第四章 アトボシ

第四章 アトボシ


 男性が歌っているムーシカの歌詞は昔の日本語のようだがはっきりとした意味は分からない。ただラブソングらしいと言うことは伝わってくる感情から理解できた。

 ムーシカを歌い終えた男性が夜空に一際明るく輝く青白い星を指差した。

「あの星、俺の故郷では、アトボシって呼んでた。あんたと同じ名前だな」

「本当?」

 隣の女性――アト――が疑っているような面白がっているような声で言った。

「信じないのか?」

「だって、今も女の人の声やがくなんか聴こえなかった」

「そうか……。綺麗な声となんだけどな……」

「いいなぁ。聴いてみたいな」

「俺も聴かせてやりたい。ホントに綺麗だから」

「あたしも聴こえて、歌えたら良かったのに」

「ああ、どこにいても、アトの歌声が聴こえれば帰ってこられるな」

 男性は空を見上げた。

「ま、聴こえないから、あの〝アト〟を目印にするしかないけどな」

「あの星、夏は見えないでしょ」

「そうだな。遭難するなら冬じゃないとダメだな」

 男性はそう言って笑った。


 放課後、小夜は帰り支度をしながら耳を澄ませてみたが椿矢の歌声は聴こえてこなかった。

 最近はよく中央公園にいたとはいえ元々そうしょっちゅう来ていたわけではない。

 そもそも二十代半ばなら働いているはずだ。

 そうそう平日に公園で歌っている時間はないだろう。

 ムーシコスの一族で、しかも代々クレーイス・エコーに選ばれていた家系の椿矢がムーシケーに意志があるなんて誰も知らなかったというのだからこれ以上聞いても迷惑なだけだ。

 椿矢以上に詳しい人を小夜は知らないし、そうなると自分でなんとかするしかない。

 一瞬、香奈に従兄の写真を自分のスマホに送ってもらおうかと考えた。

 柊矢や楸矢にクレーイスを持ってもらって写真を見せればムーシカが聴こえるかもしれないし、そうすれば何か分かるかもしれない。

 けれど写真のコピーが欲しいなどと言ったらやはり従兄に紹介してもらいたいんだと誤解されかねない。

 例え柊矢と付き合ってなかったとしても知らない男の人と会わされるなんて冗談ではない。

 どうせ今日は柊矢に旅行に行っていいか聞かなくてはならない。

 もし香奈の親戚の家が何か関係しているなら柊矢の返事によってはクレーイスが反応するだろう。

 何もなければ柊矢に行きたくないと言って香奈に断る口実を今夜考えよう。

 小夜は鞄を持つと玄関へ向かった。


 次々に校門から出てくる生徒達を見ている者がいた。

 その瞳に映っている小夜の姿は白く半透明な姿をしていた。


「あ、豚ロースの薄切り、安いからほとんど残ってませんね」

 小夜は豚ロースのパックを手に取って言った。

「そもそも、今日は肉自体が少ないんじゃないか」

「そうですね。でも、お魚もあんまり残ってないですね」

 小夜は売り場を見回しながら言った。

「向かいの店に行くか?」

「いえ、三パックありますからお肉で野菜を巻いたお料理を作ります。バラ肉も一パック買って野菜の中にお肉を混ぜれば食べでがあると思います。後は、卵が安いのに結構沢山残ってますから、卵を多めに買ってサヤエンドウの卵とじと、フライドポテトを作れば物足りないってことはないと思います」

