第九章 Ka'ulua-天国の女王-

第九章 Ka'uluaカウルア-天国の女王-


 船が難破したと聞かされてからもう一カ月近く経った。

 いつまで待っても男は帰ってこなかった。

 アトはひたすら崖の上で歌っていた。

 凍てつく青白い光を放つ星が南の空で輝いている。

 冷たくて強い風が打ち付けてくる。体温がどんどん奪われていく。

 それでもアトは海に向かって歌おうとしていた。

 身体が熱い。

 咳が酷くて声が出ない。

 歌わなきゃいけないのに。

 歌えばきっと帰ってくる。

 身体に力が入らない。もう立っていることすら出来ない。

 歌わなきゃ……。

 歌声さえ届けば……。

 次の朝、崖のそばで倒れているアトを村の者が見つけた。既に冷たくなっていた。

「可哀想に。せめてここに葬ってやろう」

 村長むらおさはそう言うと若い者達にアトを埋葬させた。

 穴の底にアトの遺体が置かれたとき、何かが見えた気がした。


「榎矢の話が間違ってなきゃこの辺だけど……」

「小夜、足下に気を付けろよ」

 柊矢が小夜の肩を抱きながら言った。

 そのときクレーイスが光ったかと思うと崖の近くに光の玉が現れた。

 途切れ途切れに歌が聴こえてくる。

 以前クレーイスから聴こえていたのとは違う。

「これ……ムーシカじゃないよね?」

 旋律はムーシカに似ているがムーシカではない。

「この人が歌おうとしているムーシカです」

 小夜が光の玉を見ながら言った。

「……って……ええ! これ、人魂ひとだま!?」

 楸矢がぎょっとしたように身を引いた。

 小夜は柊矢を見上げて安心させるように微笑むと肩に置かれた手を外した。

 そして光の玉に向かって足を踏み出した。

 光の玉の前で立ち止まると小夜はそれに手を触れた。

 光が小夜に吸い込まれるようにして消えた。

 彼女の想いが伝わってくる。

 ずっと夢で見ていたのはこの人だ。

 ムーシケーはこの人のために自分をここへ来させたのだ。

 この人の願いを叶えるために。

 これがムーシケーの意志だ。

 この人があの男の人を想う気持ちは自分の柊矢に対する気持ちと同じくらい強い。

 ムーシケーもグラフェーの事を想ってるからこの人の気持ちが理解出来るんだ。

 そして歌いたいという願いも。

 好きな人のために歌いたい。一緒にムーシカを奏でたい。その想いはムーシコスの誰にも負けない。

 だからムーシケーはこの人の願いを叶えてあげたかったのだ。

 小夜はそのまま崖の方へ歩いていく。

「小夜ちゃん!?」

「小夜!」

 柊矢が腕を掴んで止めようとしたとき、クレーイスが柊矢を制止するように光った。

 柊矢の手が止まる。

 小夜は崖の近くで足を止めるとアトの想いをムーシカにして歌い始めた。

「……これ、ムーシケーのムーシカじゃないよね」

「……今、小夜が創ったムーシカだ」

「なんだか……いつも小夜ちゃんが創ってるのとは雰囲気が違うような……」

「代わりに創ったんだよ」

 椿矢が言った。

「え?」

「あの魂の人が歌いたかったムーシカを小夜ちゃんが代わりに創って歌ってるんだよ」

 小夜の歌声が風とともに海の上を流れていく。

 今、小夜が創ったムーシカだからムーシコスの演奏も合唱もない。

 柊矢達もムーシコスも小夜の歌声を聴いていた。

 やがて海の向こうにぼんやりしたものが浮かんだかと思うとゆっくり近付いてきた。

 それは人の姿をしていた。海の上を歩いてくる。


 歌い終わると海からやってきた人影が小夜の近くで止まった。

 竪琴を持った男の人だった。

 小夜の中から光の玉が抜け出して男の前で女性の姿になった。


 柊矢がすぐに小夜に近寄って顔を覗き込んだ。

 小夜は柊矢を見上げて微笑んだ。

 小夜に何事もなかったと分かった男性陣が一斉に安堵の溜息を漏らした。

「ありがとう。アトの唄のおかげでようやく帰ってこられた」

 男は女性アトに向かってそう言うと手にしていた竪琴を弾きながら歌い出した。

 クレーイスから聴こえていた魂に刻まれてないムーシカだ。

 男の歌声が竪琴の音色とともに流れていく。

 昔の言葉の上に方言も混じっているから正確な歌詞は分からないがラブソングだ。

 ムーシカから男の感情が伝わってくる。

 アトに負けないくらい強く彼女のことを想っている。

「この唄を君に届けたかったんだ」

 歌い終えた男が言った。

 男はキタリステースだから肉声の届くところで歌わなければ地球人だけではなくムーシコスでも聴こえない。

「板に掴まって海で漂いながらずっとアトのこと考えてた。アトにもう一度会いたかった。そしたらこの唄が浮かんできて、これをアトに聴いて欲しいって思った」

 魂に刻まれていなかったのは、おそらく演奏出来なかったからだろう。

 助けを待っているうちに力尽きて水底みなそこに沈んでしまったのだ。

 それから長い間、アトは男が帰ってこられるようにムーシカを歌おうとし、男はアトの元に帰ろうとして海の上を彷徨さまよっていたのだ。

 男は小夜がアトの代わりに歌ったムーシカを頼りにようやく帰ってこられた。

 二人を見ていた小夜がムーシカを歌い始めた。

 いつも歌っているごく普通のムーシカだった。

 楸矢は戸惑ったような表情をしたが柊矢はすぐにキタラを弾き始めた。

 ムーシコスも合奏や合唱を始めた。

 椿矢もブズーキを弾きながら副旋律のコーラスを歌い始めたのを見て楸矢も演奏に加わった。

「これが、あんたの言ってた唄?」

「ああ」

「ホントに天女みたいな声だね。あんたにはいつもこんな綺麗な声とがくが聴こえてたんだ」

