第七章 Takuru-冬-
第七章
男が星空の下で歌っていた。
男は一人だった。時々後ろに視線を向けるが誰もいない。
男はキタリステースだし、アトは地球人だから肉声が届くところにいてくれないと彼の歌声は聴こえない。
男の演奏に合わせてムーシコスの歌声が聴こえる。ムーシコスには彼の演奏が聴こえるのだ。だが一番聴いて欲しい人が
男が捜していたのは自分と同じように歌声が聴こえる人間のはずだった。
けれど今は聴こえなくてもいいからアトに
彼女と一緒に
やはり自分には父にとっての母のような存在を見つけることは出来ないのだろうか。
男は寂しさを紛らわすようにムーシカにあわせて竪琴を弾いた。
男の近くから別の気配を感じる。
なんだろう……。
最近、どこかでこれと同じ感じがしたような……。
「ごめん、待った?」
椿矢は先に来ていた楸矢に謝った。
「俺も今来たとこ」
「それで、用って?」
「うん……」
楸矢は一瞬口ごもった。
「俺、本気で将来のこと考えたいんだけど、どうすればいいか分からなくてさ。
「いいけど……、本気で考えたいってことは何かはっきりした目標が出来たってこと?」
「家族を養えるようになりたい。だから、大学諦めて就職した方がよさそうならそう言って。大学出てない人なんていっぱいいるんだし、問題ないよね? ただその場合、どうやって仕事を見つければいいのか分かんないんだけど、どうすればいいの?」
「うーん……」
椿矢は考え込んだ。
真面目に働く気さえあれば何をしてでも食べていけるし家族も養える。あとは、どの程度の生活水準を望むかだ。
楸矢は学費や諸経費が恐ろしく高い私立高校から大学へ進学して、バイトをしてなくても小遣いに困ることもなく、防音設備が整っている音楽室があるような一戸建ての持ち家に住んでいる。しかも場所は都心の住宅地だ。
正直かなりいい暮らしをしている。
そのレベルを維持したいなら相当な収入が必要になる。
高卒でそれだけの収入を得るにはかなりの才覚が必要だ。
楸矢の場合それはフルートということになるだろうが、それだけの収入が得られるほどの音楽家となると、かなり
仮に有名になれたとしても基本的に音楽家の主な収入源は公演だろうから、しょっちゅう国内外で演奏することになって常に家を空けることになるのではないだろうか。
それでは楸矢が憧れるような家庭生活は無理だろう。
何より楸矢の思い
「聞いてもいい?」
「何?」
「前にも同じこと言ってたけど、改めて真剣にそう思うようになったのはどうして?」
「前に付き合いたい子いるって言ったじゃん」
「うん」
「さすがに付き合ってもいないうちから結婚考えてるわけじゃないよ。そもそも付き合ってもらえるかどうかもまだ分かんないんだし。ただ、昨日その子と話してて、もし付き合うようになって、いずれ結婚――別にその子とは限らないけど――ってなったとき、ちゃんと家族のこと養っていけるのかなって不安になっちゃったんだよね」
柊矢と小夜のデートのお膳立てをすると言っていたが、楸矢の方も目当ての子とデートしてたのか。まぁ、内気な小夜にデートをさせようと思ったらダブルデートの方が構えずにすむだろう。
「彼女、早稲田受けようと思ってるらしいんだ。早稲田ってすごく難しいんだよね? でも、話した感じだとそんな必死にならなくても入れそうな感じでさ、だとしたら相当成績いいって事だよね?」
その子の成績を知らないし学部にもよるが小夜と同じ高校と聞いている。
小夜の高校は都立の上位校だから、よほど勉強をサボって遊んでるか入試当日に調子を崩したとかでもない限り問題ないだろう。
「早稲田出たら、きっといいとこ就職できるよね。どう考えたって高い給料もらえるところで働くだろうなって思ったら、なんかすっげぇ焦っちゃってさ」
なるほど。
小夜の高校はかなり偏差値が高い。二百校以上ある都立高校の上位十位以内に入っている。国立や私立を含めても東京に数百校ある高校の中で五十位以内だ。
一般入試なら受験しさえすれば全員が受かる楸矢の高校では勝負にならない。
まぁ、楸矢の高校は音楽科だから一般入試の偏差値に意味はないが。
普通科と音楽科では土俵が違うから単純な比較は無理だが、目に見える数値で結果が予測出来る普通科と比べて音楽科は将来どう転ぶか読めない。
世界的に有名な音楽家になれる可能性もあるだろうが、下手をしたらバイトをしながら延々と、どこかの楽団の空席待ちという状況も十分有り得る。
しかもフルート奏者は数が多いから空席が出来ても激戦らしい。当然要求されるレベルも高い。
「別に今時、共働きが嫌なわけじゃないよ。俺だって七年も柊兄と二人暮らしだったんだから家事は一通り出来るし、奥さんとの分担も二人で協力し合ってるって感じでいいなって思うし。それに小夜ちゃんが俺の夢、一通り叶えてくれたし」
「夢?」
「家に帰ると笑顔でお帰りなさいって言って、おやつ出してくれて、朝ご飯や夕ご飯作ってくれて、お昼はお弁当作ってくれて。初めて小夜ちゃんが作ってくれたお弁当見たとき、すっげぇ感動した。こういうお弁当が食べたかったんだって。盛り付けとか綺麗でホント完璧で、しかも美味しくて。ずっと友達の弁当とか見て羨ましかったんだよね」
高三だったから学校に行かない日も多かったが、そういうときでも小夜はちゃんとお昼を用意していってくれた。毎日おやつを作ってくれて料理のリクエストも聞いてくれる。
「さっき探してた本、掃除中にソファの下で見つけましたよ」
と渡してくれたり、ボタンが取れたのを付けてくれたり、裾のほつれを
柊矢はイスかテーブル扱いの楸矢の頼みはなかなか聞いてくれないが、そういうとき小夜が肩を持ってくれた。柊矢は小夜のお願いなら小夜の安全に関わること以外は無条件で叶えてくれるからイスかテーブル同然の楸矢の頼みのような
「きっと
「…………」
「そういう憧れは小夜ちゃんのおかげで経験出来たから、別に奥さんがフルタイムで働いて俺が家事をするのも構わないんだけど、でも、奥さんの方が稼ぎが多いって言うのはやっぱ抵抗あるって言うか……、やっぱ自分が養いたいじゃん。奥さんの給料は頼りたくないって言うか……」
小夜が理想の母親なら柊矢は理想の父親だろう。
