第325話○「掛札亜香音」という「アイドル」

 自宅からの初配信の翌日、事務所に顔を出すと太田さんが満面の笑みになっていた。


「昨日の配信、すごかったわよ!」

「はい、すごい盛り上がりました!」

「それだけじゃないの。スマイルでも同時に配信していたでしょ。そのおかげか有料会員数がついに10万を突破したの!」

「えっ、すごいですね!?」

「美愛の有料チャンネルはうちが直接開設しているから10万人超えてくると収益という点で本当にありがたいのよね。」

「そうなんですね。」

「うん、細かい入退会はあるけど、一気に減ることはまずないから安定した収入基盤になる。」

「なるほど、そういうことですか。会社の役にも立っているなら嬉しいですね。」


 いい話はそれだけではなく、2日の深夜から始まった『私とあなたの200日』のアニメ放送もとても好評なそうだ。


「やっぱりあなたたちはみんなで相互にいい影響を与え合っているのよね。」

「そういってもらえると嬉しいです。」


 みんなで一緒に先へ進めているならこんなに嬉しいことはないよね。アニメの宣伝では、原作が書かれた頃には全然関係なかった朱鷺野先生と出演などを指名されたいろは・へべす・私、そして儘田先生が親しくなって、その流れで雨東先生も含めたみんなの交流も始まっている、なんていう話も使われて、みんなとの仲を少しずつ公言できるようになっているのもありがたい。


 好評のうちに始まった『私とあなたの200日』のアフレコはまだまだ続いているし、そこへ梅田シアターアリーナ、略して梅アリこけら落とし公演のレッスンに無地逸品さんや東鉄ホテルさんの広告収録、もちろん通常通りのお仕事も入ってきて、7月もなかなかに忙しい日々を送っている。


 そして一番大事なのはドルプロの掛札かけふだ亜香音あかねについて、理解を深めていること。オクダイナンコさんからもらった公式の資料には公開されている全ての設定が細かく記されているので、その情報を基礎に隙間の時間を使いながらスマイル動画とかTixivとかを確認して、掛札亜香音の二次創作を丹念に読み進めていく。それと平行して公式資料と差異のある部分の捉え方やそこで感じたこと、思ったことなんかを彩春やななかさんに送って、返答をもらいつつ、同じように読み込んでくれている圭司と意見を交わすといった作業を進めている。この差分は、きっと掛札亜香音が単なるキャラクターではない、人間味みたいな部分なのだろうと思うんだよね。何しろ多くの人が掛札亜香音に対して寄せた思いが二次創作と公式設定の差分に詰め込まれているんだから。

 こんな感じで掛札亜香音を知る過程で、実はドルプロの特殊な状況に気がつかされた。それは、公式が提供しているコンテンツに二次創作側で一般的になった事柄が普通に盛り込まれていること。例えば「まりあコンビ」というのは二次創作から生まれてきた俗称で、実は正式なユニット名はまだついていない。ところが公式のコミカライズでも度々このユニット名が登場していて、半ば運営公認になっている、とかね。圭司と二人でコンテンツマーケティング関係の授業で大いに参考になりそうな事例だって、感心したよ。結構研究とかもあるのかもしれないなあ。時間を見て調べてみようかな。それもきっと亜香音を知ることにつながるから。

 こんな感じで亜香音を自分の中でリアルなものにしていく過程を続けているのだけど、実は一人のキャラクターをここまで深く追い詰めたことがなかったので、役作りという観点からものすごい経験になっている。彩春やななかさんは元々プロデューサーとして掛札亜香音を担当していたから思い入れもあるのでそういう視点から私の感じたことに対する意見がもらえるし、圭司は二人とは違って一切の思い入れがないから割と客観視した意見のやりとりが出来ている。この作業はとてもきつい作業であるとともに少しずつ自分の中に掛札亜香音という別の人格が形成されている感じがして面白く楽しい作業でもある。多分将来いろいろな役を演じるに当たって、今回の作業はとても素晴らしい経験値になりそうなんだよね。

 最終的に掛札亜香音はいつもは割とおちゃらけた感じなんだけど、いざというときには周りをぐいぐい引っ張っていく、そんなムードメーカー的なアイドルという感覚が出来た。声のイメージは私の地声より少し高めなんだけどそのままだと喉を潰しかねないので、ボイストレーニングの先生とも相談しながら無理なく発声して、歌も歌える感じの高さの中からいろいろと試してみて、最終的に彩春にも付き合ってもらって決定した。彩春には「私の脳内ボイスにすごい近いよ!」っていってもらえたので自信になる。

 それと同時にドルプロというコンテンツの「常識」的なところ――例えば、ライブに来ている人たちのことは「ファン」や「お客様」ではなく「プロデューサー」と呼びかける、などを学んでいる。長い歴史があって、多くの人の思いが詰まっているコンテンツに足を踏み入れる以上は、やっぱりキャストとして大事にすべきことだと思ったからね。

 「掛札亜香音」という一人の「アイドル」を応援し続けてきた担当プロデューサーたちの思い、歌と仲間と楽しいことが大好きな掛札亜香音の気持ち、その両方に対して、自分の持っている演技力や歌唱力、そして経験値を全て使って表現して応えていきたい。そんな気持ちをこの短い時間で強くした。


 実は自分の中にできあがった掛札亜香音をもとに収録前にセリフを彩春に聴いてもらって確認してもらえることになっている。ところが、なかなかまとまった時間があわなくて、結局、収録前日の今日になって『私とあなたの200日』の収録が終わるタイミングが彩春と一緒、しかも彩春も私もそのあとの仕事が前日リスケになって時間ができたので、急遽社宅一階の歌唱用レッスンルームSL-M01を借りて、前に彩春とななかさんからもらっていた亜香音のセリフに声を当てるのを彩春に聴いてもらえることになった。前から少し聴いてもらって、ダメ出しをもらっていたのだけど、明日はいよいよボイス収録なので、ここでなんとか担当プロデューサーさんのOKが欲しいところ。

 華菜恵の車で送ってもらい、そのまま彩春と華菜恵を伴って、レッスンルームに入る。既に喉は温まっているので、マイクは使わずに早速セリフをどんどん読み上げてい行く。


「……『ええっ!ぷろぷろ、そんな怒らないでよー!』……『まこまこ、そこでおしまいな訳ないよね?りまりまもいいよね?……じゃあ、行くよ。』……ここまでだね。」


 全部読み終わった!どうかな?……あれ?彩春が目をまんまるにして小刻みに震えている?そして華菜恵が心配そうに彩春と私を交互に見ている。もしかして全然ダメだったのかな……。

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