 そう言ったとき筍が目に止まった。

 今日は肉が少なめだし、ご飯を筍や旬の野菜を使った炊き込みご飯にすれば食べ応えはあるだろう。

 だが野菜の肉巻きを作るのにキャベツを丸ごと買うから筍も、となると相当重くなる。

「筍はこれでいいのか?」

 小夜の視線に気付いた柊矢が筍を手に取った。

「筍まで買ったらかなり重くなりますよ」

「お前には重いだろうが俺や楸矢にとってはそうじゃない」

 楸矢はこの前の筍ご飯をかなり喜んでいたし、柊矢も言葉に出してはいなかったが気に入ってくれたようだった。

 好きなら旬の美味しいうちに食べておいた方がいいだろう。

 清美の言う通りだ。

 柊矢が一緒でなければ今日の夕食に炊き込みご飯は作れなかった。

 荷物を持ってもらえるおかげで柊矢も楸矢も炊き込みご飯を思う存分食べられるのだ。

 小夜はそれに気付かせてくれた清美に感謝した。

 材料持ってもらうんだからお料理は腕によりを掛けてうんと美味しく作らなきゃ。

 小夜は筍を選び始めた。


 椿矢が楸矢と待ち合わせている喫茶店に向かって新宿通りを歩いていると、車道の向こう側に沢口朝子という知り合いの女性が見えた。

 彼女もムーシコスだ。

 知り合いと言っても彼女は椿矢の父より年上だから六十近い。

 彼女の父親と椿矢の祖父の間に交流があったから何度か会ったことがあるという程度だ。

 親戚ではないから顔を合わせたのは沢口が彼女を伴って雨宮家を訪れてきたときくらいだった。

 彼女は子供が嫌いだったのか椿矢や榎矢にはいつもよそよそしかったから挨拶くらいしかしたことがない。

 沢口が亡くなってからは訪ねてくることもなくなったので何年も会ってなかった。

 大通りを挟んでいる上にお互い人混みの中を歩いているせいか彼女の方は椿矢に気付いてないようだ。

 彼女のことは苦手だったので気付かなかったことにして、そのまま店に向かった。


「聞いてくれた?」

 楸矢は席に着くなり椿矢に訊ねた。

「ごめん、まだ。お互い社会人だからね。なかなか機会なくて……」

「それもそっか。……てか、あんた社会人なんだ」

「なんだと思ってたの?」

 椿矢が笑いながら訊ねた。

「……大道芸人? しょっちゅう外で歌ってるし」

 楸矢の答えに椿矢が楽しそうに笑った。

「一応名目上は大学の助手ってことになってる」

「一応? 名目上? ホントはウルトラマンかなんか? あんたも異星人だし」

「いや、実際は研究者」

「じゃ、なんで一応とか名目上とか言ってんの?」

「人に話せない研究してるから研究者って名乗るわけにはいかなくて、助手として働いてるって言ってるんだ」

「まさか、惑星破壊兵器でも作ってるとか……」

 楸矢がった。

「いや、ムーシケーの研究」

 椿矢が苦笑しながら答えた。

「なんだ」

 椿矢が肩透かしを食らったような表情を浮かべた。

 確かにムーシケーの研究をしてるなんて地球人には話せない。

「でも、助手ってそんなに暇なの? 仕事しながら研究したり外で歌ったり」

「ムーシケーの研究って、向こうに住んでた頃のムーシカ探して、翻訳して歌詞の内容からどんなところだったのかとか、どういう生活してたかとかを調べることでしょ」

 地球なら遺跡などの発掘調査も出来るがムーシケーではそうもいかない。

 そもそも遺跡があるのかという問題もあるが。

 さすがに数千年となると口頭での伝承も残ってない。

 残っているのはムーシカだけだ。

 幸いムーシカは創られたときのままの状態で魂に刻まれて変化することがない。

「大学でやってるのは古代ギリシアの文献史学の研究補助だから結構ムーシカの研究に役に立ってるよ。文献に載ってない単語はムーシケーにいた頃に使われていた言葉の可能性があるからね」

 ムーシケーで使われていた言葉が古典ギリシア語なのはほぼ間違いないから後は古典ギリシア語のムーシカを、ムーシケーにいた頃に創られたものと地球で創られたものにり分けて、ムーシケーで創られたムーシカを翻訳すればいい。

 とはいえ四千年も経つと言葉はかなり変わってしまうのでムーシケーの言葉なのか古代ギリシアの古語なのかの見極めはかなり難しい。

 その上で言葉の発音だけを頼りに元の意味を突き止めて翻訳するのは簡単ではない。

「ムーシケーで使ってた言葉が文献に載ってないって言い切れるの?」

「断言は出来ないけどムーシケーから来たのはおおよそ三、四千年前くらい、古代ギリシア文字が使われ始めたのは紀元前九世紀頃、千年も経ったら言葉はかなり変わるから」

「でも、文献に古代ギリシアの言葉が全部載ってるわけじゃないでしょ。古代ギリシアに広辞苑があったとは思えないし」

「その為にわざわざアメリカに留学したんだよ」

「古代ギリシアの研究するのにギリシアじゃなくてアメリカ行ったの?」

「アメリカ留学は比較言語学を学ぶためだよ」

 比較言語学というのは同系統と思われる比較的近い言語を比べて元の言葉――祖語そご――を再構さいこうしたりする学問でヨーロッパで発展した。

 しかし当のヨーロッパでは言葉は他の言語と混ざり合うことがあるのでこの方法は成立しないとされ印欧比較言語学はすたれてきた。

 だが日本語のように他言語と混ざり合う機会の少ない言語では比較言語学は有用なのでアメリカやロシアではアルタイ諸語の比較研究が続いている。

 だからアメリカに留学してアルタイ諸語の比較言語学を学んできたのだという。

「そこでなんで日本語が出てくるのかよく分かんないんだけど」

「単語同士を比較して元の言葉の意味を調べる方法が知りたかったんだよ。だから、言語はなんでも良かったけど、印欧比較言語学は研究してるところが少なくなってるからアルタイ諸語の比較研究を学びに行ったの。幸い日本人だから日本語習う必要ないし」

「アメリカで日本語の研究するってのも意味分かんない。日本語なら日本でいいじゃん」

「日本語に限らず、日本の源流を探る研究は第二次大戦の反動で日本ではやりづらいんだよね」

 意味が理解出来てない様子の楸矢に、椿矢は戦前の皇国史観や戦後のGHQのことなどを説明してくれた。

「それ、日本史で習う?」

「まぁ、日本の歴史だからね」

 椿矢が苦笑しながら答えた。

 本当に勉強が出来ないんだなと思っているのが表情に出ていたがバカにしているような嫌な印象は受けない。

 出来の悪い弟を微笑ほほえましく見ているという感じだ。

「あんたが教えてくれて良かった。ずっとGHQがなんなのかよく分かんなくてさ。柊兄に聞いたらまた叱られるところだったよ」

「GHQと何か関係あるの?」

 楸矢は自分の家がある住宅街はGHQに言われて作られたという話をした。

 ただその話を聞いてもGHQが何者で、どうして都の計画に口出ししてきたのかが分からなかったのだという。

「柊矢君って楸矢君のことイスかテーブルくらいにしか思ってないんだよね?」

「改めて人から言われるとすっげぇへこむけど、そう」

「ごめん。でも、それなのに怒るの?」

「眼中にはなくても頭はいいから成績とか居残りとかのこと、全部しっかり覚えてるんだよね。どうでもいいと思ってたから怒らなかったってだけで。前に、すっげぇ音楽の才能あったって言ったじゃん」

「うん」

「それなのに柊兄って勉強も出来たの。音大やめた数ヶ月後に、予備校にも行かずに夜間部とはいえ普通の大学にあっさり入れたくらい」

「ホントに予備校行ってないの? 楸矢君が知らなかっただけじゃなくて」

「不動産管理とか税金関係のセミナー行ってたから予備校に通う暇なかったみたい」

 つまり事務関係のことを学びながら並行して自力で受験勉強をしていたのだ。

「うちの高校から普通科の大学入るのすっげぇ大変なんだよ」

 椿矢もそれは楸矢の高校を改めて調べてみたから知っていた。

 楸矢の高校に限らず大抵の音楽大学付属高校というのは音大に進んで音楽家になるのが前提――全員がなれるわけではないにしても――の学校だから実技重視で一般科目の成績は参考程度にしか見ないらしい――普通科目の点数も良くないと入れない音大もあるらしいがそれは例外といっていい――。

 楸矢の高校も一般科目は申し訳程度なので他の大学へ進む生徒は滅多にいない。

 というか別の音大ならともかく普通科の大学へは相当猛勉強しないと入れない。

 授業では一般科目は碌に教えてないので大学入試以前に共通テストではじかれてしまうような点数しか取れないのだ。

 だから柊矢がどこに入ったのかは知らないが、まともに一般科目の授業をしていない高校を出たにも関わらず、予備校へも通わずにセンター試験を通って普通科の大学に受かったのだとしたら一般科目も学生時代から自発的に勉強していたということだから確かにかなり優秀だ。