楸矢のことはイスかテーブル扱いとはいえ柊矢は経済的には家族に何不自由ない暮らしをさせている。
楸矢を学費の高い私立の高校や大学へ何も言わずに通わせ、祖父から相続したものとは言え都心の一戸建て住宅と自家用車を維持し、借金もなければ税金の滞納もないようだ。成績のことで叱ることはあっても金のことでは一切文句を言わない。フルートの練習で時間がなかったとはいえ、バイトをしたことがないのに小遣いにも困ってない。
その上で赤の他人の小夜を引き取っても生活に影響が出ないだけのゆとりがある。
学費などは遺産から出してるらしいが食費などの生活費は受け取ってないと言っていた。小夜を引き取った後、仕事の量が増えた様子はないようだし楸矢に私立の医学部へ行っても大丈夫と言ったらしいから元から扶養家族が一人や二人増えたところで困らないくらいの余裕があったのだろう。それは祖母の遺産を金額すら聞かずにその場で蹴ったという話からも容易に想像が付く。しかも弁護士に放棄の書類まで作成させたと言っていた。弁護士なんて雨宮家や霍田家ですら雇ってない。
金銭的な見返りがないからと小夜を引き取るのを拒んだ親戚のことを話すとき柊矢は不愉快そうだったと言っていたが、なんの援助や見返りもなく子供を引き取って養育出来る余裕のある家は少ない。
いくら祖父の仕事を
柊矢がこれだけ完璧に家族を養っているのだから楸矢がなりたい父親像は柊矢だろう。少なくとも経済面では。
もっとも霧生家が経済的に余裕があるのは三人揃ってムーシコスだから必要最低限の出費で
娯楽は金のかからないムーシカ(と地球の音楽の演奏)だけだし、親戚もなく――雨宮家は親戚だが大伯母の代に縁を切っている――、柊矢は会社に勤めているわけでもないし友人が
楸矢がサラリーマンになって地球人と結婚したら出費の多さに驚くかもしれない。
愛情面に関しては自分が妻子を大事にすればいいだけだ。小夜に対する配慮の仕方を見る限り家族への対応は問題ないだろう。
正直、楸矢の思い描く家庭像は古いというか古典的だが、両親がいなかったのだから価値観が祖父の世代――昭和――のものなのだろう。
「音大に行くのがどうしても嫌って訳じゃないんだよね」
「うん。ただ、普通の仕事に
「だったらこのまま音大出るのが一番確実だよ。語学頑張れば他の科目が少々悪くても、それなりのところに就職出来ると思う。最低三カ国語出来るって言うのはかなり有利だし、四カ国語出来たら下手な三流大学出るよりよっぽど
勉強の苦手な楸矢が今から一、二年受験勉強を頑張ってなんとか入れる三流大学より、音大で四カ国語をマスターした方が
以前、楸矢のカリキュラム表を見せてもらったが音大で履修出来る語学はどれも椿矢が修得しているものばかりだし一般科目も教養課程の科目ならなんとかなるからレポートなどは椿矢が見てやれば問題ないだろう。試験は本人が頑張るしかないが。
「そっかぁ」
楸矢が考え込むように腕を組んだ。一般科目、特に語学がなんとかなりそうか考えているのだろう。
「そういえば、彼女と別れられたの?」
「あ、言うの忘れてた。ごめん」
楸矢は聖子と別れたときの話をした。
「円満に別れられたなら良かったね」
「でも、俺と付き合ってなければ聖子さん、もう誰かと結婚してたかもしれないんだと思うと、ちょっと悪かったなって」
「さすがに最初から結婚目的で付き合ってたわけじゃないでしょ。それに誰でもいいから早く結婚したいって思ってたなら高校生とは付き合ってないよ」
「それならいいんだけど」
楸矢は申し訳なく思っているようだが、自らの意志で高校生と付き合っていたのだからその結果結婚が遅くなったとしてもそれは自業自得だし、最初から結婚目的で高校生の楸矢と付き合ってたなら、それはそれで普通ではないから別れて正解だ。
別れ話で冷静に謝罪と礼を言えるのも、なかなか出来ることではない。それで大人しく引き下がったのだから相手も一応まともな人だったようだ。
「それはともかく、昨日は残念だったね」
「え?」
「柊矢君と小夜ちゃんのデートのお膳立て、失敗しちゃったでしょ」
「ああ」
楸矢は前日のことを話した。
「清美ちゃん――あ、小夜ちゃんの友達――がさ、小夜ちゃんデートしたそうだし、テーマパークも行きたそうだけど、お金がかかるところは遠慮しちゃうだろうから、最初はお金のかからないところから段階的に慣らしていけばいいって言ってたんだけどさ」
昨日のように金のかからない場所はともかく、テーマパークのように金のかかるところに慣れるようになるまでは遠慮が先に立つだろうし、それ以外のことにも色々気を遣うだろう。
「あれに乗ってみたいけど柊兄は嫌じゃないかなとか、行列が長いから長時間並ばせることになっちゃうから
小夜が人に気を遣いすぎるくらいだとは聞いていたが、そこまでとは思わなかった。
「清美ちゃんは慣れれば平気って言ってたけど、それって慣れるまでは楽しくないってことでしょ。しかも、慣れればいいけど、もしかしたら一生慣れないかもしれないんだし。柊兄はムーシカ大好きだから、家でムーシカ奏でるなら気を遣う必要ないし、小夜ちゃん自身も歌うの好きだからさ。頭ではデートに憧れてても、実際行くとなると精神的な負担が大きいから、結局二人でムーシカ奏でてるのが一番楽しいってなっちゃうんじゃない?」
椿矢は感心とも驚きともつかない表情で聞いていた。
「柊兄、それ分かってたのか知らないけど、いつもなら五月に頼んでるピアノの
「どういうこと?」
「春休みは小夜ちゃんと毎日、一日中一緒にいられるって楽しみにしてたらしいんだ」
ヴァイオリンだけでは飽き足らず、小夜のためにピアノまで
ムーシコスは
とはいえ多少は地球の音楽も演奏すると言ってもホントにムーシカだけで満足してしまっているムーシコスのカップルを見たのは初めてだ。
榎矢はしょっちゅう沙陽を映画に誘っては断られて仕方なく同じ大学の女の子と観に行っている。沙陽は音大の声楽科を出たんだから声楽のコンサートなら承諾してもらえるかもしれないのにバカなヤツと思って見ているが榎矢は地球の音楽のことは知らないからよく分からないのだろう。椿矢もそれを教えてやるほど親切ではない。
沙陽にしても大学時代からパーティ
だが榎矢にしろ沙陽にしろ映画やパーティを楽しんでいる。少なくともムーシカを歌ってる時間より他の娯楽の時間の方が遥かに長い。というか沙陽はムーシコスに
