太原雪斎との対面
信虎との会談を終えると、明らかに周囲の見る目が変わった。公頼はニコニコしている。信虎か公頼か、俺の存在を言いふらしたのだろうな。目立つつもりはなかったが、首を突っ込んでしまった以上もはや仕方ない。
「冨樫左近衛権中将様、お会いでき光栄にございまする」
その中で一際大きな存在感を放っていたのは、この男・太原雪斎であった。太原雪斎といえば、言わずと知れた今川の重鎮で、義元の躍進に最も尽力した重臣だ。政治、軍事面において突出した能力を持ち、当主になったばかりで若く立場の不安定な今川義元を力強く支えており、敏腕を発揮している。
「雪斎殿が武田家の婚礼に出席しておられるとは驚きですな。今川家は北条家と盟を結んでいたと聞いておりましたが、武田家に近づかれるとは駿河は花倉の一件でよほど不安定なのでしょうかな?」
「はっは、痛いところを突かれましたな。確かに当家は北条家と盟を結んでおりますが、治部大輔様は武田家とも固い絆を望まれておりますれば、こうして婚礼の祝いに参上した次第にございまする」
武田の領国である甲斐は貧しく、海に面していない現状から恒常的に塩が不足し、領民は過酷な生活を強いられている。もし海のある駿河が揺らいでいると知れば、恰好の標的だと見做して攻めるのは必定だ。その懸念から今川は武田と同盟を組む算段を講じているのだろうな。
「それに当家は三条家とも縁続きにございましてな」
「なるほど、此度の婚姻はそのための一手、という訳にございますか。得心が行き申した」
初耳だったが三条家は今川の遠戚らしい。三条家の分家である正親町三条家の三条実望に、今川義元の祖父に当たる三代前の当主・今川義忠の娘が嫁いだことから、両家は繋がりを得たのだという。なるほど、縁談の話が成立したのは今川の口添えがあったと考えれば納得だな。おそらく史実どおり近い内に信虎の長女の定恵院が義元に嫁ぐ縁組が組まれ、甲駿同盟が成立するのだろう。今川義元とすれば既に北条氏康に妹の瑞渓院が嫁いでおり、これで北条と武田との婚姻関係による同盟で隣国との強固な安全保障が相成ったと喜んでいるのだろうな。
だがそうは問屋が卸さない。史実では敵対する武田との甲駿同盟成立に激怒した北条が係争地の河東に侵攻し、来年にも第一次河東の乱が勃発するはずだ。甲相駿三国同盟の成立にはまだまだ道は遠いな。
まあ強かな信虎のことだから若い義元の足元を見て大幅な譲歩を求めるだろう。今川の都合で塩の採れる海を目指す道を封じられるわけだからな。交渉する上でどちらが優位かなど火を見るよりも明らかだ。信虎は家中の反今川派の反発を抑えて今川から塩の安定供給を確保する道を選んだからには、今後は史実どおりに信濃を攻めるのだろうか。だが、もし俺の助言で信虎が追放されなくなれば、信虎は宿敵、北条の相模に侵攻するかもしれないな。
しかし、一方の今川は武田との縁組の結果、同盟関係にあった北条との関係が悪化するのは覚悟の上だろうが、まさか婚姻関係のある北条と袂を分かつことになるとは義元や雪斎も予想していないだろう。義元も花倉の乱を鎮圧した今、内政と外交に厳しい舵取りを強いられているが、その決定権は実質的にこの太原雪斎が握っていると考えて良さそうだ。
「となれば当家も今川家と遠縁ではありますが、縁続きということにございますな」
「左様。なんとも奇妙な巡り合わせですな」
「「はっはっは」」
和やかな空気が漂う。今川と縁のある三条家から稍が六角の猶子となって俺に嫁いだ。かなり複雑な巡り合わせだが、偶然では片付けられない運命の悪戯だな。
「冨樫殿はこれから何処へ参られるのですかな?」
「しばらくは甲斐に滞在して見聞した後、駿河を経て陸路で東海道を伊賀へと帰る予定にございますな」
「ならば丁度良い機会です。駿河を通られる際には是非駿府の今川館にお立ち寄りくだされ」