「不公平じゃない? 兄弟ならなんで平等に分けてくれないの? 演奏さえ出来ればそれで良くて音楽家目指してないって言うなら音楽の才能は俺にくれるとか、でなきゃ、頭の良さは俺に譲ってくれるとかしてほしかったよ」

 楸矢のぼやきに椿矢が笑みを浮かべた。

「何?」

「弟ってみんなそういう風に考えるものなの?」

「そういや、あんたも兄貴だったね。もしかして、あんたんちも賢兄愚弟けんけいぐていくち?」

 楸矢はジト目で椿矢を見た。

「僕は賢兄じゃないけど、榎矢かやはバカでしょ。でなきゃ帰還派なんかになるわけないし」

 椿矢がバッサリと切り捨てた。

「あいつ、何かっていうと僕と張り合ってくるんだよね。僕はムーシケーの研究がしたくて、それに役立ちそうな科目が履修出来る大学選んだだけなのに、そこより偏差値の高いとこ入ろうとしたり、留学も僕が行ったところより上だと思われそうなところに行こうとしたり」

「……その口振りだと、弟は結局、あんたより上のとこは落ちて、下の大学入って、留学も出来なかったってこと?」

 椿矢が肩をすくめた。その通りということらしい。

 椿矢は目的があってその大学を選んだのに榎矢は偏差値だけを見て上を目指した挙げ句玉砕ぎょくさい

 留学も兄に勝ちたいと言うだけの理由でしようとして結局出来なかったようだ。確かに椿矢から見れば滑稽こっけいだろう。

 榎矢が清美を利用し小夜を騙そうとしたことは許しがたい。それでも今の話を聞いて思わず榎矢に同情しそうになってしまった。

 楸矢には両親も親戚もいない(少なくとも付き合いはなかった)し、祖父も小学生の時に死んでしまった上に、兄と九学年も離れていると公立学校の教師は入れ替わってしまっているから小学校と中学校に柊矢を知っている先生はいなかった。

 だから教師に成績のことで叱られるときでも柊矢と比べられたことはなかった(そのため成績優秀だったとは知らなかった)。

 音大付属は私立だから同じ先生はいたが一般科目は重視されない学校だし実技は楽器が違うから比較されなかった。

 子供の頃から通っている音楽教室も、楽器が違うから当然先生も違う上に祖父が亡くなると柊矢はヴァイオリンをやめてしまったから兄の名が出ることはなかった。もっとも実技で叱られたことはないが。

 しかし椿矢と榎矢は小学校から大学まで普通科の上にそれほど年が離れてないようだし、両親が健在で親戚も大勢いるらしいから小さい頃から散々比べられてきたに違いない。

 比較されたことがない楸矢でさえキツいのだから、しょっちゅう比べられている榎矢は相当な劣等感にさいなまれてるはずだ。

 柊矢や椿矢に優秀な兄を持った弟の気持ちは一生理解出来ないだろう。

 榎矢が帰還派になったのは、もしかしたら椿矢と自分を比べる人がいない場所へ行きたかったのかもしれない。


 小夜は食卓に夕食を並べながら旅行のことをどう切り出そうか悩んでいた。

 柊矢と楸矢は台所へ入ってきてテーブルに着いたところだった。

 クレーイスが反応したとき楸矢もいた方がいいだろうと思って全員揃う夕食時に話すことにしたのだが、楸矢は柊矢が反対したとき行かせるべきだと言い出しそうなのが心配だった。