椿矢も半分は研究のためとはいえ読書が好きだから本を読んでいる時間はかなり長い。暇さえあればムーシカを歌っているというわけではない。
楸矢は柊矢が小夜のためにしょっちゅうセレナーデを弾いていると言っていたが、小夜の歌声とキタラの音はよく聴こえてるから実際にはそれほど多いわけではない。
他の娯楽に目もくれずにひたすらムーシカを奏で続けている柊矢と小夜。
椿矢の周囲にここまでのムーシコスは一人もいなかった。
本当にシーラカンスなんだな……。
ムーシコスの一族がどうのと寝言をほざいてる連中にあの二人を見せて、あれが本物のムーシコスだと言ってやりたい。
「前に小夜ちゃんが、ムーシコスは
確かにその通りだ。とはいえ地球にいるムーシコスの中で本当にムーシカだけで満足出来てしまうのは恐らく柊矢と小夜だけだと思うが。
「ところで僕も教えて欲しいことがあるんだけど」
「何?」
「君のお父さん、何年生まれ?」
「え……? えーっと……確か、父さんの一歳の誕生日に、親子三人で完成したばかりの超高層ビルのレストランに行ったって聞いたけど。初めて出来た超高層ビルってなんだっけ、えっと……」
開業が七十一年だからそのとき一歳なら七十年生まれだ。
「ありがと」
椿矢は自分の家の門の前で溜息を
家を出たときは二度と戻らないと決めていた。
縁を切ったつもりだった。
研究職に
とにかく一日も早く家を出たかった。
つまらない
それなのに、その
夢を叶えてくれた、か……。
もしかしたら柊矢君を失う以上に小夜ちゃんを亡くしたときの衝撃の方が大きいかもしれないな。
椿矢の両親は今でも健在だしムーシコスの家系がどうのという碌でもない
楸矢の言っていた小夜が叶えてくれた憧れは、どれもこれも椿矢や榎矢が当たり前のように
柊矢の小言ですら言われるのは嫌だとしても、反面、親に叱られるというのはこういう感じなのかという思いはあるかもしれない。
椿矢に両親を知らずに育った楸矢や小夜の気持ちを理解してやることは出来ない。ましてや名前の由来どころか親の写真すら見たことのない小夜の心情は想像も付かない。
その点では親に感謝すべきなのだろう。家系だ血筋だと言う
生まれてすぐに両親を亡くし、それ以前に祖母も出ていってしまって女親を知らなかった楸矢にとって小夜は憧れていた理想の母親そのものだったのだ。
おそらく甘えたり
楸矢の存在を意識するようになって成績などのことで叱るようになった柊矢は厳しい父親みたいなものだろうし、その父親から庇ってくれる小夜は思い
厳格な父親と優しい母親。小夜が来たことで子供の頃から夢見ていた理想の家庭をようやく経験出来たのだ。
だが楸矢は両親を疑似体験出来たが小夜にそれをさせてくれる相手はいない。柊矢とは年が離れているといっても親子というほどではないから、どれだけ柊矢が甘やかそうと「お父さんみたい」とは思わないはずだ。父親に似てるところがあれば別だろうが、小夜はおそらく父親の事は何も覚えてないだろう。
小夜の両親の事故の記録の中に両親の画像もあったが、父親の方は運転免許証の写真らしく、しかつめらしい顔で映っていた。柊矢と似通った点はない。母親の方はスマホの普及前だったから多分ガラケーで撮ったものを借りてきたのだろう。解像度が低くどんな顔だったのかはっきりとは分からなかった。
残ってる写真があれだけなんて……。
この上、小夜とそれに引きずられた柊矢まで
だが一人で残された楸矢はそれどころでは
霧生兄弟の父親の生まれた年から考えて物心ついた頃というのは沢口の知り合いが亡くなった時期と一致している。
この前の小夜に対する呪詛の半世紀近く前だったことと考え合わせると、呪詛の依頼と小夜に対する呪詛が別人なのは確かだ。だが関係ないとは言い切れない。
霧生兄弟の従妹が狙われたのはノートが霧生兄弟の手に渡るのを阻止するためだ。
楸矢が従妹を始めとした祖母の新しい家族は
ムーシコスは他人に興味を示さないし群れたりもしないのだが、他のムーシコスを見つけると
いくら他人に無関心とは言っても地球人の中で疎外感を
従妹の両親(霧生兄弟の叔父叔母)がノートを見せる――というか祖母の死を知らせる――のに反対したのは遺産の取り分を減らしたくなかったからのようだがムーシコスは金に執着しない。かなり地球人に近いムーシコスでさえ金や物に
地球人の一家だから狙われた理由はノートだけだろうし、それはもう霧生兄弟の手に渡ってしまったのだからこれ以上、従妹が狙われることはないはずだ。ノートは返却したと言っていたが、祖母の手元にあった半世紀近くの間は何もなかったのだから今後もないだろう。仮に何かあったとしても向こうから縁を切ったのだから知ったことではない。
だがノートのせいで狙われたのなら今でも呪詛の依頼の件は終わっていないということになる。
そういえば今回、霧生兄弟が狙われたという話は聞いてない。以前の帰還派のことは別件だし、両親と祖父は殺されたのは確かなようだが今度の件では小夜だけだ。
椿矢が霧生兄弟の従妹の事故を調べてみるとすぐに記事が見つかった。
楸矢の従妹の交通事故も居眠り運転だった。ただ、一瞬、意識を失ったもののすぐに気が付いてブレーキを踏んでハンドルを切ったから従妹はケガですんだ。
従妹が事故に遭ったのは榎矢が叔父に頼まれた書類を椿矢に届けた日で時間もその頃だった。つまり小夜が学校で呪詛払いのムーシカを歌ったときだから楸矢の手にノートが渡らないようにするために従妹を狙ったのは間違いないだろう。だが小夜が呪詛払いのムーシカを歌ったために従妹の暗殺は失敗した。
椿矢はノートの呪詛の依頼者が来たときの記述を思い出そうとした。
しかし訪ねてきた男を追い返した、以上のことは書いてなかったはずだ。
それ以外で重要そうなものといえばリストくらいだ。歌詞はムーシコスなら、そういうものがあるという事さえ分かれば後は望むだけで知ることが出来るから紙に書いてあるものを見る必要はない。だがリストに名前がある者のほとんどが
小夜との関係にしてもリストに他界した小夜の祖父の名前があっただけだ。それとも自分に分からなかっただけで他に小夜と繋がりのある人物の名前があったのか?
