賀はここ最近多くの民が流入しておりますが、それでも現状当家が単体で出せる兵は五千程。致命的な損害を与えたとはいえ、北畠も諦めてはおらぬでしょう。となれば臣従した長野家も出せて一千五百ほどになるかと存じまする」


 善政を敷いている伊賀には、畿内全域から多くの民が噂を聞きつけて流れてきた。その結果人口は倍になり、国内の産業も急成長しつつある。


「四郎は傀儡に過ぎぬであろうが、厄介なのは浅井か。備前守は京極を乗っ取り北近江に覇を唱えた切れ者ゆえ、一筋縄にはいかぬだろう」


 定頼は溜息を吐く。北伊勢の兵を合わせても近江勢には遠く及ばない。正面から衝突すれば勝ち目は薄かった。


「やはり兵を分けて近江に攻め入るべきでしょう。北伊勢の五千は八風街道から、冨樫・長野は南からという形になりましょう。浅井と六角の兵が足並みを揃えられるとは思いませぬ。現状、観音寺城に浅井の兵は入っておらず、浅井の全軍は佐和山城でこちらの動きを窺っていることかと存じます」

「うむ、私もそう思っておった。だがこの戦、万が一にも私が敗死することとなれば、六角家は四郎が家督を相続することになる。つまるところ……」

「六角が浅井に乗っ取られるのは必定、という訳ですな。それだけは何としても避けねばなりませぬな」

「左様。そこで私は四郎を廃嫡と致すことに決めた。無論、謀反を起こした嫡男を赦すはずもないがな」

「なっ……」


 思い切った決断に思わず吃るように声が出た。だが定頼に他の息子はいない。廃嫡にするということは、誰か他の後継を指名するのだろうか。


「弟か親族に家督を譲ると?」

「いや、そうではない」


 定頼は俺の目を射抜くように見つめる。背中に温い汗が伝った。


「私は靖十郎殿、貴殿を養子として迎えたい」


 とんでもないことを言い出したと思った。俺があの六角定頼の養子?あまりにも突飛な話に文字通り目を丸くする。


「は……、それは一体どのような意味でしょうか?」

「言葉通りだ。養子に迎えた靖十郎殿を嫡男とし、私亡き後の六角家を任せたい」

「しかし私は冨樫家の人間にございまする。六角の血を引いていない私が六角の家督を継げば、それこそ混乱の種になるかと」

「私はそうは思わぬ。冨樫家は幕府の重鎮で名門の血筋だ。我が兄の娘を妻とし、数々の戦功を挙げて六角家中の信頼も篤い。あとは六角の血を継ぐ嫡男さえ生まれれば誰からも文句は出ぬ」

「……」

「私とて、四郎には愛情を持って接してきたつもりなのだ。そして靖十郎殿、貴殿のような男に育って欲しかった。それ故に四郎には靖十郎殿を見本としてもらいたかったのだが、その思いが裏目に出た。靖十郎殿、尻拭いをすると思ってこの話を受けて貰えぬだろうか……!」


 懇願するような真に迫った声だった。気まずくはないものの、張り詰めたような沈黙が漂う。


「……承知いたしました。養子となる話、お受けいたしまする」


 定頼とて、一時の思いではないだろう。大切なたった一人の嫡男が、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまった。親としての温情を断ち切り、廃嫡という決心に至るまでには様々な葛藤があったはずだ。俺は稍と約束した。この国を皆が平等に、平穏に暮らせる世にすると。中央政界に多大な影響力を持つ六角家を継ぐということは、人々に貧しい暮らしを脱却するための可能性を広げるということだ。その可能性を放棄することは、自分自身許せなかった。そのためには南近江を取り戻さなければならない。重圧と責任の重みが肩にずしりとのしかってくるのを感じた。

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