 ずっとアトが聴きたがっていたムーシカだ。

 地球人でも肉声なら聴こえるから小夜は歌ったのだ。


 やがてアトは悲しげに西の方を見た。

 多分アトのくべき場所が見えているのだろう。


 男も寂しそうな表情で北の空を見上げている。

 男の行き先は北なのだろう。おそらくムーシケーがその方向にあるのだ。


 男は帰ってきた。

 二人が地上にとどまる理由は無くなった。

 それぞれ逝くべき所へ向かわなければならない。


 生きている小夜に、アトや男の視線の先にあるものは見えないが、別々の方向を見ているという事はムーシコスの魂がかえる場所と地球人のく先は違うのだろう。

 やっと再会できたのにまた離れ離れになってしまう。このままでは二人はもう二度と会えないかもしれない。

 なんとかしてあげたい……。

 小夜はクレーイスを握りしめた。

 ムーシカが終わったとき、クレーイスから溢れ出した光に辺りが包まれた。

 小夜はまぶしさに思わず目を閉じた。

 目を開けてないのに周囲が見えた。

 いや、見えるというのは正確ではない。視覚的に見えているのではなく感じているのだ。

 小夜は温かく優しい光に包まれているのが分かった。すぐそばに柊矢の存在も感じる。

 ムーシケーが昔のテクネーを見せたときとは違い、地球の音や身体の感覚がない。

 何も見えないし聴こえないが優しい旋律を感じる。不安は全くない。優しい温もりに包まれていて懐かしさを感じる。

 完全に意識だけがここにるんだ。

 る、というか、これは自分の意識そのものだ。

 自分の意識であり、ムーシコスを含めた全てのムーシケーのもの達の意識でもあり、ムーシケーの意識でもある。そして意識とは魂の事だ。

 ここは自分の意識の中であると同時にムーシケーの魂の中でもあるのだ。

 ムーシケーとはこの魂のそのものだ。

 そして、この魂の宿っている惑星ほしをムーシケーと呼んでいるのだ。

 ムーシケーで生まれた全てのものはムーシケーと魂が繋がっている。

 その魂はムーシカで出来ていた。

 ムーシカは創られると魂の一部になるから、魂が繋がっているムーシコスや、ムーシケーに存在する全てのものが知ることが出来るのだ。

 ムーシカが魂に刻まれるというのはこういう事だったのだ。

 ムーシコスというのは魂がムーシケーと繋がっている人を指すのだ。

 そしてムーシコスの魂はパートナーが出来ると互いに強く結びつく。

 だからパートナーとの絆が強いのだ。

 小夜が今、柊矢の存在を感じているのも魂が強く結びついているからだ。

 あの男の人の魂がかえる場所はここムーシケーだ。

 だけど、アトさんは……。

 そのときムーシケーのムーシカが伝わってきた。


 小夜が目を開けると元の場所に戻っていた。柊矢と楸矢の方を向くと二人と視線が合った。

 柊矢と楸矢が前奏を始めると小夜が歌い始めた。

 悲しげな表情で西の方に顔を向けていたアトが驚いたように北の空を見上げた。

 アトにも男と同じ場所が見えるようになったのだ。

 アトが訊ねるように小夜を振り返った。

 小夜は歌いながら微笑んでうながすように北の空に手を向けた。

 アトは嬉しそうに男の顔を見上げた。

 男も笑顔を返すと手を差し出した。アトがその手を取った。

 二人は手を繋ぐとムーシケーに向けて足を踏み出し消えていった。

 二人の魂はムーシケーへと還っていった。

 ムーシコスになりたいと望んだアトをムーシケーは迎え入れた。

 ムーシコスに生まれ変わりがあるのかは分からない。

 だが、もしあるとしたら次にアトが生まれてくるときはムーシコスとしてこの世に生を受けるだろう。

 ムーシケーのムーシカを歌い終えると、男が創ったムーシカを柊矢がキタラで弾き始めた。楸矢がそれに続く。小夜と椿矢が一緒に歌い始めた。

 風に乗って男の創ったムーシカが流れていく。

 歌い終えると男が歌ったムーシカは魂に刻まれていた。

 これでようやく男の創ったムーシカは魂の一部になることが出来た。

 ムーシケーは地球で彷徨さまよっていた男の魂を還らせるため、そしてムーシコスになりたいと望んでいたアトをムーシケーに迎え入れるために小夜達を寄越よこしたのだ。


「ちょっと、兄さん、これ、どういうこと?」

 不意に榎矢の声が聞こえた。いつの間にか榎矢が近くに立っていた。

「なんでその人達ムーシカ奏でてんの? これ、うちに来た依頼でしょ」

「小夜ちゃん達はクレーイス・エコーとしてムーシケーの意志を実行したんだ」

「クレーイス・エコー? 地球人の幽霊なのに? じゃあ、それで森から出られなかったんだ……」

「森?」

 椿矢が問い返すと榎矢はしまったという表情を浮かべた後、渋々、

「……昨日もだけど、ムーサの森で迷子になってここに来られなかったんだよ」

 と答えた。

 御祓いをされてしまうとアトを迎えることが出来なくなってしまうからムーシケーが榎矢を足止めしていたのだろう。

「俺達、別に金のためにやったわけじゃないし、これで依頼人が満足したならあんたが依頼料もらえばいいだけじゃん」

 そのとき草を踏む音がして振り返ると朝子が立っていた。

「朝子さん、どうしてここに?」

 椿矢の言葉に女性が朝子だと知った柊矢が小夜を守るように背中に庇った。

 楸矢も柊矢の横に立った。

 椿矢もいつでも歌えるようにブズーキを持ち直した。

 朝子を警戒している柊矢達を榎矢が不思議そうに眺めた。

「ムーシケーはその子を信じているから邪魔をするのをめたのかしら」

「邪魔?」

「私もここへ来ようとすると、いつもムーサの森に阻まれてたの」

 つまりムーシケーが足止めしていたのだ。

