水面下の攻防

「なっ、冨樫が長野に味方しただと?」


 北畠軍を率いる部将の一人・藤方慶由が、床几を倒す勢いで立ち上がり喫驚する。慶由は家中でも指折りの武辺者であり、野太い声は鋭く響いた。春の麗かな陽気とは反して、家所城の西に構えた陣地には空気が張り詰める。



長野と冨樫が手を組んだことは、現場の士気を維持すべく上層部のごく限られた者の間で留まっていた情報だったが、こうして開戦を迎えてその関係性が明らかとなった。この盟約は北畠主従にとって当然良いことではない。下国とはいえ伊賀一国を治め、南伊賀から北畠の介入する余地を消し去った程の地力を備える冨樫が力添えすれば、北畠も苦戦は必至であるからだ。


「ああ、長野城に送った間者によれば、冨樫が長野城に兵糧を運び込んだらしい」


 同じく北畠軍の一軍を担っていた田丸具忠が冷静な口調で答える。


「それでは米を高く買い上げた意味が無いではないか。これでは丸損だ」

「そう短絡的に捉える必要もなかろう。それほどまでに長野を追い詰めている証左でもある」


 同席する諸将から『確かにそうだ』という納得する声が口々に上がった。


「伊賀一国を治めているとはいえ、冨樫も然程身代が大きいわけではない。必要以上に冨樫を警戒せずともよかろう」

「しかし、長野に味方したということは、六角も我ら北畠に敵対する姿勢を鮮明にしたと考えるべきであろう」


 長野に加勢する冨樫、さらには六角をも相手取るとなれば、流石の北畠晴具でも手に余るのは明らかであった。至るところから落胆にも似た溜め息が起こるのを傍目に、本陣の中央に座す晴具はなおも腕を組んで瞑目している。


「冨樫からは兵糧だけか? 援軍は送られてはおらぬのか?」

「ああ、今のところはな。あくまで冨樫は長野に頼まれて兵糧を運び込んだだけやもしれぬ。我らも田植えまでに戦を終えねばならぬ故、それならば好都合ではあるがな」


 北畠晴具は大和侵攻を見据えて調略と圧力を仕掛けていたが、それを中断して長野攻めにほぼ全兵力を向けていた。そのお陰で筒井・越智・十市・久世といった大和の有力国人は戦に備えた戦力を持て余しており、それが内輪で暴発すれば心配には及ばないが、逆に南伊勢の守りが手薄だと知って、大和から伊勢に兵を向けられれば容易に片付けるのは難しくなる。そうした懸念から長野領の制圧はなるべく迅速に終わらせたいのが、北畠主従の総意であった。


(冨樫は六角の客将と聞く。もし冨樫が援軍を差し向けてくれば、いよいよ六角の増援も念頭に入れねばならぬ。独断とは思えぬからな。その場合、冨樫が長野攻めに与するのは、六角が北伊勢侵攻の兵を進めるのを側面から支援する目的ということか。儂が壬生野を訪ねた時、少なくとも北畠に対して友好的なものは一切感じられなんだ。長野城を攻める我らの背後を冨樫の援軍が奇襲してくる事態も十分考えられるゆえ、ゆめゆめ油断はならぬな)


 今のところは六角も大規模な出兵は行っておらず、千種を始めとした梅戸攻めに与する親北畠派の国人の鎮圧に少々手を焼いてはいるものの、六角が北伊勢に兵を送った時点で、北畠晴具は六角の目的が梅戸の救援だけではなく、本格的に北伊勢の掌握に乗り出してくると察していたのは、晴具の慧眼が並外れたものである証であった。


 二手、三手先の未来を予測しながらも、その意図を近しい家臣にすら漏らすことがなかったのは、晴具が深層に抱える焦りを表に出したくなかったからなのだろう、と星合親泰は推測した。


 親泰は長男の具種に星合家の家督を譲ったものの、今回の戦は最後のご奉公として人生の集大成と位置付け、並々ならぬ決意を抱いていた。主君の思惑を察して補佐し、晴具がおそらく抱いているだろう感情を口に出すような僭越な真似などはしない。親泰は遠い目をしながら、頭上に横たわる細やかなすじ雲に思考を委ねる。


「いずれにせよ、もはや遠慮はあるまい。我らの全力を以て、長野を片付けようぞ」


 そう告げる晴具の眼には鋭敏な眼光を携え、圧倒的なまでの戦意が帯びていた。北畠の重臣は主君の佇まいに、風格に、堂々とした振る舞いに、畏怖を込めて頭を垂れた。










「北畠は動揺しておらぬか」

「手強くございますな。常備兵でないにも関わらず、これほど領民兵も精強とあれば、長野をここまで圧倒するのも納得にございまする」


 菅助が北畠勢の精神面における強さを讃える。北畠晴具が率いているせいで統制が異様なほど取れているのだ。そりゃ長野も敵わないわけだ。


「すぐに北畠は長野城に攻め寄せるだろうな」

「おそらく内心では焦っておるのでしょう。冨樫の援軍が来る前に、そして田植えの前にケリをつけたいはずにございまする」

「北畠には不気味に映るであろうな。長野城が攻められているにも関わらず、一向に援軍を送ろうともしない。さぞ不気味であろう」

「左様ですな」


 菅助が不敵な笑みを浮かべる。しかし、その目には慢心の欠片も無い。


「ここで無駄に兵を損耗する必要はない。本隊は機が訪れるまでどっしりと構えていれば十分だ」


 北畠が長野攻めを始めたところで、冨樫軍本隊の半分一千の兵は伊勢との国境の長野峠付近に布陣することを決めていた。この部隊は北畠軍の伊賀侵入を阻止するとともに、北畠が撤兵した後、安濃津を奪還するための援軍である。間違っても長野城を救援するための兵ではない。もし戦場で北畠晴具と正面から邂逅したとして、果たして勝てるだろうか。……そのビジョンは浮かばないな。


 もし冨樫軍が長野城に入れば、冨樫が北畠と敵対した事実が明確となるわけで、今はギリギリまで沈黙して北畠を疑心暗鬼にさせておきたいのが本音だ。長野城を囮として北畠軍を釘付けにし、かつ北畠晴具の意識を強く引きつけておくことが、菅助と練った策を成功させるための前提条件であったからだ。


 それに長野城にどれほどの間諜が潜り込んでいるか定かではない。おそらく長野城に兵糧を送ったことは既にバレているだろうが、万が一にも策を悟られないよう、細心の注意を払う意味もあった。


「玄蕃助、戦の準備は整っているな?」

「無論にございまする。御下知があればすぐにでも出陣できまする」


 沓澤玄蕃助恒長が余裕綽々といった様子で鷹揚に答える。胸を張る恒長の目には自信がありありと映っていた。


「頼もしい限りだ。すぐに出陣致すぞ。では菅助、後は頼むぞ」

「はっ、承知致しました」


 陽が沈む直前に壬生野城を発った冨樫軍の残り半分の一千は、伊賀国内を名張に向けて薄暮の中を静かに移動する。さて、北畠晴具は果たして此方の仕組んだ策に乗ってくれるだろうか。

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