 クレーイスの反応で行った方が良さそうならともかく、何も起きなかった場合は断りたいから楸矢に行かせてあげるようにと言われると困る。

 先に楸矢に行きたくないと話しておこうかと思ったが理由が思い付かなかった。

 柊矢だけなら行きたくないと言えば何も言わずに了承してくれるだろうが、楸矢はきっとわけを訊ねてくるだろう。

 家事をサボりたくないから、などと答えたら遠慮するなと言われて柊矢にも行かせてやるようにと言い出しかねない。

 なんて言おう……。

 そう思っていたとき、突然クレーイスが光り出した。

 柊矢と楸矢が驚いた顔を小夜に向けた。

 やはり二人には光が見えるのだ。

 途切れ途切れに歌声と楽器の演奏がクレーイスから伝わってくる。

「小夜ちゃんが言ってた弦楽器ってこれ?」

 ムーシカも二人に聴こえてるらしい。

「はい」

「柊兄、この楽器、なんだか分かる?」

「いや、多分、竪琴だと思うがそれ以上のことは……。歌詞は日本の古語だが、よく聴こえないな」

「和楽器に竪琴なんてあった?」

「ムーシカを奏でてるんだから弾いてるのはムーシコスだろ。それなら大陸から渡ってきたものかもしれない」

 椿矢の推測通りムーシコスがギリシア付近へ送られて、その中の一部がそこから日本へやってきたのだとしたらユーラシア大陸を横断したということだ。

 その途中、今では失われた楽器を手に入れて持ち込んできた可能性は大いにある。

 どういうルートだったかにもよるが、北または南に大回りしたのでない限りイラクの辺りを通っただろう。

 そこで手に入れたリラが日本まで伝わってきたことは十分考えられる。

 リラはイラクだけの楽器ではないから他の地域のものということも有り得るが、ウルのスタンダードの写真を見たときに小夜が歌ったことを考えるとイラクのものだろう。

「でも、なんで今聴こえたの?」

「学校で聴こえたのと同じなんだな」

「はい」

「学校で何をしてるときに聴こえたんだ?」

「あの……香奈って友達からスマホで従兄の写真を見せられたときに……」

「その香奈ちゃんって子、ムーシコス?」

「いえ、違うみたいです。……多分、従兄じゃなくて、従兄の学校付近の何か反応したんじゃないかと……」

「もしかして、その従兄の家に遊びに行こうって誘われてて言い出せなくて困ってたの?」

「え、いえ、えっと……」

 図星を突かれた小夜が困ったような顔になった。

「誘われたんじゃないの?」

「その……香奈の親戚が一家で家族旅行に出掛けて家を留守にするそうなんです。それで、留守番頼まれたから一緒に行かないかって……」

「誘われたんだよね?」

「……はい」

 小夜が小さな声で答えた。

「行ったらいいじゃん。小夜ちゃんがずっと気にしてたのって今のムーシカでしょ」

「そうですけど……」

 小夜が窺うように柊矢を見た。

 柊矢は難しい顔をしていた。

「女の子だけで行くんでしょ。小夜ちゃん、男子と話せないからって部活にも入ってないくらいなんだし」

「なんでそんなこと知ってるんですか?」

 小夜が驚いたように目を丸くした。

 柊矢も意外そうな表情を楸矢に向けた。

「清美ちゃんから聞いたんだよ」

「清美、そんなことまで……」

 小夜は溜息をいた。

 この分では小夜の学校での行動は楸矢に筒抜けになっていると考えた方が良さそうだ。

「クレーイスから聴こえたってことはムーシケーの意志だから仕方ないな。後で、その家の住所と旅行の日程と一緒に行く友達の名前を教えてくれ」

「でも、その間、ご飯とかお掃除とかは……」

「それ気にしてて言い出せなかったんだ」

 清美が遺産のことを聞いてきたのも旅行に誘われた小夜が躊躇っているのを見て金の心配をしていると思ったのだろう。

「いえ、その……」

「心配しなくても食事はデリバリーがあるし、掃除なんか一週間や二週間しなくても死なないから大丈夫だよ」

「つまり掃除サボったことがあるんだな、二週間も。お前、自分の部屋の掃除ちゃんとしてるんだろうな!」

 柊矢が怖い顔で楸矢を睨んだ。

「いや、今のは言葉の綾って言うか……」

 楸矢は慌てて手を振った。

 今まで眼中に入ってなかったのに、なんで存在に気付いた途端怒ってばっかなんだよ……。

 楸矢は心の中でぼやいた。


 朝、登校すると清美達が沈んだ顔をしていた。

「どうしたの?」

「お母さんにダメって言われちゃった。高校生だけで泊まりがけの旅行なんか行かせられないって」

 涼花がそう答えると、

「あたしも全く同じこと言われた」

 と清美も言った。

「それじゃあ……」

「小夜は!?」

 香奈が勢いよく聞いてきた。

「え?」

「小夜だけでも一緒に行ってくれるよね!」

 香奈が小夜の手を両手で握りしめて切羽詰まった表情で聞いてきた。

 留守番って、そこまで必死になるほどのこと?

 小夜は首をかしげた。

「小夜まで保護者なしはダメなんて言わないよね!」

「言うに決まってんじゃん。うちの親でさえダメって言ったのに、心配性の柊矢さんが許すわけないじゃん」

 小夜が答えようとしたときクレーイスが一瞬光った。

 あ!

「清美や涼花は私達だけだからダメって言われたんだよね?」

「うん」

「それなら、柊矢さんに保護者として付いてきてもらうのはダメかな。後、出来れば楸矢さんも一緒に……保護者が二人も一緒なら清美や涼花も許してもらえるんじゃない?」

「それいい!」

 清美が身を乗り出して言った。

「小夜の保護者が一緒に行くって言えばうちの親も許してくれるよ。ていうか、楸矢さんが行くならどんなことしてでも絶対一緒に行く!」

「お母さんに聞いてみないと分からないけど、多分いいって言ってくれると思うよ。大人が一緒ならますます心強いし、男の人だけど小夜の保護者なら大丈夫だと思う」

「あたしも、小夜の保護者が一緒って言えば許してもらえるかも。友達の親って言い間違えちゃうかもしれないけど」

 涼花が冗談めかして言った。

「そっか。親が一緒なら絶対許してくれるよね。あたしも友達の親って言い間違えよっと」

 それ言い間違いじゃなくて嘘って言うんじゃ……。

「柊矢さん達の都合聞いてみないと分からないけど。今日聞いておく」

「よろしくね!」

 香奈が勢い込んで言った。


「あの……」

 夕食の席に着いたとき小夜が口を開いた。

「どうした?」

 小夜は教室でクレーイスが光ったことを話した。

「清美や涼花が親に許可してもらえなかったから行かれないって言ったときだったんです」

「その二人ってムーシコスじゃないんだよね? なんの関係があるんだろ」

「清美達は高校生だけで行くのはダメって言われたそうなんです。親戚の家へはクレーイス・エコーとして行くので、柊矢さんと楸矢さんも一緒にってことじゃないかと思って、私の後見人の柊矢さんと楸矢さんが保護者として付いていくのはどうかって提案しちゃったんですけど……」

「俺達もその香奈って子の親戚の家に泊まるってことか?」

「はい」

「その子の親や親戚の許可は取ったのか」

「香奈が今日聞くそうですけど、多分大丈夫だと思うって言ってました。大人が付いてきてくれるなら心強いって言ってましたから。田舎の家だから部屋の数も足りるそうです」

「俺は別に構わない。ホテルをキャンセルすればいいだけだからな」

「柊兄、いてく気だったの!?」

 楸矢が驚いたように大声を出した。

 小夜も知らなかったらしく、びっくりした顔をしていた。

「高校一年の女の子達だけで泊まりがけの旅行に行かせる保護者がいるわけないだろ」

 確かに清美や涼花に許可が下りなかったのもそれが理由だ。

「俺も特に予定はないから構わないよ」

「事後承諾になっちゃってすみません」

 小夜が頭を下げた。

「気にすることないよ。おかげで俺達も旅行出来るんだし」

「お前、自分の分のチケット、手配しておけよ」

 つまり、柊兄はもうチケットも手配してあるんだ……。

 楸矢は柊矢の手回しの良さに舌を巻いた。

 けど、何も言ってなかったってことは、もし俺も一緒に行くことにならなければ当日にいきなり小夜ちゃんに同行するからって言っていなくなったってことだよな……。

 何日か一人にされたところで困るような年ではないが事前に分かっている旅行の予定くらいは教えておいてほしい。

 やっぱ、存在に気付いたといってもパイプ椅子がダイニングチェアに変わった程度で基本は喋るイスなのか……。

 楸矢は溜息をいた。


 小夜が朝食の片付けをしていると、スマホを見ていた楸矢が、

「柊兄、高校時代の制服ある?」

 と、柊矢に声を掛けた。

「俺の制服は全部お前にやっただろ」

「う~ん、校内に入らないなら私服でいいかな」

「どうしたんですか?」

「後輩に呼ばれて学校に行かないといけないんだよね。明後日の卒業式に備えて制服クリーニングに出したかったんだけど……。明日、即日仕上げのところに出せばいいかな」

「一着しかないんですか?」

「柊兄のお下がりだったからさ。破れたり汚れたりして全部ダメになっちゃったんで去年新しく仕立たんだけど、三年はそんなに学校行かないから何着もいらないと思って一着しか作らなかったんだよね」