分かるとしたら……柊矢君か。
「兄さん? こんなとこで何してんの?」
背後から榎矢の声が聞こえてきた。
「こんなとこって自分ちでしょ」
椿矢は榎矢に言い返した。
「入んないの?」
「今から入るよ」
椿矢は足を踏み出しかけて、
「今日、父さんいる?」
と訊ねた。
父に会いに来たのだから
「いるよ。依頼人が打合せに来るんだって」
「そ」
小夜を助ける
椿矢は覚悟を決めると門の中に足を踏み入れた。
両親はダイニングにいた。テーブルの上の湯飲みは普段使いのものだ。依頼人はまだ来てないらしい。
「なんだ、最近よく帰ってくるな」
大学の助手になって給料をもらうようになるとすぐに家を出て、その後は帰ってなかったから、ここのところ何度も顔を出しているが意外なのだろう。
椿矢は子供の頃から家族を始めとした一族の人間に対して軽蔑を
特に祖父に対してはバカにした態度を隠そうともしなかったために仲は険悪だった。
「ちょっとね。父さん、沢口さんのこと、よく知ってた?」
「いや、あの人は
「
「何かのきっかけでお互いムーシコスだと分かって、それ以来、話し相手になってたらしい。沢口さんは周りにムーシコスがほとんどいなくて他には相談が出来なかったそうでな」
「沢口さんの娘さんは? 朝子さん、だったよね?」
「あの人は……ムーシコスが好きじゃなかったから、うちにも滅多に来なかったんで、よくは知らんな」
椿矢や榎矢によそよそしかったのは子供嫌いなのではなくムーシコスが嫌いだったからなのか。
「彼女だってムーシコスでしょ。それなのに嫌ってたの?」
「うん……」
父は一瞬、
「あの人は……、ちょっと、おかしなところがあってな」
と言った。
「どこが?」
「ムーシカが聴こえてくると、よく目を押さえていた」
「目? 耳じゃなくて?」
ムーシカは耳で聴いているわけではないが、それでも音として認識されているから聴きたくないと思ったら普通は耳を
そのとき不意に祖父の日記にあった記述を思い出した。
「父さん、ありがと」
椿矢はそう言うと蔵へ向かった。
蔵の中から祖父の日記を取りだして開くとページをめくった。
ここだ。
『彼はムーシカが「見える」などと言っている……』
共感覚とは刺激を受けたとき本来の感覚とは別の感覚も生じる現象で、匂いに形を感じたり音に味を感じたりするものである。
おそらく沢口の知り合いは共感覚でムーシカが〝見えた〟のだ。
共感覚は神経経路が分化していく過程で未分化の部分が残ることで生じる現象といわれていて、どの感覚とどの感覚が結びつくかは人によって異なる。だから沢口の知り合いがムーシカの何(言葉か声か音か)と、視角の何(色か形かそれ以外か)が結びついて、どう見えていたのかは分からない。
それに霧生兄弟の祖母のノートには夫が音楽
ムーシカは音が届かない場所にいても聴こえる。つまりムーシコスは離れた場所にいる者に届く〝何か〟を発しているのではないだろうか。キタリステースの演奏が専用の楽器でなければ聴こえないのも他のムーシコスにキタリステースが発している〝何か〟を届かせる
普通の音や地球人の声には他の感覚が結びついてなかったから地球人の中では普通に暮らせたのだろう。
問題は沢口朝子もムーシカが〝見えた〟らしいということだ。
共感覚は遺伝ではないはずだ。遺伝性のものではないのに親子揃って共感覚になるのかとも思うが二十三人に一人は共感覚の持ち主とも言われているから、それほど珍しくないのかもしれない。
ただ共感覚は人によって結びつく感覚が違う。親子で共感覚だったとしても成長の段階で神経が未分化で残ることで起こる現象だとしたら、どこが分化しないままになるかは違うはずだ。遺伝とは関係がないのに同じ感覚に結びつくのはかなり稀な気がするが音に色が結びつくのは〝
ムーシカが〝見える〟か……。
グラフェーは絵画や彫刻の惑星だからグラフェーの人間なら、ムーシコスが地球人には聴こえない
もし、あのときグラフェーもグラフェーの者達を地球に送っていたとしたら……。
いや、グラフェーのことはとりあえずおいておこう。
ムーシカが〝見えた〟と言うよりムーシコスの声に含まれている〝何か〟が見えたのだとしたら、あれだけ多数のムーシコスを捜し出せたのも納得がいく。
それにムーシコスが見つけられたのにムーソポイオスが分からなかった理由も。
ムーソポイオスもキタリステースも声に含まれてるもの自体は同じで他のムーシコスに届かせるための方法が違うだけだとしたら見えても区別は付かなかったのだろう。
声でムーシコスだということは分かってもムーソポイオスなのかキタリステースなのかまでは判別出来なかったから沢口にムーソポイオスを教えてほしいと頼んだのではないだろうか。
リストにあった椿矢の知り合いは小夜同様、他人の呪詛が聴こえるほどの
あのリストに雨宮家と霍田家の者の名前は無かった。
仮に沢口の知り合いに見えたのが
特に雨宮家の者はクレーイス・エコーに選ばれていたのは
それにムーシコスとしての自信を粉々に砕かれて打ちひしがれてる姿を見るのは愉快だろうが、両家の連中には関わりたくはないし反応を見るためだけにわざわざ会いに行くなんて
まぁ、榎矢は用もないのに会いに来ては突っかかってくるから、そのときスマホに撮ったリストを見せて教えてやれば相当な
榎矢が落ち込んでいるところを見て
そうすれば榎矢は両親に報告するはずだし、次に来たときにそれを聞いたときの親のリアクションを話すだろう。一番反応を知りたかったのは祖父だが
まぁ、祖父は自分がクレーイス・エコーから外されたと気付いた時点でエベレストより高かったプライドは粉々になって太平洋プレートの下まで沈み込んだはずだからそれで良しとするしかない。
出来れば面と向かって大笑いしてやりたかったが、それが出来ないのは残念だ。墓の前で笑ってやってもいいのだが墓参りになど行く気はないから仏壇の前でせせら
それはともかく、朝子の父親が亡くなったとき彼女はまだ子供だったから呪詛には関わってなかったとしても話を聞いていた可能性は高い。小学生の頃のことなら覚えているだろう。
朝子を引き取った沢口は呪詛の存在も朝子の父親の共感覚のことも知らなかったのだから呪詛の依頼のことなど知っていたはずがない。そもそも知っていたら祖父にムーシコスを捜す理由を訊ねたりしないだろう。何より沢口は既に亡くなっているから先日の小夜の呪詛は無理だ。
となると呪詛の依頼を知っていたのは朝子と霧生兄弟の祖父だけのはずだ。
沢口の知り合いが他の人間に話した可能性もなくはないが、地球人は聞いたところで頭がおかしいと思うだけだし、ムーシコスのことは邪悪だと思っていたのだから仲間にしようとは考えないだろう。仮にムーシコスの誰かが仲間に誘われたとしても、ムーシコスを無差別に排除しようと考えてるなら標的を全員殺し終えたら次に狙われるのは自分だという事くらい察するはずだ。
そういえば最近、朝子を見かけたのは新宿三丁目の辺りだ。小夜の学校の近くでもある。
朝子を見かけたのはいつだった?
あの頃、小夜に異変はなかっただろうか?
