第24話
信仁の手が、あたしの首にかかる。
――おぞましいケダモノごときが、人に懸想するか。おお、おぞましや、あさましや――
両手で、あたしの首を絞めながら、信仁の声が言う。違う、声じゃない。
それは、直接、頭の中に聞こえてくる。
「な……おま、まさ……」
――そうともよ――
にたりと、それは嗤ったんだ。
――そのとおり、我は「我」なるぞ?――
――驚いたか?いやいや、この程度は予想してもらわねばな、張り合いがない。我は姫の臣、姫に次ぐ力を持つ夢魔。触れてさえいれば、心を動かすも奪うも赤子の手をひねるようなもの――
多少傷つけても仕方ない、はね除けなきゃ。そう思って体に力を入れようとするけど、あたしの体は、言う事を聞かない。
「奴」は、そんなあたしを見下ろして、嗤う。
――ケダモノとは言え所詮は男と女か。あさましいあさましい。あさましいからこそ、我の付け入る隙もあるというもの。どうだ、取り引きせんか?――
「なん、だと?」
あたしの首を絞める力が緩む。「奴」の声が響く。
――小僧の心はまだ生かしてある、残してある。あれだけ色々してくれた小僧だ、なかなか旨そうな心だ、喰いたくてたまらぬがな。まあ、人質だ――
「信仁を……貴様……」
怒りに体が震える。体の芯が熱くなり、同時に絞り上げられるように、痛む。
やっぱり、最悪の形で巻き込んでしまった、その後悔が、あたしの心をさいなむ。胸の奥をヤスリで削られるような、猛烈な不快感がぞろりと走る。
――おお、お前の心もなかなか旨いぞ。その調子で我に協力するがよい、そうすれば小僧は喰わずに置いてやる、どうだ?――
あたしは、理解した。あたしが
だから、あたしが断れば、「奴」は即座に信仁の心を喰う。それが嫌なら、自分の言う事を聞け。そう脅しているのだ、と。
あたしの心も、揺れた。信仁がそれほどに心を揺らしてくれたのは、こんな状況じゃなければ、嬉しい。けど、それがこの結果を生んだんだったら、あたしは、どうしたらいい?きっと今なら、あたしの心も軽く「奴」に支配されてしまう、それくらい、あたしの心は、沈んだ。
――この小僧の心はまだ死んでおらん、ではいつ死ぬか?わかるか小娘?――
「奴」が面白そうに言う。あたしは、聞こえてはいるが、答える気にはならない。
――絶望した時にな、死ぬのよ。寿命を感じた時はさほどでもないが、志半ばで倒れた人間の、その絶望のなんと旨い事か――
陶酔したように、うれしそうに「奴」が言う。
――くだらんケダモノのおまえだが、だからこそ、さぞかし小僧を喰らえば絶望しようよ。さぞかし旨い絶望だろうよ。ああ、喰いたいなあ……――
ぐつぐつとした嗤いと、よだれを垂らす感覚が、ダイレクトに頭の中に感じられる。
――それを我慢して、持ちかけているのだ。どうだ、両方生きるか、両方喰われるか。どちらでもよいぞ?――
勝ち誇ったように、「奴」は、信仁の体で胸を張る。張って、その口が開く。
「……って事は、だ」
聞き慣れた声が、聞き慣れた軽い口調で、言った。
「絶望しなけりゃ死なねえって、逆説としてはそう言う事で良いのか?」
「え?」
――な……――
その声は、あたしと「奴」の疑問も介さず、続ける。
「教えろよクソ野郎。実に興味深いぜ、科学する心がそそられまくるってもんだ」
――馬鹿な、小僧……――
「ったく、勝手に人の心覗きやがって。まあ、知られて困る事も大してないけどよ。姫に次ぐ夢魔だ?けっ、その割にゃ何だよこの脇の甘さは?聞いてあきれるぜ」
ゆっくりと、信仁は立ち上がる。
