伊勢訪問
少しやりすぎたかな。十歳も年下の中学生ほどの子供に随分と大人気なかったとは思う。俺もまだまだ未熟だな。最初の時点で義賢が俺の成果と自分の非を認め、素直に謝ればそれで許すつもりだったのだが、義賢の頑なで生意気な態度についムキになってしまい、結局六角家を巻き込む騒動に発展してしまった。幸いだったのはあの場に宿老以外いなかったことだろうか。それを踏まえて定頼も恥を忍んで傷を負ったのだろうが、それにしても少し居心地が悪かったな。
「靖十郎様、浮かない顔をしておられますが、どうかされたのですか?」
純粋な心配から稍が上目遣いを送ってきた。クリティカルヒットだ。心を鷲掴みにされるような感覚に陥る。
「いや、困ったものだと思ってな」
「困ったもの?」
「四郎殿だ。稍は四郎殿と話したことはあるのか?」
「多くはありません。でも何度か話したことはあります」
「そうか。どう思った?」
「……物言いが高飛車で脅すようで、少し怖いというか……」
「稍のことを見下していたのだろう。稍は前当主の娘で従姉だとはいえ、立場は嫡男の四郎殿の方が比べるまでもなく上だ。そんな自分の地位を鼻にかけて驕り高ぶり、周囲に高圧的な態度で接する。このままでは六角家は危ういだろうな」
「六角家が危うい?」
稍は首を傾げる。六角は中央情勢を左右するほどの大身で、危うさなど全くないのが現状だ。だがそれは六角定頼という英傑が当主に君臨しているからであって、もし定頼の身に何かあれば六角は崖から転落するように衰退するだろう。義賢は定頼の晩年に共同統治を行って地盤を固めようとしたが、定頼の死後は野良田の戦いの大敗を機に嫡男・義治の引き起こした観音寺騒動などにより、六角家の勢威は著しく落ち込み、最後は上洛途上の織田信長に敗れて滅亡する。元々近江の諸勢力は独立心が旺盛で、特に六宿老の勢威は強く、義賢と義治を凌ぐほどの地位に立つことになるのだ。
「弾正少弼様がご健在の間は六角が崩れる可能性はまずないだろう。でも四郎殿が家督を継ぎ名実共に六角の舵取りを握ることになれば、立場は盤石ではなくなるだろうという意味だ」
「……」
稍は顔を俯かせて押し黙る。残酷な現実を突きつけるようで可哀想だが、稍には隠し事は極力したくなかった。
「無論私も六角が潰れぬよう最善を尽くすが、綺麗事ばかりでは生き抜けぬ乱世だ。もし六角が滅びても耐えられるよう、せめて伊賀だけでも盤石な体制を整えておかねばならぬ」
「いっそのこと……。いえ、なんでもありません」
稍は何か言いかけたが、結局口を噤んだ。俺は稍が言わんとしたことは察したが、わざと気づかないふりをした。
「そうか? 来年までに壬生野城を完成させる予定だ。夏には一先ず壬生野に居館ができる。弾正少弼様も一向一揆と細川の対決がひと段落つくまでは動く気はないようだ。そこでそれまでに一度、伊勢と尾張を視察に行きたいと思う」
「伊勢、尾張にございますか?」
「ああ。神仏にも感謝せねばな」
伊勢には伊勢神宮が、尾張には熱田神社と津島神社がある。一度参拝すべきだと思っていた。
それに夏には伊賀に居を移すつもりではあるものの、伊賀を統治するにはいかんせん人手不足だ。加賀から連れてきた者もさほど多くはない。そこで尾張には優秀な武将が多くいるので、人材探しするのが本当の目的だ。ついでに尾張の現状もこの目で確かめておきたいしな。
「ではまた出かけてしまうのですね……」
「稍も連れて行くつもりだったが、行きたくはないか?」
「連れて行ってくださるのですか! でもご迷惑ではありませんか?」
「迷惑などあるはずなかろう」
俺の言葉に、稍は少し頬を赤らめて服の袖を掴みつつ寄ってきた。実は今回は新婚旅行という意味合いもある。勿論この時代にそんな習慣はなく、日本で初めて新婚旅行をしたのは幕末の坂本龍馬だと言われるが、気持ち的に一度は稍に海を見せてやりたいからな。