念の為、次に会ったとき楸矢君に確認しておこう。
椿矢は祖父の遺品を探し始めた。
朝子の住所を知るためだ。
祖父の住所録にあった沢口の住所は控えたが、沢口はもう亡くなっているから違う家に住んでいた可能性も考えて手紙の類も調べた。
椿矢の祖父は沢口と親しくしていて彼の養女だった朝子も
一通り調べて朝子の連絡先を控えた後
「ごめん、確定申告の時期は忙しいって楸矢君から聞いてたんだけど……」
椿矢は席に座りながら柊矢に謝った。
二人は新宿駅の近くの喫茶店にいた。
「確定申告は昨日終わったから構わない。この前、小夜を助けるのに協力してもらったしな」
「歌ったのは僕だけじゃないよ。それより、確定申告終わったってことは時間の余裕あるって思っていいの?」
「そうだな、小夜の迎えに行くまで一時間くらいならある」
柊矢が時計を見ながら言った。
小夜ちゃん助けるのに協力しても迎えの方が優先なんだ……。
椿矢は特に親しいわけではないから気にならないが、弟に対してもこうだとしたら楸矢には
「……なるべく一時間で済ませるよ」
椿矢はスマホを取り出すとリストを撮った画像を表示して柊矢に渡した。
「そのリストの中に小夜ちゃんと関係がある人いる? 小夜ちゃんのお祖父さん以外でってことだけど」
柊矢はスマホのリストに目を通し始めた。
「これがあの封筒に入ってたリストか?」
「うん。僕の知り合いの名前もあったから調べてみたくて写させてもらったんだ」
「……楸矢が言ってた通り、祖父さんの字じゃないな」
口調や表情は変わらなかったが、それでも小夜の祖父の名前がある呪詛のリストの字が祖父のものではないことに安堵してるのは明らかだった。リストの字が祖父の
「小夜のお祖父さん以外は見たことない名前ばかりだ。なんで半世紀も前のこんなリストと小夜に関係があると思ったんだ? 小夜の両親すら生まれてなかった頃だぞ」
「関係があるかどうか僕には分からないから君に聞いたんだよ。楸矢君から、君が後見人になるとき小夜ちゃんのこと調べたって聞いたから見覚えのある名前がないかと思って。楸矢君から小夜ちゃんが呪詛払いのムーシカ歌った話は聞いてる?」
「楸矢からは聴いてないが、小夜から学校でムーシカを歌った理由は聞いた。事故の時と同じムーシカが聴こえたから打ち消したかったそうだ」
椿矢はそのときの呪詛が柊矢達の従妹を狙ったものらしいと話した。
「記事には意識を失ったけど、すぐに気が付いてハンドル切ったって書いてあったし、日付は小夜ちゃんが呪詛払いした日だったから、多分ノートに挟まってた封筒を君達に渡したくなかったんだよ」
ノートには呪詛絡みのことは書いてなかった。だとしたら渡したくなかったのは封筒の方ということになる。
「呪詛の歌詞を書いた紙はムーシコスなら意味がないって事くらい分かるでしょ。あとは、リストくらいだから……」
封筒を渡したくなかったのだとしたら半世紀前の呪詛の依頼の件と霧生兄弟か小夜に何らかの繋がりがあるということだ。
「楸矢は封筒の中に入ってた紙にムーシカの歌詞が書いてあったから、あんたに見せたって言ってたが、ノートも見せたんだな」
これだけの会話でノートも見たって気付いたのか。
椿矢は柊矢の洞察力に舌を巻いた。
ノートにはムーシカのことは
「君に断りもなく見ちゃってごめん」
椿矢が悪びれた様子もなく謝った。
柊矢は気にしてないというように肩を
「楸矢が読めないって言ってあんたに泣きついたんだろ。お祖父さんと暮らしてた小夜ならともかく、楸矢は崩し字が読めなくてもおかしくないからな。読まれて困るようなことは書いてなかったし構わない」
おそらく楸矢のことをよく見てるから分かったのではなく、状況から推測して当りを付けたのだろう。
これだけ鋭い相手だと楸矢君もやりにくいだろうな。
隠し事は出来ないだろうし嘘もすぐにバレるに違いない。
以前はともかく最近は叱るようになったって言ってたし。
「しかし、小夜のお祖父さんを殺したのは沙陽だぞ。ムーシケーに帰るのに邪魔な小夜が狙われて巻き添えになったんだろ」
「
椿矢の言葉に柊矢がそんなことくらいで、という表情で眉を
「考えてることは分かるけど、
柊矢が頷いた。
椿矢は沢口の知り合いの話をした。
「楸矢君から聞いたけど、君達のお父さん、七十年に生まれたんだって? だとしたら物心ついたのは七十年代前半だよね。その知り合いが亡くなったのがその頃なんだよね。彼が呪詛の依頼をした人で、亡くなったから計画が実行されなかったと考えれば、リストに載ってる人の大半が最近まで生きてたか、今でも生きてることの説明がつくんだよ」
その言葉に柊矢が黙り込んだ。
「何か気になることでも?」
「その人の娘が小学生だったって事はそれほど年は取ってなかったんだよな。それがいきなり亡くなったのは……」
おそらく柊矢が
「君、お祖父さんの日記、楸矢君に渡す前に目を通したよね」
柊矢は自分の興味があることにしか関心がないとはいえバカではない。見られたらマズいことが書いてあるかもしれないものを確認もせずに他人に渡したりはしないだろう。
柊矢には被後見人が二人もいるし、男で、もう高校も卒業している楸矢はともかく、小夜は高校を卒業するまでまだ二年もあるのだ。
祖父のしたことで柊矢が刑務所行きになったりすることはないが後見人から外されてしまう可能性はある。万が一、後見人がいなくなってしまったりしたら小夜は福祉施設に入れられてしまうかもしれない。
覚えてない可能性が高いとはいえ小夜は福祉施設に入れられたときのことが心の傷になっているのだ。また入れられたりしたら更に深く傷付くことは十分考えられる。小夜をそんな目に遭わせるような危険を冒すわけがない。
柊矢は黙って頷いた。
「なら、お祖父さんが相当警戒してたことに気付いたよね。呪詛の依頼をしてきた人を殺したならそんな用心する必要ないでしょ。あそこまで細心の注意を払ってムーシコスだってこと隠して、幼い君達がうっかり〝歌〟の話をしても不審に思われないように物心ついた頃から楽器を習わせて、お祖母さんにも他言しないように頼んで。危険な人物を消してたなら、そこまで注意を払ったりしてなかったよ。それに、小夜ちゃんのお祖父さんに警告だってする必要なかったでしょ」
柊矢は納得した様子を見せた。
柊矢にヴァイオリンを習わせることにしたとき、祖父が父になんと言って説得したか書いて無かったことにも気付いていたのだろう。書かなかった理由も。
柊矢君が相手だと話が早く進むなぁ。
ムーシコスはバカばかりだと思っていたのだが、ムーシコスだから頭が悪いのではなく雨宮家と霍田家の人間が
血筋だ家系だなんて
今度一族の誰かが家系がどうのと言いだしたら
「それで、あの封筒を俺達に見せたくなかったとして、小夜との関わりは? お祖父さんの名前があったって言うだけか?」
「小夜ちゃんが関係あるかは分からない。けど、あのノートか封筒を君達に見せたくなかったって事はあの依頼の件で、まだ何かあるんじゃないかと思うんだよね。お祖父さん以外で小夜ちゃんと繋がりがあるとしても僕には分からないし。ないならそれでいいんだ。ないって事は小夜ちゃんが呪詛されたことと、ノートの件は関係ないって事だし」