「なんでムーシケーが……」

 楸矢が訳が分からないという表情をした。

「あの女性か?」

 柊矢の言葉に椿矢がはっとした。

「彼女の魂を呪詛に利用する気だったんですか?」

 椿矢の問いに朝子が首を振った。

「いいえ。私が欲しいものはまだそこにあるわよ」

 朝子が自分と小夜達との間の地面を指した。

 朝子以外の全員が地面に視線を彷徨さまよわせた後、互いに顔を見合わせた。

「何があるの?」

 楸矢が椿矢に訊ねた。

 榎矢も知りたそうに横目で椿矢の方を窺っていた。

 椿矢に弱みを握られるのが嫌で楸矢のように素直に聞けないのだ。

 まぁ、毎回あれだけバカにされて意地の悪いこと言われてたら弱みは見せられないよな……。

 もっとも全く隠せてなくて、いつも尻尾を掴まれてしまっているようだが。

 兄が賢いってつらいよな……。

 楸矢は密かに榎矢に同情した。

 椿矢は首を振った。

「分からない。おそらく僕達には見えない何かだと思う」

「地球のものだから見えないのね」

 朝子が薄笑いを浮かべた。

「あんたは見えるって言うの? 一体なんなのか知らないけど」

「ムーシカがからめ取られてるのよ。ここで昔、恨みを残して死んだ人がいるの。それも大勢。その人達の怨念に呪詛のムーシカが囚われるのよ」

 そういえば楸矢が郷土資料を読んだとき、それらとは別に心霊スポットについて書いてあるものが置いてあった。

 香奈達がお化けだと言っていたから一応目を通しておいたのだ。

 あれに書いてあった心霊スポットってここだったのか。

 朝子は怨念と言っていたが今送った二人は普通の幽霊だった。

 つまり他の幽霊――それも怨霊――がまだいるのだ。

 出来れば知りたくなかったんだけど……。

 楸矢は顔を引きらせた。

「さっきの女性はそれで幽霊に?」

「いいえ。本来なら誰にも見えず、声も聞こえないままここにとどまっていたはずだったのが、これのせいで人に見えたり聞こえたりしたと言うだけ」

 不意に朝子が悪意のある笑みを浮かべた。

「あなた達三人のご両親と」

 朝子は柊矢と楸矢に顔を向けて、

「あなた達のお祖父様が亡くなったのはムーシケーのせいなのよ」

 と言った。

「ムーシケー……? なんでムーシケーが小夜ちゃんやうちの親や祖父ちゃん殺すのさ」

みんな呪詛で死んだの」

「呪詛? なんで……」

「あなた達のご両親は、お父様がクレーイス・エコーだったから。お母様は巻き添え。お祖父様もね。ホントの狙いはクレーイス・エコーだったあなた達」

「……小夜ちゃんのご両親は? やっぱり、どっちかがクレーイス・エコーだったの?」

「いいえ。狙いはその子」

 小夜が息を飲んだ。

 予想通りか。

 柊矢と椿矢は密かに視線を交わした。

「……じゃあ、お祖父ちゃんだけじゃなくて、お父さんとお母さんも私のせい……」

 小夜の目に涙が浮かんだ。

「小夜」

 柊矢が気遣わしげに小夜を見ながら肩を抱き寄せた。

 楸矢君も小夜ちゃんと同じくご両親が殺されたこと初めて聞かされたんだけど……。

 椿矢は同情の眼差しを楸矢に向けた。

「それがなんでムーシケーのせいになんの? 呪詛で死んだなら悪いのは呪詛した人でしょ」

「ムーシケーは呪詛されてることを知ってた。助けることも出来たのに助けなかった。知ってて見殺しにしたのよ」


 楸矢はしばらく黙って朝子を見ていた。

 それから、おもむろに口を開いた。

「……他人への呪詛が聴こえる人がいるってのは知ってる。実際、小夜ちゃんは聴こえるし。でも、小夜ちゃんだって呪詛は聴こえても誰が呪詛されてるのかは分かんないのに、なんであんた、小夜ちゃんのご両親や俺達の親や祖父ちゃんの事故が呪詛だったって知ってるの?」

 朝子は楸矢の問いには答えず嫌なわらいを浮かべた。

 表情から悪意がしたたっている。

「……あんたがやったの? 自分でやったことだから知ってるの?」

「そうよ」

 あっさり認めた朝子に椿矢は眉をひそめた。

 何か企んでるのか?

 楸矢が拳を握りしめた。

「あんた、頭おかしいんじゃないの? 小夜ちゃんのご両親もうちの親や祖父ちゃんも、あんたのせいで死んだんでしょ。どう考えたって悪いの、あんたじゃん! なんでムーシケーに責任なすりつけてんのさ!」

「ムーシケーは自分の意志を分かるものだけを助けた。自分の意志さえ実行できれば他のムーシコスはどうでもよかったからムーシケーはあなた達しか助けなかった」

「そんなの理由になってないよ!」

「朝子さん、あなたも一度はクレーイス・エコーに選ばれたんでしょう。それが何故なぜクレーイス・エコーを狙うんですか」

「クレーイス・エコーになって、ムーシケーの意志を知ったから」

 朝子はムーシケーの意志が分かったのだ。

「ムーシケーは呪詛を消したがってた。全ての呪詛を」

 やはり……。

 雨宮家の者が三代も続けて選ばれていたのは蔵にある古文書を処分したかったのだ。

「楸矢君達の従妹を狙ったのは?」

「ムーシケーはその子の手にあの封筒が渡れば、あの中に書かれている呪詛を消すだろうと思ったからよ」

 朝子の目的はリストではなく呪詛の歌詞を消させるのを阻止したかったのだ。

 魂に刻まれてるとは言っても存在を知らなければ思い浮かべようとはしない。

「ムーシケーの意志を知って、それの意味がようやく分かったの」

 朝子は地面を指した。

「そこにある怨念のかたまりは呪詛のムーシカを強化するものだと。それがあればムーシケーのムーシカでも払えない呪詛が可能になる。わたしが呪詛を消す気がないと知るとムーシケーは私をクレーイス・エコーから外して、その怨念の塊にも近付けないようにした」