 楸矢はそう言ってスマホでメールを打ちながら部屋に上がっていった。


 小夜は登校するとすぐに清美をつかまえた。

「ね、清美は中学卒業するとき、家でお祝いとかしてもらった?」

「ポータブルオーディオプレイヤー買ってもらったよ。高校の入学祝いも兼ねてだけど」

「ケーキとかは?」

「誕生日じゃないんだから」

「じゃあ、ケーキやご馳走とかはなかった? 卒業祝いって特別なことはしないの?」

 そんなの人に聞かなくても自分の時どうだったか考えればいいだろうと思いかけて、小夜は両親がいなくて祖父に育てられたのを思い出した。

 普通の家庭のことはよく知らないのだ。

 おそらく入学祝いや卒業祝いで特別なことをしてもらったことがないのだろう。

「ご馳走って言うか、一応外食はしたよ。ファミレスだけど。祝うかどうかは家によって違うよ。お祝いの仕方とかも。だから、ケーキが好きな子ならケーキ食べたんじゃない?」

「じゃあ、ご馳走だけでケーキはいらないかな。甘いものはそんなに好きなわけじゃないし。でも、お祝いだし、甘くなければ食べられるから作ろうかな。あと、プレゼントか……」

「……もしかして……って言うか、もしかしなくても、楸矢さんの卒業式!?」

 清美が大声で言った。

 小夜が頷いた。

「明後日なんだって」

「なら、楸矢さんの卒業祝い買いに行くんだよね!?」

「うん、今日柊矢さんに楸矢さんが喜びそうなもの聞いて、明日買いに行こうかと……」

「あたしも行く! あたしも楸矢さんへのプレゼント買う! 小夜、あたしの分も楸矢さん、何あげたら喜ぶか聞いといて」

「うん、分かった」


 楸矢が高校の近くまで行くと校門のところに他校の制服を着た女の子が立っていた。

 美加が言っていたのはあの子だろう。

「俺に用って言うのは君?」

 楸矢が女の子に声をかけた。左足に包帯が巻かれているのが見えた。

「霧生さんですか?」

「うん」

「この前はすみません。事故に遭ってしまって……」

 女の子は頭を下げた。

「気にしなくていいよ。もう出歩いて大丈夫なの?」

「はい。でも、親にここへは来るなって言われていたのを内緒で来たのですぐに帰らないといけないんです」

 楸矢の顔を知らなかったのだから告白ではなさそうだ。

「これ、親には反対されたんですけど、わたしはあなた方に見せるべきだと思ったので……」

「あなた方?」

「ご兄弟がいるんですよね?」

「うん。とう……あににも関係あるの?」

 女の子は頷くと小さな紙製の手提げ袋を差し出した。袖口から手首に巻かれている包帯がのぞいた。

 楸矢が受け取ると会釈して帰っていった。

 手提げ袋の中を見ると古いノートが入っていた。

 ノートの表紙にメールアドレスを書いた付箋が貼ってある。

 楸矢はノートを取り出して開いた。

 ……………………読めない。

 筆記体みたいなグニャグニャした字で何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。

 どうしよう……。

 柊矢にも見せた方がいいと言っていたから渡せば当然読むだろうが、その後で内容を聞いたら自分で読めと言われるだろう。

 そのとき読めないと答えたら叱られるかもしれない。

 怒らないにしても呆れた顔はするだろう。

 叱られるのも嫌だが、優秀な兄にこいつはこんなことも出来ないのか、という目で見られるのもかなりキツい。

 こういうニョロニョロした字は年寄りがよく書く。

 というか年配の者しか使わない。

 楸矢の祖父もこんな字を書いていた。

 ただ亡くなったのは七年も前のことだし、その頃楸矢は小学生だったから祖父の書いた文章を読まなければならないようなことがなかった。

 小夜ちゃんもお祖父さんと一緒に暮らしてたから読めるかもしれないけど……。

 二人きりで暮らしていたのだから祖父の字が読めなければ生活に支障をきたすはずだ。

 けれど年配者が書くような字を見たら祖父のことを思い出して悲しくなるかもしれない。

 まだ亡くなって半年も経ってないしそれはけたい。

 小夜ちゃんに頼めないな。

 他に頼れそうな相手となると……。

 楸矢はスマホをとりだして椿矢にメールを打った。


「楸矢が喜びそうなもの?」

 柊矢が並んで歩きながら聞き返した。いつものようにスーパーへ向かっている途中だった。

「はい。卒業のお祝いにプレゼントしようかと。あと、清美からも何か贈りたいから聞いておいて欲しいと頼まれているので」

「あいつの好みは知らんな」

「お誕生日とかにプレゼントしないんですか?」

「誕生日とクリスマスは小遣いを渡してる」

「楸矢さんがそのお金で今までに何を買ったか知ってますか?」

 もし聞いていたならそこから好みが分かるかもしれない。

 だが柊矢は聞いたことがないと答えた。

「プレゼントは必要ない。夕食に好きなものを作ってやるだけで十分だ」

「もちろんご馳走は作りますけど……」

「あいつに彼女がいなければ清美ちゃんを呼んでささやかなパーティを開けたんだがな」

「呼んでもいいんですか? 今は彼女がいますから呼べませんけど」

 彼女を呼ばないのに清美を呼んだりしたらバレたとき楸矢と彼女が揉めるのは目に見えてる。

 かといって両方呼べばパーティが修羅場になってお祝いどころではなくなるだろう。

「お前の友達なんだから好きなときに呼んでいい」

 柊矢の言葉に小夜が嬉しそうな表情を浮かべた。


「急に呼び出してごめん。頼みがあってさ」

 楸矢は椿矢に手を合わせた。

「気にしなくていいよ。知り合いからの手紙が読めなくてうんざりしてたんで一息入れようと思ってたから」