「待て、全然よくないだろ。関係あるならリストから関係者を辿れるが、なかったら小夜を狙ったヤツを捜しようがないってことだろ」
「…………」
ホントに切れるな。
「なんだ」
「……こっちも手詰まりだから僕が知ってること全部話すよ。君もお祖父さんの書いたものには目を通したみたいだし、小夜ちゃんのことも調べたんでしょ。お互いの情報突き合わせれば何か分かるかもしれない」
「うちの資料なんて戦後のものだけだぞ。今の家を建てたのは戦後だし、戦前のものは空襲で全部焼けて残ってないからな。それに日記を見たなら分かるだろうが、ムーシコスのことについてはかなり周到に隠してたから何も分からないと思うぞ」
「依頼があったのは七十年代なんだから戦後のものだけで十分だよ。うちの祖父様や親戚達の日記を読んだ限りじゃ組織的なものじゃなくて、沢口さんの知り合いが一人でやったことみたいだし」
椿矢はそう言って、自分が調べたことを話した。
「共感覚か……」
「知ってるの?」
「大学時代に一人いた。俺の演奏聴いた後、俺だけ他のヤツと色が違うと言われた。そのときは意味が分からなかったんだが、後で他のヤツからそいつは色聴だって聞かされた」
「ムーシコスの演奏だったから他の人とは違って見えたのかもしれないね」
もっとも楸矢の話では柊矢は抜きん出た才能の持ち主だったらしいから、それで色が違っていたという可能性もあるが。
「しかし、ムーシコスが邪悪って言うのがよく分からんな。邪悪って言うなら呪詛を依頼した本人が一番邪悪だろ」
「うん、リストに名前があった僕の知り合いも他人の呪詛が聴こえたけど、僕の知る限りその人自身はムーシカを悪用したりはしてなかったんだよね」
普通のムーシカを奏でているだけなら害はないから邪悪だなどと考える要素がない。
そのとき柊矢のスマホのアラームが鳴った。
「あ、迎えの時間?」
「今日は用が出来たって伝えて楸矢に代わりに行かせる」
柊矢はそう言ってメッセージを打ち始めた。
「いいの?」
「おそらく、事故みたいな物理的な事からはムーシケーが護ってくれるだろうし、ムーシカが伝わってきたら口笛で吹くからあんたが歌ってくれ」
喫茶店で歌うのはかなりハードルが高いが、柊矢が演奏しなければならないのは小夜に何かあったときだから恥ずかしいなどとは言っていられない。
「ノートを渡すのを邪魔しようとしたのは沢口って人の養女で間違いないのか?」
「確認のしようがないからなんとも言えないけど、沢口さんは呪詛の存在を知らなかったんだから当然、呪詛の依頼も知らなかったでしょ。どっちにしろ何年も前に亡くなってるから今回の件とは関係ないし。他に知ってそうなのは朝子さんだけだから」
「今頃になってって言うのが謎だけどな」
「ノートに関してだけなら君達に見せようとしなければ呪詛してまで邪魔したりはしなかったと思うよ」
「呪詛で邪魔しようとしたことでまだ継続中だって事が表面化したって事か。だが、リストに名前があった人達は特に被害には遭ってないんだろ。だったら、何が続いていたって言うんだ?」
椿矢は黙り込んだ。
「情報を突き合わせるために全部出すんじゃないのか?」
「リストに載ってる人を消すっていう計画は沢口さんの知り合いが亡くなったときに終わったんだと思う。リストを渡したくなかった理由は分からないけど」
「ムーシカの歌詞とリスト以外に封筒の中に何かあったのか?」
「入ってたのはそれだけだよ。そうじゃなくて……、君、ご両親やお祖父さんが亡くなったときの事故は調べた?」
「あれはただの……」
居眠り運転と言いかけて口をつぐんだ。数日前の小夜や従妹の事故も表向きは居眠り運転だった事を思い出したのだろう。
「お祖父さんの時、君達兄弟はムーサの森に飛ばされたんでしょ」
「じゃあ、父さん達も祖父さんも事故じゃなかったって事か? なんで、うちの家族が狙われるんだ? 第一、狙ってる相手に呪詛を依頼したりするか?」
「君達のご両親はもしかしたらクレーイス・エコーだったのかもしれない」
「あんたの祖父さんが外されたのは十八年前なんだろ。うちの両親の事故も十八年前だぞ」
「楸矢君、名前からして秋に生まれたんじゃない? 祖父様が外されたのは六月だよ」
「それなら事故の方が後だが……。父さんか母さんがクレーイスを持ってたかどうかは思い出せないな」
霧生兄弟の父親もムーシコスだったからクレーイス・エコーに選ばれてもおかしくない。
「うちの祖父さんもクレーイス・エコーだったから遺品にクレーイスがあったのか?」
「事故の時、森に飛ばされて助かったのは君達兄弟でしょ。そのときのクレーイス・エコーは多分、君達だよ。
「つまり、祖父さんは巻き添えか……」
霧生兄弟の祖父の事故は柊矢の人生を大きく変えた事件だと思うのだが、柊矢の表情を見る限り特に思うところはないようだ。
楸矢の言う通り本当にヴァイオリニストを目指していたわけではないらしい。だから、あの事故さえなければと恨んだり悔しがったりしないのだろう。
両親や育ての親である祖父が殺されたらしいと聞かされて眉一つ動かさないのもどうかとは思うが。
これがムーシケーのいた頃のムーシコスの姿だとしたら、ホントにシーラカンスそのものだな。
椿矢は小夜について自分の推理を話した。
「多分だけど、今回小夜ちゃんを狙ってるのは十四年前の事故を起こした犯人じゃないかな。ムーシケーが隠すのやめてようやく小夜ちゃんを見つけられたんだと思う。仮に君達のご両親がクレーイス・エコーだったとして、小夜ちゃんとの繋がりは分からないけど。君んちと小夜ちゃんちって何か関係あった?」
「いや、何も」
全く何もなかったから後見人になるのに色々手を回す必要があって苦労したらしい。小夜の親戚に金を払って委任してもらえば楽だったのだが、一度でも金を渡したらその後も何かと無心されそうな気がしたので他の手段を使ったとのことだった。金目当てで小夜に近付いてこないように、自分や小夜の連絡先を教えなかっただけではなく、居場所を簡単に突き止められないようにもしたそうだ。
楸矢でさえイスかテーブル同然なのだから小夜に関係してるとはいえ、たった一度会っただけの他人など床みたいなものだろう。それでもそこまで読めるなら他人に関心があれば名探偵になれたかもしれない。まぁ、普通の人間からしたら、なんでもかんでも見透かしてくる相手とは関わりたくないだろうが。
楸矢君、イスかテーブル扱いでラッキーだったんじゃ……。
「小夜のお母さんがクレーイス・エコーだったってことは?」
「それだと、小夜ちゃんだけ助けてお母さん助けなかったことの説明がつかないよ」
柊矢が考え込むような表情でリストに目を落とした。接点のある人物がいたかどうか記憶を辿っているのだろう。
「そういえば、小夜ちゃん、帰還派のやらかしの後で狙われたのは交通事故に遭いかけたときと、この前の呪詛だけ?」
「俺が知ってるのはそれだけだな。小夜一人の時にあったことは心配掛けないように、俺には言わない可能性があるから断言は出来ないが、小夜の友達に楸矢に気がある子がいるから何かあれば楸矢に教えるだろう」
「君達兄弟は特に危険な目には遭ってないよね?」
椿矢は楸矢からは何も聞いていない。
「俺は特にないな。楸矢は知らんが」
聞いてないじゃなくて知らない、か。