何故なぜ消すのを拒んだんですか。あなたのお父さんは呪詛で亡くなったわけではないでしょう」

「呪詛で死んだのは義兄あに。あなたはまだ小さかったから覚えてないでしょうけど沢口の父には息子がいたのよ。私の義理の兄。義父ちちは呪詛とは無縁の人で呪詛のことは何も知らなかった。もちろん義兄も。でも、そんなの関係ない。義兄は呪詛で殺された。私は義兄に呪詛が巻き付いて命を奪うところを見ていた。義父は呪詛なんてものがあることすら知らなかったから義兄の死は心臓発作だと思い込んでいたけれど」

「家族が呪詛で死んだなら尚更なおさら呪詛なんて消したいと思うものじゃないの!?」

 楸矢が怒鳴った。

 身内を失う悲しみを知っていながら他人ひとの家族を奪った朝子の行為が許せないという表情だった。

 朝子は自分がやられたのと同じ事を無関係の人間に対してやったのだ。

「義兄を殺したムーシカを創っておきながらそれを消したいだなんて身勝手すぎるでしょう!」

「それはこっちの台詞だ!」

「ムーシケーが創ったわけではないし、そもそもムーシケーにいた頃には呪詛のムーシカなんてありませんでしたよ。呪詛は地球に来てから……」

「それがなんなの? どこで出来たにせよ、ムーシカがなければ義兄あには死ななかった! 他人ひとを傷付けたりしたことのない人だったのに! いつも私に優しくしてくれてた! その義兄をムーシカが奪ったのよ!」

 朝子は話してるうちに激昂げきこうしてきたようだった。

「それで自分も同じことしたっての!?」

「ムーシカを使わない呪詛だってありますよ。ムーシコスだからムーシカを使ってるっていうだけで」

「関係ないわ! ムーシカが義兄を殺した。なのに今更呪詛を消そうなんて許さない!」

「それで、俺達の親や俺の祖父ちゃん殺したっての!? あんた、どうかしてる!」

 楸矢の怒りには恨みと悲しみが籠もっていた。

 小夜は何も言わなかったが同じ思いだろう。

 椿矢は何も言えなかった。

 椿矢の両親は今でも健在だ。

 知識では親のいない子供もいるということを知っていても、その子がどういう思いをしているのかまでは分かってなかった。

 親がいる友達を見て羨ましいと思いながら育ってきた小夜や楸矢の気持ちを完全に理解することは出来ないし、両親がいない寂しさや悲しさは椿矢には想像も付かない。

 朝子は楸矢を無視すると小夜の方を向いた。

「憎いなら呪詛でわたしを殺せばいい。呪詛を強めるものがそこにあるからムーシケーのムーシカでも払えない。今なら簡単に殺せるわよ」

 朝子が醜い笑みを浮かべた。

「呪詛ならいくらでも浮かんでくるでしょう」

 これが狙いか!

 小夜が朝子を呪詛すればクレーイス・エコーから外される。

 朝子はどこかで幼い小夜を見かけて気付いたのだ。

 小夜には呪詛を消せる能力ちからがあると。

 これ以上、小夜を狙ってもムーシケーに邪魔されるだけなら自分の命と引き替えにクレーイス・エコーから外させ呪詛を消させないようにする気なのだ。

「小夜ちゃ……!」

 言いかけた椿矢の腕を楸矢が掴んで止めた。

 椿矢が振り返ると楸矢が俯いていた。

 朝子を殺したところで亡くなったご両親やお祖父さんは帰ってこない。

 そんなありきたりの言葉を言ったところで意味はない。

 それくらい楸矢だって百も承知だ。

 それでも許せないのだ。

 しかし朝子が死んだら一生重荷を負って生きていかなければならないのは小夜だ。

 まだ十六歳の小夜にそんな十字架を背負わせていいのか。

 だが小夜も両親を朝子に殺されている。立場は楸矢と同じだ。

 小夜のことを思うなら止めなければいけないと思う反面、楸矢と同じように復讐を望んだ小夜を止める資格が雨宮家の人間である椿矢にあるのかとも思う。

 椿矢自身は呪詛などしたことはなくても親はしていた。

 呪詛で稼いだ金で育てられたのだ。それを知りながらどの面下げて呪詛をやめろなどと言えるだろうか。

 ふと、さっきの朝子の言葉が浮かんだ。


 ――ムーシケーは小夜を信じてる――


 朝子をはばむのをやめたのは面倒めんどくさくなったからではないだろう。

 朝子はもう六十近い。人間の一生など惑星ほしのそれに比べたらほんの一瞬なのだから朝子の寿命が尽きるまで近付けないようにしておくことなどムーシケーにとっては容易たやすいはずだ。

 えてやめたのはここに小夜がいるからだ。

 朝子がどういうつもりで言ったにせよ、ムーシケーは小夜がやらないと確信してるのだ。

 椿矢は朝子の言った言葉に望みを託すことにした。

 仮に小夜が復讐を選んだとしても責められない。

 小夜は写真ですら親の顔を見たことがないのだ。

 朝子が逆恨みで小夜を狙ったりしなければ失われることのなかった命、幸せな子供時代。

 それらを奪われた小夜が仕返しを望んだとして、それを責めることが出来る人間がいるだろうか。

 椿矢が身体の力を抜くと、楸矢は掴んでいた腕を放した。

 柊矢は黙って小夜に寄り添っていた。

 何も言わないのはムーシケー同様信じているからなのか、復讐しても構わないと思っているからなのかは分からなかった。

 小夜が朝子が指した地面に目を向けるとクレーイスから胸を締め付けるような想いが伝わってきた。

 見ることは出来ないがムーシカの想いを感じる。

 本来ならムーシケーの魂の中にあるべきムーシカが、地球人の怨念に囚われ還ることが出来ずにとどまってしまっているのだ。

 正直、楸矢のような怒りは感じてない。

 ただひたすら悲しかった。

 涙をこぼさないようにするのが精一杯で口もけなかった。

 柊矢と楸矢も自分と同じく両親を殺されたと聞いたばかりなのだ。

 その二人の前で自分だけ泣くわけにはいかない。

 そう思って必死でこらえていた。

 両親のことは何も覚えていない。気付いたときには祖父と二人で暮らしていた。

 柊矢の話によると両親は小夜が二歳の時に交通事故で亡くなったとのことだった。

 引き取り手が見つかるまでに時間がかかったため、小夜は福祉施設に入れられ、そのとき両親と一緒に住んでいたアパートの荷物は全て処分されてしまったので祖父が迎えにきたときには写真一枚残っていなかったらしい。