「あれか?おまえ、こうやって切返えされたの初めてなのか?同じ事やり返されるとまるで弱いって奴?」
信仁の顔が、笑う。「奴」の下卑た嗤い顔ではない。
「『深淵を覗く者は、深淵が覗き返していることを知れ』ってな。そっちからこっちが見えるって事は、こっちからもそっちが丸見えなんだよ。セキュリティ大甘だぜ?」
「嘘……」
――そんな……馬鹿な……――
何となくだけど、あたしは理解した。普段なら即座に、絶望した犠牲者の心を喰い、体を乗っ取る。それが夢魔のやり口。だけど、あたしを脅すために、それをしなかった。そこを逆手に取られた。慢心した隙を、逆につかれて。
でも、何の知識も能力もない信仁に、そんな事が出来るなんて。
後でその時の事聞いたら「「奴」が姐さん相手に勝ち誇ってる時にな、「奴」の記憶やら手口やらも「見えた」んだ。ガラッガラに隙だらけだったから、試しに同じようにやってみたら大当たりだったってわけさ。要は気合いと根性とタイミング、さ」だって。理屈はわかるけど、同じ事が誰にでも出来るとは思えない。本当に、コイツの、信仁のこういう時の冷静さと、集中力というか瞬発力、いや判断力、決断力?凄いを通り越して、むしろちょっと怖い。
「だからよ、姐さん」
テーブルを避けて立って、信仁は言う。
「俺がコイツを抑えてるから。
「え?」
あたしは、意味がわからなかった。
いや、何をして欲しいかはわかる。でも。そんな事したら、信仁は……
――ふざけるな小僧!わかっているのか、おまえ、小僧、死ぬぞ?生きてはいられんぞ?――
「ばーろー。てめぇさっき自分で言ったじゃねぇか。絶望しなきゃ死なないんだろ?」
――馬鹿が!常識で考えよ!絶望以前に、脳ごとなくなって生きていられると思うか!――
「そーゆー時はな!「やってみる価値はありますぜ!」って言うんだ、覚えときな!」
――おまえ!小娘!そんな事したら……――
「やれるさ!姐さん、今度こそ仇討ちのチャンスだぜ!」
あたしは、混乱していた。体が離れていても「奴」の声が聞こえる。それは、一度心に触れられたから何かが繋がったままになっていたらしいけど、それすら不思議に思わないくらい、混乱していた。
信仁の言うとおりだった。今を逃したら、多分二度と、「奴」を仕留めるチャンスはない。そして、信仁が言うとおり、「奴」を逃がさないよう抑えてくれるなら、仕留める事は可能だろう。
そして、「奴」の言うとおりでもあった。念を載せたあたしの
あたしは、答えが出せなかった。
「やれるぜ。姐さんなら」
信仁が、静かに、言った。言いながら、自分の額に手をあてる。
あたしは、最初、その意味がわからなかった。ちょっとだけ考え、よく見ると信仁の手が何かを持っているのに気付き、ハッとした。
それは、生徒手帳だった。勿論、さっき使ったあたしのではない。信仁の、自分のだ。
それで、全部理解出来た気がした。信仁が、あたしに何をやらせたいのか。
「言ったよな、姐さん。さよならだって。だったら、最後の頼みだ、いっそ姐さんの手で引導渡してくれ」
「……わかった。聞いてあげるよ。覚悟決めな」
あたしは、信仁の言いたいことを理解した、と思った。心が繋がっていると言うのは、こういう事か、そう思えた。実際、「奴」を経由して繋がっていたのかも知れない、奴はそれに気付くどころではなかったようだが。
壁を背に立つ信仁に、あたしは
――止めろ!小僧、止めさせろ!死ぬぞ!おまえも、死ぬんだぞ!――
「てめぇも、死ぬんだろうが!」
ものすごい、信仁の笑顔。こんな凄みのある笑い方が出来るんだって、それもあたしは初めて知った。