観音寺城を出立した俺と稍は途中で壬生野城に立ち寄って建築状況を確認しつつ、伊賀衆の護衛と僅かな家臣が随行し、伊勢に向かって馬に乗って進んでいた。驚いたことに稍は一人で馬に乗れるらしい。この時代の馬はポニーくらいで小さいとはいえ、稍は元々風で吹き飛んでしまいそうなほど軽いので、二人乗りで密着できると思っていたのだが、上手くはいかないものだ。
ただ稍はすごく嬉しそうに馬に跨っているので、これはこれで眼福な光景であった。
北伊勢は安濃郡の長野工藤や鈴鹿郡の関がおり、員弁郡や桑名郡、朝明郡、三重郡の北勢四十八家と呼ばれる国人衆が群雄割拠の様相となっている。南伊勢は伊勢国司の公家大名である北畠家が勢威を誇る地域で、現当主・北畠晴具は英主と称えられる名将だ。その本拠地である霧山城は難攻不落の堅城で、麓の城下町を含めて巨大な天然の要害と化している。この城を攻めるのは簡単ではないと思った。近年は北畠と長野の対立が深まっているらしい。
伊勢神宮はやはり別格とされていることもあってか、戦乱の世にあっても静謐で神聖な空気が漂い、不可侵領域という印象を強く受けた。皇室の氏神である天照大御神を祀っているため、朝廷と強い結びつきがあるが、ただ近年は財政難で式年遷宮という、二十年に一度社殿、鳥居、橋、神宝等を新たに作り替える行事が行えず、困っているとのことだった。史実で信長が用意した三千貫は用意できないわけではないが、今は伊賀の統治で何かと入用となっている。特に壬生野城の築城はかなりの費用がかかるので、一先ず一千貫を寄進すると申し出ると、宮司には平身低頭で献金を感謝された。
その足で伊勢湾を臨める浜辺に向かうと、稍にとっては海との初対面となった。
「これが海……」
稍は伊勢から臨める海を前に、感慨深そうに独りごちる。
「そうだ。この光景を一度見せたかった。この海をはるか南に出ると外つ国がある」
「少し生臭い香りがしますが、淡海に比べて波の高さが段違いですね。それになんだか生き生きとしているような……」
琵琶湖の波しか見てこなかった稍にとって、海とは新鮮さの塊だろう。初めて目にする海の広大さに目を惹かれている。
「生臭い香りは塩のせいだ。海の水は塩の味がするのだ」
「塩、ですか? そういえば塩は海から採っているのでしたね」
「不思議であろう? 何故だか俺も分からぬがな」
海水が塩分を多く含むことなど常識すぎて疑問すら持ったこともなかったが、海とは何故ただの水ではないのだろうか。稍はより興味を惹かれたようで、寄せては引く海の波を凝視している。
普段はほぼ平穏な琵琶湖とは違って、海は荒れると途端に人に牙を剥き、簡単に飲み込んでしまう。海は乱世のようなものだろうな。ひとたび戦が起これば大勢の人が死んでしまう。海において油断は大敵だ。油断すればすぐに命を落とす。そんな荒海を俺は乗り越えていかなければならない。
「靖十郎様?」
「あ、いや。大丈夫だ」
ボーッとして水平線の先にある知多半島を眺めてそんなことを考えていると、心配そうに稍が覗き込んでいた。
「では行こうか。次は尾張だな。楽しみだ」
「はいっ!」
稍も期待に胸を膨らませているようだった。その様子を見ると、近江から遥々やってきた疲れも取れるというものだ。稍も同じ行程をやってきたのに微塵も疲労の色を見せていない。稍の幼い頃は活発だったと三条公頼が言っていたのは本当だったな。公頼には稍に広い世界を見せてやってほしいと頼まれたが、この満面の笑みこそが稍の本質なのだろう。俺は目尻を下げて稍を見つめていた。
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