 柊矢に聞くまで家に両親の写真がないのが不思議だった。祖父は小さかった母を養子に出した後は一度も会ってなかったのだ。

 だから名前の由来なども知らなかった。連絡が行くまで孫がいることすら知らなかったから。

 何故なぜ母が養子に出されたのかも謎のままだ。

 唯一人、事情を知っていた祖父も亡くなってしまった。

 ずっと不安だった。

 祖父が両親のことを口にしないのは嫌っていたからではないのか。

 嫌われていたのだとしたらホントはその二人の子供だって育てたくなかったのに引き取る羽目になって迷惑してたのではないかと。

 祖父が生きていたときから気になって仕方がなかったのに柊矢から孫がいたことすら知らなかったと聞かされてその思いは強くなった。

 その上、自分のせいで命を落としたことで罪の意識にさいなまれてきた。

 小夜はクレーイスを握りしめた。

 想いが伝わってくる。

 この想い、確か前にも……。

 あのとき、病院で目覚める前に見た、泣いていたもの達。

 あれは呪詛のムーシカだったのだ。

 胸の奥から想いが湧き上がってくる。

 暗くて苦しくて悲しい。

 それは小夜がいだき続けてきた想いとよく似ていた。

 自分のせいで祖父を死なせてしまったのだと思うといつも胸が苦しかった。

 今、両親も自分を狙った人に殺されたと聞いて罪悪感に押しつぶされそうになっていた。

 両親が生きていれば祖父は自分を引き取ることもなかった。

 引き取っていなければ今でも生きていた。

 自分を引き取らなければならなくなったのは両親が亡くなったから。

 そして両親が亡くなったのも自分のせい。

 自分の巻き添えで三人もの人が命を落としたのに自分はまだ生きている。

 罪のない人を死なせてしまう苦しさ。

 傷付けることなど望んでないのに。

 呪詛のムーシカもずっと同じように苦しんできた。

 小夜が目を瞑ると沢山の呪詛が浮かんできた。

 呪詛のムーシカの感情が伝わってくる。

 そうだったんだ……。

 小夜は目を開いて顔を上げた。

 朝子は義兄を殺された恨みで柊矢達や小夜の両親を殺した。

 小夜が朝子を殺したら朝子の周囲の人達が悲しむ。

 そして今度は朝子に近しい人が、小夜か小夜の親しい人に仕返しに来る。

 そうやっていつまでも憎しみの連鎖が終わらないのだ。

 他にも沢山の恨みや憎しみが呪詛によって続いてきた。

 人を呪い、傷付ける能力ちからがあったから……。

 でもムーシカは人を傷付ける事なんて望んでない。

 それなのに人を傷付けるためだけに使われ続けてきた。

 だから、ずっと泣いていたのだ。

 呪詛のムーシカも、ムーシケーも。

 誰かを悲しませるためのものなどこの世に存在していてはいけない。

 人を傷付けるだけものはいらない。

 終わらせなければならない。

 これ以上誰も悲しまなくてもいいように。

 小夜の中にムーシカが沸き上がってきた。

 これが自分の、そしてムーシケーの想いだ。

 クレーイスを握りしめた小夜が静かな声で歌い始めた。

 歌声につられるようにして朝子が指していた場所から暗い色をした光の玉が次々と解き放たれていく。

 小夜の周囲に禍々しい色をした光の球がいくつも浮かんだ。

「これ、みんな呪詛のムーシカ?」

 楸矢が辺りを見回した。

 小夜が手を差し伸べると更に沢山の光の玉が遠くから飛んできた。

 海の向こうからもやってくる。それらが次々に小夜の身体に入っていった。

「小夜!」

「小夜ちゃん!」

 みんな辛かったよね。苦しかったよね。

 呪いたくなんかないのに。苦しめたくなんかないのに。

 歌ってもらえるのは人を傷付けるときだけ。聴いてくれるのは苦しめる相手だけ。

 悲しくて、寂しかったよね。

 他のムーシカは皆に歌ってもらえて聴いてもらえるのに、あなた達は聴いてくれた人を傷付けてしまい他の人には聴いてもらえない。

 みんなに歌ってもらえない。

 それが悲しかったんでしょう。

 独りぼっちでずっと寂しい思いをしてきた。

 それは小夜が今まで感じてきた寂しさや悲しさと同じものだった。

 でも、それはもうおしまい。

 これからは普通のムーシカとして皆に歌ってもらえて聴いてもらえるよ。

 もう二度と人を傷付けなくていいんだよ。

 歌われても誰も悲しまなくなったよ。

「これ……呪詛じゃない、よね?」

 楸矢が訊ねるように椿矢を見た。

 朝子は鬼のような形相で小夜を睨んでいるが苦しんでいる様子はない。

「普通のムーシカだよ」

 優しくて温かい、子守唄のようなムーシカだった。

 ムーシコスの胸に優しい余韻を残して小夜のムーシカが終わった。

「……呪詛のムーシカが消えた」