「行くぞ信仁!覚悟しな!」
「おう!来い姐さん!全部
あたしの声に答え、額から手を離し、生徒手帳も投げ捨て、信仁が吠えた。
――よせ!止めろ!やめ……――
「奴」の声を無視し、あたしは中段の霞から左足を一歩引いて右前に半身を開き、左手を柄頭に添えて
――ゆぐどらしる、あたしに、力を貸して……――
ありったけの念を
願うだけじゃ、届かない、叶わないんだ。
願うんじゃない。やるか、やらないか、だ、と。
有無を言わさない決断と、それを断じて行う胆力。それこそが、願いを叶えるんだ、と。
そして。信仁は、このバカは、本能的にそれをやってるんだと、そう気付いたんだ。
――……ゆぐどらしる!あたしに手を貸せ!あたしの力に、あたしの一部になれ!――
呼吸を整え、あたしは、間を置かずに一気に突いた。人狼の姿に変じたことで得た、人の姿の時よりはるかに強い念を
「ぅりゃあっ!」
あたしは、初めて見た。
それを見て、あたしは確信した。
さっきは、鰍が作った
黒でもなく、白でもない。金属光沢のそれに近く、しかし、はるかに有機的、生物的な輝き。
何物にも馴染み、しかし何物にも染まらない。
だから、
あたしは、何でも、斬ってみせる。この時初めて、あたしは、そう確信出来た。
――やめ……――
「奴」の叫び。断末魔。余裕は、感じられない。
信仁の額に、
ありったけの、鈍色の念が、その切っ先から信仁の頭の中に、体中に流れ、散り、体の中のどこかにいる「奴」の魂、精神の塊、核みたいなものを探し出し、再集中し、微塵も残さず切り刻むのが見えた、イメージ出来た。
体重を乗せたあたしの突きが、
実際には、切っ先を残し、逆に柄頭からあたしの左手に戻り、呑み込まれていく。そして。
あたしの左の手のひらが、信仁の額に触れた。あたしの伸ばした左手の先、ほんの五十センチほど先にある、信仁の顔。瞬きせず、真っ直ぐにあたしを見る、あたしの目を見つめる、信仁の目。
しばし息を止めていたあたしは、息を吸いつつ、身を起こす。手のひらを信仁の額から離す、信仁を見つめたまま。
信仁が、息を吐く。体の力を抜く。
そして、大きく息を吸った信仁が、言った。
「上手く行ったみたい、だな?」
顔が、ほころぶ。
「……「奴」は……」
あたしは、聞く。聞いて、聞こうとして、でも怖くて、最後まで言葉を続けられない。
「よく、わかんねぇ」
気の抜けた返事が返ってくる。
「少なくとも、頭ん中のうるさいのは、今は黙ってる。ただ、居なくなったかって言うと、よくわかんねぇ。そもそも、居た事自体わかってなかったしな」
いつもの信仁の顔で、ちょっとだけ皮肉っぽい微笑みで、信仁は続けた。
「ただまあ、感触としては、「奴」は死んだ、姐さんの念に焼かれて消滅したって言うより、おれと姐さんの
「じゃあ……」
「多分だけど。「奴」は死んだも同然だと思う」
あたしは、それを聞いて、やっと体の力を抜いた。深く、息を吐く。緊張が解けた反動で、膝が崩れそうになる。ふらついたのが、わかった。
「……大丈夫か?姐さん?」
あたしが思った以上にふらついたのかも知れない、信仁が、あたしの腰と脇に手を添えて支えて、聞いた。
顔を上げたあたしが見たのは、ちょっと心配そうに、でも晴れ晴れとあたしを見る、信仁の顔。
その顔を見て、何故か急に、あたしは腹が立った。
「……このバカ!」
思わず、あたしはグーで信仁の横っ面をぶん殴った。
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