「知り合いからの手紙が読めないって、暗号かなんかで書いてあるの? もしかしてアメリカ留学中に知り合ったCIAとか?」

「アメリカ留学中の知り合いは当たりだけど、CIAじゃなくて学者だよ。そいつ、すごいクセ字でさ」

 椿矢の言葉に楸矢の顔が強張こわばった。

「どうかした?」

「……俺の頼みも読んでほしいものがあって……」

 椿矢が笑った。

「それ、フランス語じゃないよね?」

「あんたが読めないって言ってた手紙ってフランス語?」

「うん、今メキシコに住んでてね」

「メキシコってフランス語じゃないよね? てか、今時手書きの手紙?」

「メキシコは公用語がないんだけど、ほとんどの人はスペイン語だね。そいつはカナダのケベック出身だから。手紙なのはフィールドワークでスマホが使えないところにいるから。それで、読んでほしいものって?」

 椿矢の問いに、楸矢はさっき女の子から渡されたノートを出してそのときのことを話した。

「なるほどね。柊矢君にも見せなきゃならないなら内容知らないと読めなかったってことがバレちゃうね。けど、いいの? 知らない人から君達兄弟が読んだ方がいいって言われたってことは、まず間違いなく家庭の事情がからんでるってことでしょ」

「それくらいは俺にも分かるけどさ、人に知られたらヤバいようなことって想像つかないんだよね。なんかある? 人に知られたらマズいような家庭の事情。柊兄や俺が知らないだろうから教えようってことは、仮に犯罪絡みだったとしても俺達が捕まる心配ないよね?」

 兄弟揃って知らなかったのなら気付かずに犯罪の片棒を担いでいたというのは考えづらい。

 もし何かに加担かたんしていたとしても、それは親か祖父母辺りだろうが本人達でないなら罪には問われない。

 銀行口座を勝手に資金洗浄マネーロンダリングに使われていたとかだと少々厄介だが、柊矢はかなり頭がいらしいからそんなことに利用されていたらとっくに気付いて手を打ってるだろう。

 椿矢が訊ねたのはそういうことではなく、プライベートなことを親戚とはいえ知り合って間もない自分に知られてもいいのかということなのだが。

 内容を他人に話したりする気はないが、他言しないと信頼されているのか単にバラされても困るようなことは書いてないだろうと楽観的に考えているだけなのかは分からなかった。

 まぁ、霧生兄弟は有名人ではないから親戚がスキャンダルを起こしたところで知られたら困るということはないだろう。

 二人とも音楽家を目指していた――楸矢は現在進行形かもしれない――が、柊矢はとっくにやめてしまっていて一般人だし、楸矢も今のところ無名らしい。

 醜聞しゅうぶんの内容によっては交際相手に振られることがあるだろうが、小夜はスキャンダルなど気にしないだろうし、楸矢は別れたいと思っているのだから彼女の方から離れてくれるならかえって都合がい。

 楸矢としては家庭の事情を椿矢に知られるより柊矢に崩し字を読めなかったことがバレる方が怖いのだ。

 正直、今時の若者なら達筆たっぴつな字が読めないのは普通だから叱責しっせきされることはないと思うのだが、最近まで無関心だった柊矢が突然叱るようになったから楸矢としても何が原因で怒られるか予測が付かないのだろう。

 柊矢にも関係があるようだから本来なら彼の承諾も必要だが、弟ですらイスかテーブル程度の認識なら椿矢など石ころみたいなものだろう。

 石ころに読まれたからといって気にしたりはしないはずだ。

 見知らぬ少女が持ってきたノートの内容には椿矢も興味があったので手に取って開くと、最初のページに変色した封筒が挟まっていた。

 それをテーブルに置いてノートを開いた。

 最後まで読み終えると椿矢は顔を上げた。

「何が書いてあったの?」

 楸矢が身を乗り出した。

「……これを書いたのは君の父方のお祖母さんだよ。君の育ての親のお祖父さんの奥さんだった人」

「奥さん〝だった〟?」

「柊矢君、お祖父さんはムーシカが聴こえなかったって言ってたけど、そう思ってただけで実際はムーシコスだったみたいだね」

 霧生兄弟を育てた祖父は父方で、ムーシコスだった。

 そして祖母(父の母)は地球人だった。

 霧生兄弟の母親がムーシコスでなかったのだとしたら椿矢の大伯母は霧生兄弟の父方の先祖ということになる。

 椿矢の両親は霧生兄弟のどちらの親の先祖が椿矢の大伯母なのか知っているのだろう。

 だが両親のにもつかない話を聞かされるのは真っ平まっぴらだし霧生兄弟が親戚かどうかもどうでもいい。

 楸矢の話し相手になっているのは彼が常識的な人間だからだ。

 ムーシコスの血筋だ家系だという碌でもない戯言たわごとはいい加減聞き飽きたが、ムーシケーやムーシカのことを話さないように気を付ける必要のない相手と普通に話したい。

 ムーシコスとして話が出来る相手で下らない戯言ざれごとを言わないのは親戚の極一部を除けば霧生兄弟と小夜くらいしかいない。

 椿矢はノートの内容を説明し始めた。

 霧生兄弟の祖母は誰にも打ち明けられないことをこのノートにつづっていた。

 このノートは彼女にとっての(「王様の耳はロバの耳」と言うための)地面の穴だったのだ。

 だから日付などは記されていなかった。

 霧生兄弟の祖父は結婚したときに一度、普通の人には聴こえない歌が聴こえる、と祖母に打ち明けた。

 だが祖母が冗談だと思って笑ったら、それきりそのことは口にしなかった。

 だから祖母もその話を忘れていた。

 しかし生まれた息子は話すより先に歌のようなものを口ずさむようになり、話が出来るようになったとき、何の歌を歌っているのか聞いてみると歌が聴こえるから一緒に歌っているのだと言い出した。

