4−2
プール掃除は粛々とおこなわれた。皆デッキブラシを手に、班ごとに割り振られた場所を磨いた。僕たちの班の担当はプールの底の半面だった。
裸足になって空のプールに降り立つと、二つの感覚が混じった不思議な気持ちになった。本来は水に満たされているはずの場所に服を着たまま立っていることへの背徳感と、周りを囲まれていることへの安心感だ。
僕はホースで水を撒く役を任せられた。汚れているところに水を掛ける。そこを他の班員たちがデッキブラシで磨いていく。汚れは瞬く間に洗い落とされる。僕は新たな標的へ水を掛け、班員たちを先導する。そうして一年のうちに溜まった汚れが消えていく。駆逐されていく。
もう半面を担当しているのがイヌイさんのいる班だった。気になって目を向けると、体育着姿のイヌイさんもやはりホースの担当になったらしく、つまらなさそうに水を撒いていた。その水は、他の班員に指摘されるまでずっと同じところに注がれていた。
「イヤね、ああいうの」デッキブラシを動かしながら、同じ班の女子が言った。イヌイさんにランドセルのことを言ったクラス委員だ。「自分はもう関係ないからって手を抜いてる」
「そう、なのかな」僕はイヌイさんを見たまま言った。
「〈みんなのために〉っていう感覚が欠けてるのよ。協調性がないの。ああいう人が将来、犯罪を犯したり戦争を起こしたりするんだわ」
僕は何も言わなかった。
「ママが言ってたんだけど、今までの学校でも同じようにしてたみたい。検索すると、それらしい子に関する書き込みがあちこちに残ってたって。親の仕事の都合なんて言ってるけど、本当はどうなんだろうね。あ、次そこお願い」
「うん」彼女に言われるまま、僕はホースの口を汚れに向けた。
肩越しに振り返ると、イヌイさんはこちらに背中を向けていた。その背中はいつになく小さく、遠くに見えた。
イヌイさんの最後の登校日だったけれど、なにか特別なことがあるわけでもなかった。
担任教師を含め、誰も彼女に別れの言葉を掛けず、〈お別れ会〉といったようなものが催されることもなかった。いつものように一日の授業が終わり、帰りの会になった。最後に担任教師が申し訳程度にイヌイさんのことに触れたけれど、クラスの何人かがイヌイさんを振り返っただけですぐに帰りの挨拶となった。
教室を出て行く周りの喧噪に混じって僕はイヌイさんに声を掛けた。リュックを背負ったイヌイさんはちらりとこちらへ目を向けた。
蒼い眼差しに見つめられると、喉が詰まった。
「その……」どうにか声を絞り出した。「元気で」
「君もね」
それだけ言って彼女は出て行った。例の不思議な香りが、かすかに香った気がした。
うつろな気持ちのまま靴を履き替え、家に帰って鞄を持ち替え、塾へ行って授業を受けた。その間、僕の頭には、教室を出て行くイヌイさんの後ろ姿が浮かんだままだった。あるいは、その姿はプール掃除の時に見た小さな背中でもあった。僕は、講師がボードにどれだけの数式を書き込もうと、そこにイヌイさんの小さな後ろ姿を見ていた。網膜に映っているわけではない彼女がこちらへ振り返るのを、ずっと待っていた。
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