第1話 死因:マグロ

 断崖絶壁の上に、少年が一人。


 一歩、二歩と踏み出し、やがて加速して、全力疾走を始める。向かう先は崖の先端。


 辺りには誰もおらず、彼を止める者はいない。


 そして遂に、少年は──


「うりゃああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 大声を出して釣り竿を振り下ろした。


 糸でつながった浮きや錘やなんやらが、勢い良く大海へと飛び出していき──着水。


「……よし、なんとか潮目に届いた。ざっと200メートルくらいか?」


 そう呟いた彼の名は、如月海斗きさらぎかいと。この春で高校生になった、ピ

カピカの一年生だ。


 ちなみに、絶賛海釣り中。誰が何と言おうと、崖から釣りをしているのである。


 しかし、素人は港で釣りをするだけでも、柵がなければ落ちてしまわないか心配

になるものだ。だから初心者が彼のいる場所に放り出された日には、自殺願望でもない限り腰を抜かしてしまうだろう。それだけ危険な場所なのである。


 つまり彼は、それなりに釣りを嗜んできたアマチュア。いや、あるいはプロに見えるかもしれない。


 また、それは絶壁の淵に立っているからという理由だけではなく、その外見によるものもあるはずだ。


 まず目を引くのがライフジャケット。海釣り施設で貸し出しているようなシンプルなものではなく、釣り具を収納できる複数のポケットがある。簡単に言えばゴツいのだ。だが、デザインは素晴らしく、海難した際に発見されやすい蛍光オレンジを取り入れつつも、一種のファッションとさえ呼べるような色合いの逸品。そこそこ値の張るものだ。


 そして手には指ぬきグローブ。手に釣り針を引っ掛けてしまわないようにというリスクマネジメントだ。理由を同じくして帽子を被り、長袖長ズボンという標準スタイルである。


 最後は──


「っと!?」


 突然、浮きがおもりに変わったかのように、海中へと潜り込んでいく。


 海斗は思い切り竿を引き寄せた。釣り針をしっかりと魚に引っ掛けるためだ。釣り用語でいうところの「合わせ」というものである。


「な、なんだこれ! デカすぎんだろ!」


 長い竿が大きくしなって弧を描いた。海斗は思わず腰を落として踏ん張る。


 ──スパイクブーツ。彼が身につけている特殊なものの一つだ。


 足首を覆う長さのブーツには、サッカーシューズと同じようにスパイクが付いている。それががっちりと岩の凹凸に食い込み、下半身を固定する。


 だが、踏ん張ればいいというものではない。駆け引きも必要になるのだ。


 強すぎる引きに思わず、リールの上部に手をかける。そして「ドラグ」という糸の出を調節する部分を操作し、糸の出を緩める。


 するとギュルギュルと音を立てて、糸が竿伝いにリールから飛び出ていく。あまり緩めすぎては針が魚から外れてしまったり、海中の岩に擦れて糸が切れてしまう危険性もあるが、張り過ぎても糸は切れてしまう。ここはドラグを緩めるしかない。


「この魚、どれだけ活きがいいんだよ……!」


 一向に糸の出は収まらない。それどころか勢いを増していくばかりだ。


 おかしい。普通の魚ならこの辺りで疲れて、引きが弱くなるはずだ。なのに糸は狂ったように飛び出ていく。どうなってるんだ?


 ──突如、身体が強く引っ張られた。


「うおっ!?」


 急な出来事に対応できず、海斗は力に従って前方へ投げ出される。


 その前方にはなにがあるか?


 もちろん崖である。なにもなかった。


「なんでっ!?」


 海斗は海面に向かって落下しながら、視界の中にリールを捉えた。


(……糸がない!?)


 リールに巻かれていた数百メートル分の糸はしかし、今となっては一ミリの余裕も残っていなかった。ドラグを緩めていたのに強く引っ張られたのは、そもそも出す糸がなくなってしまったからだ。そうなれば、糸の一方はリールに結びつけてあるため、当然リールは糸を通して魚に引っ張られる。そしてリールを固定している竿も引っ張られる。さらに竿を強く握りしめる海斗も引っ張られる。そんな連鎖が一瞬のうちに起きたのだ。


 だが、おかしい。そもそも普通、外洋に出て大型のサメでもかからない限り、糸が出きってしまうことなどまず有り得ない。リールのメンテナンスもきちんとしていたから、糸の長さも充分なはずだった。だからこれは不測の事態。まさに青天の霹靂だ。


(結局なにがかかったんだよ!?)


 だがそれを確かめる術はもうない。なぜなら数秒後には確実に死ぬからだ。


(あぁ……せめてどんな魚がかかったのか知りたかった……)


 するとその時、神様が最後の願いを聞き届けてくれたのか、遥か向こうの水面から一匹の巨大魚が飛び跳ねた。


 その全長は目測二メートル。光り輝くシルバーと、背中のメタリックブラックが水面で煌いていた。


 みんな大好きあの魚。


「マグロぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉお!」


 そして海斗は意識を失った。

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