 最初、息子は耳が良くて他所よその家のラジオの音でも聴こえているのだと思おうとした。

 だが歌っているのはラジオから流れてくるような歌とはまるで違っていた。

 そのとき、前に夫が言っていたことを思いだした。

 息子が歌が聴こえてない自分を見て不思議そうにしているので、もしかして聴こえるのが普通なのかと不安になって周囲の人間にそれとなく聞いてみたが誰も聴こえないという。

 やはり、おかしいのは夫と息子の方だ。

 ある日、夫の元を男性が訪ねてきた。

 二人で何か話していたが、夫は大きな声で男性を怒鳴りつけて追い返すと、自分が出掛けていると思ったのだろう。

 息子に「歌が聴こえることは誰にも話してはいけない、母親にも絶対に言うな」と言い聞かせていた。

 夫と息子は頭がおかしいのだ。

 これ以上この二人と一緒にはいられない。

 夫に今まで通り接することは出来ないし、自分を慕ってくる息子に優しくするのは無理だが冷たい態度をとって傷付けたくもない。

 頭がおかしいのだとしても悪いことは何もしてないのだ。

 だから家を出た。

 夫が仕事で出掛けているときに息子を近所の人に預け、大急ぎで荷物をまとめた。

 しばらく生活できるだけの金がないかと家の中を見て回ったとき、夫が書斎に使っている部屋の箪笥たんすを開けると封筒が入っていた。

 何も書いてない普通の封筒で厚みがあったから、きっと金が入っているのだろうと思った。

 夫は都内で安く売り出されている物件を買い取ってはそれを貸し出して家賃収入を得ていた。

 出物でものがあったとき、すぐに買い取れるようにいつも現金を手元に用意していたからその金だと思ってそれを掴むとすぐに家を出た。

 実家に戻り急いで仕事と部屋を探した。

 家から持ち出した封筒の中身は金ではなく折り畳んだ紙の束だった。

 そこに書かれていることを読んで夫がおかしいという確信を深めた。

 当初、夫の頭が変だというのは気のせいではないか、やり直した方がいいのではないかと言っていた両親もその紙を見せると納得してくれた。

 祖母は夫に離婚届を送った。

 夫はすぐに離婚届に判を押して送り返してくれた。

 そのとき添えられていた手紙に、息子に危険が及ぶかもしれないから歌の話は他言しないで欲しいということと、持ち出した封筒は自分に送り返すか焼き捨てて欲しいと書かれていた。

 その後、知人の紹介で今の夫と知り合い結婚し子供も出来た。

 だが、やはり息子のことは気になっていた。

 普通の人には聴こえない歌が聴こえるなどと言っている気味の悪い息子を可愛がることは出来ないが、それでも折に触れ、あの子はどうしているだろうと考えていた。

 それから大分ち、息子が大人になり結婚した後、交通事故で亡くなったという話を人伝ひとづてに聞いた。息子には子供が二人いたらしい。

 その二人も歌が聴こえるのかしら。

 それが最後の一文だった。

 椿矢が言葉を切ると、しばし、その場を沈黙が支配した。

 しばらくして、

「頭がおかしい、か。俺が中三のとき付き合ってた彼女も、ムーシカのこと打ち明けたら口には出さなかったけど同じような目で見るようになって結局別れちゃったし、やっぱ俺達って異星人なんだね」

 楸矢が淋しそうな笑みを浮かべた。

「……それで祖父ちゃん、歌が聴こえるって言うと怒ったんだ。当然だよね。悪いことしたわけでもないのに祖母ちゃん出ていっちゃったんだから」

 夫どころか実の息子でさえ受け入れられないのだ。

 家族ですらない地球人に分かってもらえるわけがない。

 だから、あれだけ強く口止めしてたのだ。

 孫達まで自分や息子のような目に遭わせたくなかったから。

 雨宮家の人間は元からムーシコスは地球人ではないことを知っている。

 それに一族が全員ムーシコスだから他人と違うという疎外感そがいかんを覚えることはない上に、同じくムーシコスの一族である霍田家とも大昔からの付き合いだから周囲にはムーシコスが大勢いる。

 ムーシコスに拘っている一族連中をバカにしてはいても椿矢もその恩恵を受けてきたのだ。

 だが雨宮家や霍田家が特殊なのも自覚している。

 直接捨てられたのは楸矢自身ではなく祖父と父親だが、孫達が両親を失ったと知っていたのにそれでも祖母は何も言ってこなかった。

 二人のことを〝孫〟とすら書いてない。

 ノートを読んだ限りでは祖父に連絡を取って会うのを断られた形跡はない。

 息子が亡くなったという話を聞いたことを最後に記述がないのも、彼女にとっては息子の死によって胸のつかえが取れたということなのだろう。

 だから連絡をしようという考えすら浮かばなかったのだ。

 息子のことは多少気になっていたとは言っても、あくまでも時々思い出すという程度で、気味が悪いとまで書いているくらいだから訃報ふほうを聞いたことで縁が切れたと思ってほっとしたのかもしれない。