 椿矢が呪詛を思い浮かべようとしても何も浮かんでこなかった。

「もう、呪詛じゃありません。ただのムーシカです」

 ムーシケーの望み通り呪詛のムーシカはこの世から全て消えた。

 正確には人を傷付けないただのムーシカになった。

 小夜は例え呪詛であってもムーシカを消してしまいたくなくて人を傷付ける効果だけを取り除いたのだろう。

「二度とムーシカが人を呪うことはありません」

 椿矢はその言葉に目を見張った。

 今のムーシカは既存のムーシカから呪詛の能力ちからを奪っただけではない。

 呪詛には使えないようにムーシカ全体を変成へんせいさせてしまったのだ。

 朝子さんが執拗に小夜ちゃんを狙ったわけだ……。

 さすがに小夜にここまでの能力ちからがあったのは想定外だっただろうが。

 楸矢は復讐を選ばなかった小夜を複雑な表情で見つめた。

 人を傷付けるのは嫌いだ。

 小夜が憎しみに駆られて誰かに復讐するところを見たかったわけでもない。

 それでも楸矢は朝子を許せなかったし両親と祖父のかたきを討ちたかった。

 命まで奪う気はないとしても朝子を苦しめてやりたかったがキタリステースの楸矢ではムーシカを使って仕返しをすることは出来ない。

 物理的な方法でなら可能だが暴力は振るいたくない。

 かたきを討てないのが悔しかった。

 そして自分が出来ないからと言って僅かでも小夜にそれを望んでしまった自分が情けなくてみじめだった。

 年下の、それも女の子に、代わりに復讐してくれることを期待してしまうなんて……。

 それでも、少しでもいいから自分から両親と祖父を奪った女を苦しませたかった。

 自分の悲しみの十分の一、いや百分の一でもいいから味合あじあわせたい。

 クレーイス・エコーなんてどうでもいい。

 もし自分がムーソポイオスだったら迷わず呪詛のムーシカを歌ったのに……。

 小夜自身、朝子をゆるしたのかどうか楸矢には分からない。

 小夜はムーシケーの意志に従っただけだ。

 というか、ムーシケーと小夜の、ムーシカで人を傷付けたくないという想いが一致した結果だろう。

 だがムーシケーの意向通り呪詛を消したことで結果的には朝子を赦したことになる。

「楸矢君、小夜ちゃんが呪詛をしなかったことが一番の復讐だよ」

 椿矢が穏やかな声で言った。

「朝子さんは小夜ちゃんに呪詛をさせることでムーシケーの意志に背かせたかったんだから」

 椿矢の言う通りだ。

 小夜が朝子を呪詛していれば朝子自身を傷付けることは出来ても小夜はクレーイス・エコーから外されていただろうし呪詛を消させないという朝子の思惑通りになっていた。

 呪詛のムーシカを消したいというのは地球に来たムーシコスが呪詛を作ってしまって以来ずっとムーシケーが望んでいたことのはずだ。

 だがこの数千年間、誰一人ムーシケーの意志には従わなかったか、もしくは従いたくてもその能力ちからが無くて出来なかったのだ。

 もし小夜が呪詛を消さなければ次の機会はいつになったか分からない。

 下手したら永久にムーシケーの望みは叶わなかったかもしれない。

 それは結果的には朝子の望み通りになる。

 それに小夜が呪詛のムーシカを復讐に使っていたらムーシケーは幼い頃から護ってきた小夜に裏切られることになっていたし、自分の意志が分かる者を失うことになっていた。

 椿矢の言ったことは正しい。

 頭では理解出来る。だけど感情では納得がいかなかった。

 人の命を奪ってまでやろうとしたことを阻止されたのだ。

 今までの人殺しを全て意味のない行為にされたとはいえ、それは両親がいなかった自分の味わった寂しさよりもつらいだろうか。

 確かに、まともな人間なら一人殺しただけでも罪悪感に押し潰されるだろう。

 ましてや楸矢達と小夜の両親、そして楸矢達の祖父。楸矢の知る限りでは五人だが、楸矢と柊矢の父はクレーイス・エコーだったから殺したと言っていた。

 楸矢達の両親が十八年前に死んでから楸矢達がクレーイス・エコーになるまで十二年近く間が空いている。

 その十二年間クレーイス・エコーが不在だったとは思えないし、一度は沙陽がクレーイス・エコーになったのに外された後また六年空いている。

 ムーシケーの意志が分からない者は朝子に殺されない代わりにムーシケーがすぐに外して次の者を選んでいた。

 つまり、もし意志の分かる者が選ばれていたとしたらその人達も朝子の手にかかったということだ。

 以前の柊矢と沙陽とのり取りでクレーイスが祖父の遺品だと知り、小夜に渡した理由を訊ねたら、遺品の中で見つけたもののしばらく忘れていたのが小夜と出会った後、部屋に落ちているのを見つけたから気休めにお守りだと告げて渡したのだと言っていた。