多分、今日帰っても楸矢君に聞いたりしないんだろうな……。
楸矢に対する態度の一端が垣間見えた気がした。確かにこれはイスかテーブルだ。
これでも以前よりは意識が向いてきているというのだから地球人的要素の方が強い楸矢にはキツいだろう。
地球人にとって家族は特別な存在だし、関心を示さなかったとしても冷たかったわけではないようだから、こういう性格の兄でも楸矢にとっては大切な相手だ。
柊矢は自分のスマホを手に取った。
「リストのコピーをもらえるか。こっちでも調べてみる」
椿矢がデータを送ると柊矢は立ち上がった。
「一つ聞いてもいい?」
「なんだ」
「なんで
弟でさえイスかテーブル扱いの人間がよく沙陽の存在に気付いたな、と思ったのだ。
「あいつに付き合って欲しいって言われたんだ」
声楽のコンクールを聴きに行ったとき印象に残っていた相手だったから承諾した。
「付き合ってみたら面倒くさい女で後悔したがな」
音楽以外に興味がない柊矢からしたら、それ以外――デートなど――を要求してくる沙陽は面倒以外の何物でもなかったのだろう。
交際相手でもイスかテーブル扱いなのは同じか……。
ムーシコスにとって人間はパートナーとそれ以外の二種類しかいないがここまで露骨なのも珍しい。
そして〝それ以外〟扱いだった沙陽はパートナーとは思われていなかったということだ。それでよく一時的にでもクレーイス・エコーになれたものだが。
確かデートすっぽかしたことがあるとか言ってたっけ。
それでも交際を承諾したのは沙陽がムーソポイオスだったからだろう。当時はそうと知らなかったとしてもコンクールで歌声を聴いて無意識に気付いたのかもしれない。とはいえムーソポイオスなら誰でもいいわけではないからパートナーにはなれなかったのだ。
楽しそうに喋っている楸矢と清美の後ろを小夜が歩いていた。
柊矢から急用が出来たから楸矢を行かせるというメッセージが来たので清美を夕食に招待していいか訊ねたら構わないという返事だったので誘ったのだ。
「楸矢さん、香奈の親戚の家、海の側だって知ってました?」
清美が楸矢と並んで歩きながら言った。
「へぇ、そうなんだ。でも、海水浴はまだ無理だよね」
「海水浴は夏になったら行きましょうよ」
「いいね」
「海水浴の前に水着買いに行きますから一緒に行きませんか? 楸矢さん、選んで下さいよ」
「いいよ。清美ちゃんの水着姿、楽しみだな~」
「やだ~。楸矢さん、変な妄想しないで下さいね~」
男の人に水着姿見せるなんて信じられない……。
二人の後ろを歩きながら話を聞いていた小夜は真っ赤になって俯いた。
しかし清美や楸矢が痛い痛いと文句を言っていた気持ちがよく分かった。確かに聞いてる方はいたたまれない。
でも、柊矢さんと私はこんなに痛い話してないと思うんだけど……。
小夜は溜息を
「そうだ。小夜、進路のこと、楸矢さんに話してみなよ」
「進路? 俺じゃ役に立たないよ。俺、音楽科のことしか分からないし」
「小夜の件はむしろ楸矢さんにしか分かりませんよ」
「小夜ちゃん、音大行きたいの?」
楸矢が振り返って訊ねた。
「いえ、そうじゃないんです」
小夜は首を振ってから清美を横目で睨んだ。
居候が申し訳ないから出ていきたいなんて言ったって楸矢さんは遠慮する必要ないって言うだけなのに。
「じゃ、どこ行きたいの?」
「それは……まだ決めてなくて……」
小夜の答えに楸矢が清美の方を向いた。
「いつまでも居候してるのは申し訳ないから、出ていくためにはどこの大学に行ったらいいかで悩んでるんだそうです」
清美が答えた途端、楸矢が笑い始めた。
「清美! なんで楸矢さんまで笑うんですか!」
「まで?」
「あたしも笑っちゃったんで」
清美の言葉に楸矢がまた笑い出した。
「だから、なんで笑うんですか!」
「小夜ちゃんさぁ、お医者さんとか先生とかなりたいものがあるなら柊兄は反対しないよ。多分ね。自衛官とか警察官みたいな危険な仕事は許してくれないだろうけど。でも、なりたいものがないなら就職先は柊兄一択でしょ」
「え、柊矢さんのお仕事の手伝いって事ですか?」
「小夜、それ素で言ってる?」
清美が白い目で小夜を見た。
小夜が困ったように清美を見た後、楸矢に目を向けた。
「まぁ、それはいずれ柊兄から直接話があるはずだから。今んとこは志望校ないなら早稲田にしとけば? 近いから通うの楽だし小夜ちゃんなら入れるでしょ」
「けど、柊矢さんのお仕事手伝うにしても家は出ないと」
「無理無理」
楸矢が手を振った。
「でも……」
「柊兄が小夜ちゃんから離れるとかあり得ないから。もし、うち出てくなら柊兄が
楸矢が笑いながら言った。
「…………」
もしかして、柊矢さんのところに就職って……。
小夜が真っ赤になって俯いた。
どうしよう、確かめたいけど勘違いだったら恥ずかしいし……。
頭を悩ませ始めた小夜をよそに、楸矢と清美はテーマパークの話で盛り上がり始めた。
夕食後、柊矢は自室で祖父の住所録を見ていた。
楸矢と清美が痛い話で盛り上がってて小夜が困ってるから、本来なら音楽室でヴァイオリンかピアノでも弾いてやりたいところだが、小夜が狙われている件を解決するまではセレナーデどころではない。
椿矢が日記の類を見たがっていると聞いたとき、呪詛のムーシカについて知りたいらしいと言っていたし、他人の個人情報が書かれている住所録を見せるのはどうかと思って渡さなかったのだ。
住所録にはリストに書かれていた名前が(小夜の祖父以外)全員載っていたがインクの色が
ムーシコスやムーシカのことを周到に隠していた祖父が
名前や住所が書き込まれた後は特に訂正など情報が追加された形跡はないから恐らく連絡を取り続けたりはしていなかったのだ。何人かインクの色が微妙に違う者がいたので検索してみると架空の住所だった。おそらく見つけることが出来なかったのだろう。空欄のままにしておくと怪しまれるから適当な住所を書いたのだ。
小夜の祖父の名前や住所がないのは同じ新宿区内だからだろう。霧生家の所有物件は西新宿にいくつかあるし、そのうちの一件は小夜の家のすぐ近くだったから面識があったのかもしれない。そうでなくても霞乃という名字は珍しいから通りかかったときに見かけて覚えていたのだろう。ムーシコスだと知っていたかどうかは分からないが。名前は知っていたが特に交流があったわけではないから警告をした後はお互い意識的に接触を避けていたに違いない。
小夜の祖父の住所録は焼失してしまったから柊矢の祖父の名前が載っていたかどうかは分からない。
祖父の住所録に小夜の母親の養子先や結婚後の名字と同じ名前はなかった。
小夜の祖父も娘の養子先を周到に隠していたから意図的に連絡を絶っていた柊矢の祖父が知らないのは当然だろう。
小夜に呪詛との関わりなどあって欲しくはないからリストに小夜に関係のある人物の名前がなかったのは喜ぶべきなのだろうが、もしノートの一件と小夜が狙われたことが無関係だとすると小夜を狙っている人物を辿りようがない。
椿矢も雨宮家は一切関与してないため資料が全くなくて調べがつかないから柊矢に話すことにしたと言っていた。
事故のような物理的なものはムーシケーがなんとかしてくれるのかもしれないが、この前のように呪詛を受けたら?