柔和に微笑む雪斎だったが、断れない空気を感じた。それは威圧感とはまた違うベクトルのもので、相手を自分の懐に引き寄せて、相手に有無を言わせない圧迫感であった。政治や交渉力に優れていたのはこういう部分も大きかったのだろうな。
「では、お言葉に甘えてそうさせていただきまする」
「駿府でお待ちしておりまする。では失礼」
俺の返答に満足げな表情を浮かべると、毛一つない頭を光らせて颯爽と立ち去っていった。
「どうだ、稍。富士の山は綺麗だろう?」
「はい、素敵ですね!」
秋の富士山は見事に紅葉し、山頂は雪に覆われ、その美麗な造形には目を奪われる。やはり富士山には日本人の心を惹き付けてやまない偉大な自然の魅力か何かが集約しているのだろう。
「一度見せたかったのだ。神が土を掘り、その土を運んで盛ったのが富士の山、掘った跡地に水が流れて出来上がったのが淡海だと古くから言い伝えられているという。何か不思議な縁を感じぬか?」
日本一高い山である富士山と、日本一広い湖である琵琶湖。神が作ったという言い伝えは、広く信じられているらしい。
「こうして甲斐に来たのも、神様のお導きかもしれませんね」
稍はそう言って破顔する。そうして躑躅ヶ崎館近くの高台から富士山を見物した後、俺は本題の葡萄の自生する勝沼を訪ねた。葡萄を誰かが育てているというわけではなく、自生しているので周辺の農民が食に困った場合に食す、救荒植物という扱いだったようである。秋は丁度葡萄の実がなる季節であるため、一面に広がる果実の集合は壮観だった。
「しかし葡萄というから鮮やかな紫を想像していたのだが……。よもや白い葡萄とはな」
薄い藤紫色を帯びてはいるものの、薄く緑がかった果皮は、ここに来る以前に想像していた黒葡萄とは異なり、明らかに白葡萄だった。
「靖十郎様が知っていた葡萄とは違うのですか?」
虚空に消えた独り言を、稍が聞き逃さずキャッチする。初めて見た葡萄の不思議な姿形に興味深々のようであった。
「いや、明の書物には紫色だと書いてあったからな。てっきり山葡萄と同じような色だと思っていたのだ」
「ではこれは違う物なのですか?」
「いや、あくまで色が違うだけだ。これは紛れもなく葡萄だ。食べてごらん」
俺が促すと、稍は実を一つ口に放り込む。口の中で弾けた果汁が、稍の口を窄ませた。
「はは、やはり酸味が強いか」
「でもしっかり甘味も感じると言いますか、美味しいです」
俺も続いて口に入れる。思ったより果皮が厚いな。やはり品種改良していない自生した葡萄だからか少し甘くはあるが、前世で食べたものと比べると酸味が強いようだ。強い酸味は毒と思われてもおかしくはない。勝沼の農民が積極的に栽培しなかったのはそういう事情なのかもしれない。この品種は前世の葡萄と違って糖度が低いので、やはり食用としてよりもワイン向けとなるだろうな。
しかし、まさか白葡萄だとは予想外だったので、ワインの製造は今一度考え直さないといけないな。栽培した葡萄で赤ワインを作るつもりだったので果実を房ごと踏み潰して樽詰めすればいいと考えていたが、白ワインとなると話は違ってくる。白ワインの作り方は詳しく知らないが、ただ黒葡萄から作られる赤ワインと違い、白ワインは白葡萄だけでなく黒葡萄からも作られると聞いた記憶がある。ということは白ワインは果皮の色を出さないような工夫が要るのかもしれないな。まずは赤ワインの作り方を試して、そこから地道に改良を重ねていくほかないだろうな。
「半蔵、この葡萄の苗木と実を先に伊賀へ運んで貰えるか?」
「はっ、造作もありませぬ」
「そうか。伊賀までは距離がある故大変だとは思うが頼んだぞ」
俺は半蔵に頼んで伊賀衆の数名に苗木や実を運ばせるように指示した。そして勝沼を後にした俺は信虎に別れを告げて公頼と共に駿河への途に就いた。
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