 おそらく柊矢は沙陽と別れた後、一旦選定者から外れたのだ。

 その後、柊矢と小夜が出会ったから再度柊矢が選定者に戻ったのだろう。

 一体何人の命を奪ったのかは分からないが、それだけ多くの人の命を奪ったことが全て無意味だったとなればまともな人間なら一生罪悪感で苦しみ続けるだろう。

 けれど人の心の中は誰にも分からない。

 朝子が罪の意識で両親がいなかった寂しさ以上のつらさを味わうことになるなら溜飲は下がるが実際のところ苦しんでいるかどうかは楸矢には知りようがない。

 そもそも普通の神経なら恨むのは呪詛した相手であってムーシケーやムーシカのせいだなんて思わない。

 朝子がこの先、人を殺したことを後悔もせず、のうのうと生きていくのだとしたら楸矢や小夜だけがつらい思いをしたということになる。

 そんなの不公平だ。

 そして、それなのに何の仕返しも出来ない自分の無力さにも悔しくて腹が立つ。

 親戚達から拒絶され両親を奪われ顔も見たことがない。

 小夜や自分がこんな目に遭うのは理不尽だ。

 小夜も自分もこんなことをされなければならないようなことはしていない。

 ずっと羨ましかった。

 授業参観も体育祭も文化祭もコンクールも、楸矢には見に来てくれる親はいなかった。

 それでも親がいないのは自分だけではないからと必死で言い聞かせて納得しようとしてきた。

 事故だった。不可抗力だ。仕方なかったのだと。

 だからこそ、彼女が自分の親を殺したりしなければ、あんな思いしなくてすんだのだと思うと尚更なおさら悔しくてたまらなかった。

 なのに、どうして……。

 楸矢は無力感にさいなまれて拳をきつく握りしめた。

 皆、黙って立ち尽くしていた。崖に打ち寄せる波と風の音だけが聞こえていた。

 楸矢は誰にともなく、

「その人はどうするの?」

 と訊ねた。

 誰も答えないので小夜を見ると困ったような表情を浮かべた。

 小夜の方は楸矢のような怒りには駆られていないようだ。

 そういえば、ムーシコスらしいムーシコスってパートナー以外はどうでもいいんだっけ……。

 両親の死を悲しみはしても殺した相手を恨んだり怒りをぶつけたりというようなことはしない、というか思いもしないのだろう。

 小夜の、生来せいらいの温和で優しい性格にムーシコス特有の大事なのはパートナーだけという特性が加わって、例え両親を殺した相手でも強く憎むほどの感情は持てないのかもしれない。

 そういえば柊兄も父さん達が殺されたって聞いても顔色一つ変えないで小夜ちゃんの心配してるし。

 別に楸矢より小夜を優先するのは構わない。

 例え恋人ではなかったとしても、自分より年下で兄弟すらいない天涯孤独の少女を差し置いて自分を気遣われても小夜に申し訳ない気持ちになるだけだ。

 もしかしたら、ムーシコスってあんまり人の死を悲しんだりしないのかな。

 パートナー以外はどうでもいいし、パートナーが死んだら自分も一緒に死んでしまうのだから悲しむ悲しまない以前の問題だ。

 ちょっとだけ、ムーシコスらしさの強い柊兄や小夜ちゃんが羨ましいかも。

「あ!」

 榎矢が突然叫んだ。

 振り返ると、背後の海が白く半透明に凍り付き水平線の上に大きな青い天体が現れていた。

 これは旋律で凍り付いているムーシケーの海だ。

 そして水平線の上に浮かんでいるのは、

「グラフェー」

 誰かが呟いた。

 ムーサの森同様ムーシケーが見せているのだ。

 ムーサの森ではなく、何もない海が現れたのはその上に浮かぶグラフェーを示すためだ。

「やっぱり、朝子さんはグラフェーの人間の末裔まつえいでもあったのか」

 椿矢が呟くように言った。

 グラフェーも接近してきた大きな隕石に気付いて大急ぎでグラフェーの者達を地球に送っていたのだ。

 おそらくムーシコスとグラフェーの人間の血が混ざったことで両者の血を引く朝子や朝子の父はムーシカが〝見えた〟のだ。

 小夜はグラフェーを見上げた。

 グラフェーはまだ意識がない。

 ムーシケーが惑星ほし全体を旋律で凍り付かせて地上の者達を保護したように、グラフェーも自分の大地の者達を全力で護ったから深い眠りについてしまっているのかもしれない。

 衝突の衝撃で温度四千度にも達する灼熱の岩石蒸気が惑星の表面を覆ったのだ。

 それだけの衝撃を受けながら、巨大な隕石が気化して出来た高温の熱風から地上の者達を庇ったのだとしたら力を使い果たして意識を失ったとしても不思議はない。

 ムーシケーが無事だったのは大きな衝突がなく、旋律を凍り付かせただけですんだからだろう。

〝見る〟能力ちからはムーシケーではなくグラフェーのものだから本来ならグラフェーに任せるべきなのだろうが今は何も出来ない。

 そのときクレーイスからムーシケーのムーシカが伝わってきた。

 ムーシコスというのはムーシケーと魂を共有している者のことだが、今のムーシコスは地球人の血が流れているから魂には地球人の部分もあるし朝子にはグラフェーの人間の魂も交ざっている。