柊矢も楸矢もキタリステースだ。
万が一、二人とも楽器を弾けないときにムーシケーがムーシカを伝えてきたら?
楽器ならなんでもいいわけではない上にキタリステース用の楽器は古楽器だから近くの楽器店に飛び込んでもまず置いてない。
かといってキタラを持ち歩くのは無理だし呪詛に備えて常に家にいることも出来ない。家では無理な仕事もあるし柊矢が働かなければ生活が立ち
そういえば、椿矢にムーシケーがムーシカを伝えてきたら口笛を吹くから歌ってくれと頼んだが、呼び出しのムーシカと同じ要領で椿矢に向けて口笛を吹けば椿矢が察して歌ってくれるだろうか。
そもそも歌わなければ効力が発揮されないのに
三人ともムーソポイオスを選んでおけば誰か一人に何かあっても他の二人が歌えるのに。
小夜をクレーイス・エコーに選んだのはムーシケーだと思っていたのだが、椿矢はムーシケーが選ぶのは
小夜がクレーイス・エコーになったのはムーサの森が現れたときだと思うのだが
だからこそムーシケーが選んだと思っていたのだ。クレーイス・エコーに選ばれたことを伝えるためにムーサの森が現れたのだと(当時はムーシケーだのクレーイス・エコーだのと言うことは知らなかったが)。
一応、初めてまともに会話をしたのがあの日だが、それは森を見た後だ。
その夜、小夜の家が火事になった。
……あれはクレーイス・エコーになったから現れたのではなく小夜の危険を知らせるためだったのだろうか。
そういえば……。
椿矢はムーシカを奏でる以外でムーシコスを見分ける唯一の方法がムーサの森に気付くことだと言っていた。
ムーサの森は、どこにいても聴こえるムーシカと違ってあまり離れた場所からでは見えないが半径一キロ程度の距離なら間に障害物があっても見える。
近くにいるムーシコスに森に気付いたところを見られたらムーシコスだとバレる。だから姿を現さなかったのではないかと言っていた。
だが柊矢と楸矢は子供の頃から度々あの森を見ていた。
同じ新宿区内に住んでいたのだから柊矢達に見えていたとき気付いてなかったのは変だ。森はいつも超高層ビルの辺りに出ていたが、その辺は霧生家より霞乃家の方が遥かに近い。
小夜にだけ見えないようにしていたのか……。
触ることが出来るとはいってもムーサの森は実体ではない。実体なら地球人にも見えるが実際はムーシコスの目にしか映らない。
もし椿矢の言う通り、柊矢が小夜を守れると判断したのだとしたら手元に楽器がなくても何か手段があるはずだ。
ただ、ムーシケーの意思はかなり分かりづらい。
小夜ですら、よく分からなくて困惑しているくらいなのに柊矢や楸矢に正確な意図が掴めるかどうか……。
実際、あのときムーサの森が小夜の危険を知らせるために出てきたのだとしたら
そのときノックの音が聞こえた。
「なんだ」
「柊矢さん、まだお仕事中ですか?」
小夜の声に立ち上がってドアに向かった。部屋のすぐ外に小夜が立っていた。
「清美ちゃんが帰るのか?」
「清美が帰ったので、お時間あるなら歌いませんか?」
以前は柊矢が音楽室で小夜を待っているか、小夜が歌い始めると柊矢や楸矢が音楽室へ行っていて誘うのはいつも柊矢や楸矢の方からだったが、最近は小夜の方からも柊矢に声を掛けてくるようになった。少なくともムーシカを奏でることに関しては遠慮がなくなってきたのだろう。
出来ればこの調子で他のことも遠慮しなくなってくれるといいのだが。
「帰った? 送ってくって言っておいただろ」
「楸矢さんが送っていきました」
「そうか」
清美は柊矢より楸矢に送ってもらう方が嬉しいだろう。
「なら、音楽室に行こう」
「はい」
小夜が嬉しそうに頷いた。
音楽室でキタラを手に取った柊矢は小夜に疑問をぶつけてみた。
「お前が初めて歌ったのはいつだ?」
「え?」
質問の意図を図りかねた小夜が首を
「初めて会ったとき、超高層ビルの
柊矢が管理している不動産は西新宿にいくつかあるからあの辺りにはよく行く。もし昔から小夜が西新宿の辺りで歌っていたならもっと早く出会っていたはずだ。
「柊矢さんと初めて会う何日か前です」
「その前にムーシカを歌ったことは?」
「ありません。ダメって言われてたのと、抵抗あったので」
「歌うのがダメ? 抵抗って言うのはどういう意味だ? 聴こえるって言うのを禁止されてたんだろ」
「聴こえるって言うのもですけど、歌うのも絶対ダメだって。学校の音楽の授業以外では絶対歌うなって言われてたんです」
「抵抗って言うのは?」
「自分でもはっきりとは……。ただ、なんとなく怖くて……」
小夜は呪詛が聴こえる。両親が亡くなった時も聴こえていて、それで事故が起きたと薄々勘付いていたなら無意識にムーシカが怖くなっても不思議はないかもしれない。
「なら……」
「だんだん怖くなくなってきたんです。あの辺を歩きながら聴いてると、なんだか気分が軽くなってきて……。それで、あそこなら人通りが少ないし見通しがいいから人が見えたらすぐやめられるし、歌ってるところを見られなければお祖父ちゃんにもバレないんじゃないかと思って」
おそらく恐怖心だけではなくムーシケーが歌いたい衝動を抑え込んでいたのだろう。
椿矢が小夜はムーシケーとの共感力が強いようだと言っていた。だから小夜の口を使って歌うことが出来たのだろうと。だとすれば衝動を抑えることも出来るだろう。
ムーシコスの大半は、例えクレーイス・エコーであろうとムーシケーの意志が分からないくらいだから直接働きかけるのは無理なようだが小夜にはある程度干渉出来るようだ。
抑えるのをやめたのは
あの辺で歌っていれば遠からず柊矢が気付いてやってくると分かっていたからか?
帰還派が動き出していたからムーシケーを溶かされる前に
柊矢なら小夜を選ぶと思ったのだろうか。
実際、選んだのだからそう考えていたとしたら予想は的中したことになる。
「どうしたんですか、急に」
「いや、なんでもない」
柊矢はそう言うとキタラを奏で始めた。
楸矢が清美と並んで歩いていると小夜の歌声とキタラの音が聴こえてきた。
そういえば、清美ちゃんが一緒だったから夕食前に歌えなかったんだっけ。
お互いの熱い想いを語り合っているデュエットを聴かされても清美と一緒なら平気だ。
柊矢と小夜がデートをしないなら自分が出掛ければいいのだ。
「清美ちゃんはテーマパーク、嫌じゃないんだよね?」
「もちろん、大好きです!」
「じゃあ、旅行から帰ったら一緒に行こうよ」
「はい! 喜んで!」
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