 ムーシケーの魂を切り離してしまえばムーシカは聴こえなくなる。

 朝子の共感覚はムーシカと視角が結びついているからムーシカが聴こえなくなれば見ることも無くなる。

 大事な人を失った記憶は消えない。

 ムーシカに対する恨みもムーシケーへの憎しみも。

 だがムーシコスでなくなれば、もうムーシカは使えない。

 何も出来ないまま亡くした人の面影を抱いて生きていくのだ。

 小夜は柊矢にクレーイスを渡し、柊矢が楸矢に渡した。

 楸矢はてのひらの上のクレーイスを見て少しの間躊躇ためらっていた。

 これが朝子に対するムーシケーのばつなのかゆるしなのか楸矢には分からない。

 どちらにしろ楸矢の納得がいく結果ではない。

 けれど、これはムーシケーの意志で、自分はクレーイス・エコーだ。

 こんなことで自分の気はすまないが他に出来ることはないのだから逆らったところで意味はない。

 どうせ自分は柊矢のおまけだ。

 楸矢は自嘲の笑みを浮かべてクレーイスを小夜に返すと演奏を始めた。

 小夜が演奏に合わせて歌う。

 椿矢と榎矢、それに朝子は黙って聴いていた。

 朝子は身構えているようだった。

 朝子はムーシケーに逆らい、小夜は従った。

 ムーシケーが自分に従う小夜に何をさせるつもりかたもとを分かってしまった朝子には読めないのだろう。

 分からないのは椿矢も同じだったが、クレーイスを受け取ったときの楸矢の表情からして恐らく大した事ではないだろう。

 もしかしたら罰ですらないのかもしれない。

 小夜は復讐を望まなかったし、ムーシケーはその小夜と考えをいつにしている。

 小夜なら思い遣りのある措置そちを望むだろうし、小夜と考えが同じなら厳罰のはずがない。

 だが、それは楸矢にとっては納得いかないだろう。

 楸矢のためにもせめて処罰くらいは厳しくしてやって欲しかったが、それは小夜には無理なのも承知している。

 楸矢にとって今回のことがどんなに理不尽であろうとそれを受け入れるしかないのだ。

 不意に朝子が目を見開いた。

 小夜が歌い終える頃、朝子は、

「グラフェーが、消えた……」

 と呟いた。

 小夜達にはまだムーシケーの海もグラフェーも見えていたが朝子の瞳に映っているのは地球の海だけらしい。

 グラフェーの人間でもあるのにグラフェーまで見えなくなったのはムーシケーが見せている光景だからだ。

 ムーシケーとの繋がりが断ち切られた時点でムーシケーの光景が見えなくなったのだ。

 無くなったのは呪詛のムーシカだけで嵐や強風のムーシカは依然として存在しているがムーシコスではなくなった朝子が歌っても効力は発生しない。

 もうムーシカの力は使えないのだ。

 ムーシケーの処分を朝子がどう思ったのかは分からない。彼女は黙って踵を返すと歩き出した。

「一つ教えてくれ」

 不意に柊矢が朝子に声をかけた。

 朝子が背を向けたまま立ち止まった。

「俺達の親を殺したのはクレーイス・エコーになってムーシケーの意志を知ったからだと言ったな」

「……だったらなんなの?」

「あんたがクレーイス・エコーになったのは十八年前だろ。だとしたら小夜のお母さんが子供の頃に遭った事故とは関係ないのか?」

 楸矢と椿矢がハッとした。

 小夜の母親が養子に出されたのは霧生兄弟の祖父から警告されたからだ。

「子供の頃の事故?」

 朝子は背を向けたままだったが声が怪訝そうだった。

「……クレーイス・エコーになる前のことは知らないわ」

「そうか」

 小夜の母親が子供の頃、事故に遭ったのは恐らく偶然だったのだ。

 朝子の姿が闇に消えると、柊矢は、

「俺達も帰るぞ」

 と言って小夜の肩を抱くとレンタカーが止まっている方へと向かって歩き出した。

 だが楸矢はその場に立ち尽くしていた。

「楸矢君……」

 椿矢が楸矢の方を向いた。

「気持ちがおさまらない?」

「……だって、俺の親や祖父ちゃん殺しておいておとがめなし? そりゃ、消されたくなかった呪詛を消されたのは悔しいだろうけど、家族を殺された俺よりつらい思いをしてるとは思えない」

「……ムーシコスはパートナー以外はどうでもいいって言ったけど、全てのムーシコスが両想いになれるわけじゃないよ。片想いや失恋のムーシカもいっぱいある。まぁ、片想いの相手をパートナーとは言わないけど」

 楸矢は椿矢の言わんとしていることが分からず見つめ返した。

「多分、亡くなったお義兄にいさんってパートナーか、片想いの相手のどっちかだよ」

「……パートナーが死ぬと一緒に死んじゃうんでしょ。片想いだったって事?」

「どっちだったのかは知りようがないけど、パートナーだったとしたら、おそらく地球人かグラフェーの人間の血のせいで引っ張られずにとどまっちゃったんだと思う」

 片想いの可能性もある。

 朝子が養女になったのは小学生の時だから義兄は彼女を義妹いもうととしか見てなくて他の人がパートナーになったのかもしれない。

「ただ、パートナーにしろ、片想いにしろ、ムーシコスは相手に対する想いが強い分、失ったときのつらさは地球人の比じゃないよ」

 ムーシコスは他人が滅多に視界に入らないから目移りもしづらい。

 一度誰かを好きになったら心変わりをすることは稀なのだ。

 ムーシケーの意志が分かったのなら相当ムーシコスらしさが強いはずだし、だとすれば目に映る人間は少ない。

 朝子が独身を貫いてきたのもそのせいだろう。別の人を愛することも出来ず、自分に好意を寄せている人がいたとしても気付くことがなかったから独り身のままだったのだ。

 互いに視界に入る人間が少ないから大抵は両想いになるが稀に三角関係などであぶれる場合がある。

 そうなっても簡単に他の人間に乗り換えることが出来ないから叶わぬ想いを抱えて一人で生きていくことが多い。

 案外、最初に呪詛を作ってしまったのはそんなムーシコスの一人だったのかもしれない。

「彼女はムーシコスではなくなったけど、それで想いが薄れるわけじゃないから、この先一生お義父にいさんを想って苦しみ続けなきゃならない。怒りをぶつける矛先や手段を奪われたまま、ね」

 ムーシカを見ることも聴くことも出来なくなったのなら義兄あにを呪詛した者を突き止める手段も失ったという事だ。

「……もし、それが本当で、物凄くつらいとしても、俺には分からない」

「そうだね。君に彼女の苦しみを知るすべはないし、彼女も君や小夜ちゃんがどれだけつらい思いをしてきたか知らない。心の傷は目に見えないから他人ひとの痛みを理解するのは難しいんだよ」

「……あんた、ムーシコスなのに感情が分かるみたいなこと言うんだね」

 楸矢の言葉に椿矢は苦笑した。

「ムーシコスにだって感情はあるよ。それに、言ったでしょ。柊矢君ほどのムーシコスは珍しいって。柊矢君以外のムーシコスは地球人と大差ないよ」

「……小夜ちゃんも、ご両親のこと、そんなに悲しんだり怒ったりしてないみたいだった……」

「小夜ちゃんはムーシコスだからじゃなくて、元々人を恨んだり憎んだりするような性格じゃないからでしょ。それに小夜ちゃん、人前では泣くの我慢しちゃうって言ってなかった?」

 椿矢の言葉に、あっ!と思った。

 悲しんでるように見えなかったのは他人ひとに心配させないように無理をするからだ。

 自分の気持ちで頭がいっぱいで、そこまで気が回らなかった。

 あれだけ人に気を遣う小夜が自分達の前で取り乱して心配させるような真似をするはずがない。

 部屋で一人になるまでこらえているだけだ。

 柊矢は分かっていたから早く帰ろうとしているのだろう。

 小夜が泣けるように。


「おい! 早くしろ!」

 柊矢の声が聞こえてきた。

「行こうか」

 椿矢が優しく声をかけると楸矢は頷いてから榎矢の方を見た。

「あんた、帰る手段あんの?」

「タクシー待たせてある」

 楸矢は頷くと椿矢と共に歩きだした。

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