『子供を捨てるのは悪い親』という認識がり込まれていたからずっと罪悪感にさいなまれていたのだろう。

 ノートにこっそり書いていたのも人に子供を捨てたことを知られて軽蔑されるのを恐れたからに違いない。

 だから言い方は悪いが息子が死んだことでその重しから解放されたのだ。

 彼女の中ではようやく全て終わったのだろう。

 彼女にとって柊矢と楸矢は〝孫〟ではなく名も知らぬ赤の他人なのだ。

 楸矢の言うとおり、血の繋がりがあっても祖母と霧生兄弟は異星人同士なのだ。

「ありがと。いつも頼っちゃってごめん」

「気にしなくていいよ。それより気を落とさないようにね」


 柊矢はノートを読み終えると、

「これがその子の連絡先か?」

 表紙の付箋を見ながら訊ねた。

「多分。……どうするの?」

「親に内緒で持ち出したんだろ。早く返せば気付かれずにすむかもしれない。そうすれば、その子が叱られることもない」

「祖母ちゃんのことは?」

「どうもしない。その子の親だって俺達に関わりたくないから黙ってろって言ったんだろ」

「……でも、あの子、多分従妹いとこだよね?」

「だから? その子は俺達と親戚付き合いしたがってたのか? 単にこれを読んだ方がいいと言っただけなんだろ?」

「それは……」

 確かにノートを見せるべきだと思ったと言っただけで従妹だとは告げてこなかったが、楸矢が従兄という事は知っていたはずだ。だが名前すら名乗らなかった。

 つまり、そう言うことか……。

 親子して頭が変だったのだからその孫達もおかしい可能性がある。

 日記に近い個人的なものを親の反対を押し切ってまで見せたのも祖母が自分達をどう思っているか知らせたかったのかもしれない。

 だとしたら、これは近付かないで欲しいという意思表示だ。

 ノートを読んだのに『人に聴こえない歌が聴こえる』という部分に触れなかったということは従妹を始めとして誰一人ムーシコスはいないのだ。

 皆地球人なのだとしたら自分達のことを頭がおかしいと思っている相手とは関わらない方がいいだろう。

 祖母ちゃんの顔、見てみたい気もするけど……。

 楸矢は両親の顔も写真でしか知らないし、記憶の中の祖父も大分曖昧になってきた。

 柊矢を除けば唯一の肉親に会ってみたいが向こうが嫌がっているのに無理に面会を求めるわけにはいかない。

 何より肉親である祖母に面と向かって「気味が悪い」などと言われたりしたら一生心の傷として残るだろう。

 それに楸矢が会いに行ったりしたら従妹がノートを無断で持ち出したことがバレてしまう。

 それは祖母が生きていたことを教えてくれた恩をあだで返すことになる。

 元々死んだと思っていたのだ。

 それに肉親が誰一人残ってない小夜のことを思えば兄がいる分だけ楸矢は恵まれているのだからこれ以上の贅沢は望むべきではない。


 柊矢はなるべく早めに返すようにと言って楸矢にノートを渡した。

 楸矢は黙って受け取るとスマホを出してメールを打ち始めた。


 小夜は夕食を作りながら二人のやりとりを聞いていた。

 身内の話だと気付いたときすぐに席を外そうとしたのだが、楸矢にその必要はないと止められ、どうせ後から説明するなら一緒に聞いていた方が手間が省けると柊矢にも言われたのでそのまま料理を続けたのだ。

 もっとも柊矢はノートを音読したわけではないから内容は分からないが。

 二人に掛けるべき言葉を思い付かないまま塩を取ろうと横を向いたとき封筒が足下に落ちているのに気付いた。

 拾い上げた途端、クレーイスが光りムーシカが小夜の口をついて出てきた。

 柊矢と楸矢が小夜に顔を向けた。

 小夜は封筒に目を向けていたが見ていないのは明らかだった。

 思い浮かべるまでもなくムーシケーのムーシカだと分かった。

 ムーシケーが歌わせているのだ。

 ムーシカを歌い始めるのと同時に封筒に火がき燃え始めた。

 驚きのあまり言葉もない二人の目の前で、あっという間に封筒が灰になって消えていく。

 封筒の大半を燃やし尽くした炎が小夜の指先に届く寸前で柊矢が封筒を払い落とした。

 その瞬間、小夜が我に返ったように顔を上げた。

 封筒は床に落ちる前に完全に燃え尽きてしまった。

 灰も全て粉々になって散ってしまい痕跡すら残ってない。

 同時に炎も消えて床には焦げ跡一つ付かなかった。

「あ! す、すみません!」

 小夜は慌てて頭を下げた。

 無意識にやったこととはいえ柊矢達の祖父が書いたものを燃やしてしまった。

 育ての親だった人の手書きのものなら形見として残しておきたかったはずだ。

「気にしなくていい。今のはムーシケーのムーシカだった。ムーシケーの意志だ」

「でも、柊矢さん達のお祖父様が書いたものなのに……」

「祖父はその封筒を燃やすように祖母に頼んでいた。本来なら今ここには無かったはずのものだ」

「柊兄の言う通り、小夜ちゃんが気にする必要ないよ。呪詛のムーシカだからムーシケーが燃やさせたんだよ。それに書いたの祖父ちゃんじゃないし」

「祖父さんじゃない? お前、祖父さんの筆跡ひっせき覚えてるのか? ノートには誰の字かは書いてなかったぞ」

 柊矢の言葉に楸矢は慌てて封筒の中身はムーシカの歌詞だったから以前ムーシカの研究をしていると言っていた椿矢に見せたのだとつくろった。


 椿矢は読み終えたノートを返そうとして、さっき封筒を置いたことを思い出した。

 とりあえずノートと一緒に封筒も渡したが楸矢は中身を取り出して開くとすぐに椿矢に差し出した。

 読めないと判断して返してきたのは、ぱっと見てすぐに分かった。

 紙に書かれた文章もミミズがのたくったような字だったからだ。

 椿矢は苦笑して紙を受け取るとそれに目を通し始めた。

 読み始めた途端、椿矢の表情が険しくなった。

 読み終えると封筒に入れて楸矢に渡した。

「何が書いてあったの?」

 珍しく真剣な顔をした椿矢に楸矢が戸惑った様子で訊ねた。

「呪詛のムーシカの歌詞と、呪詛して欲しい相手の名前」

「え?」

「お祖父さん、封筒は燃やして欲しいって書いてたでしょ。呪詛のムーシカだから他のムーシコスに知られないように処分を頼んだんだと思う」

 歌詞を読んで思い浮かべてみると確かにそのムーシカはあった。

「ホントにそのムーシカがあるか確かめたってことは、あんたは知らなかったってこと?」

「別に呪詛はうちの専売特許って訳じゃないからね」

 椿矢が苦笑いしながら答えた。

 それから真顔になると、

「柊矢君が読めば分かっちゃうことだから話しておくけど、呪詛の相手の一人は霞乃光蔵こうぞうって名前だった」

 と告げた。

「霞乃……って、まさか……」

 楸矢が目を見開いた。

「お祖父さんじゃなくて親戚って可能性もあるけどね。親戚なら名字が同じでも不思議はないし」

 とはいえ親戚がいたら柊矢が小夜を引き取ることはなかったはずだ。

「……小夜ちゃんのお祖父さんが亡くなったのは最近だから、祖父ちゃんは呪詛してないってことだよね?」

 楸矢がすがるように椿矢に訊ねた。

 自分の祖父が小夜の祖父を呪詛していたとしたら二度と小夜の顔をまともに見られない。

「僕の知り合いの名前も入ってたけど亡くなったのは三年前だし、大病とか火事とかの類に遭ったって話は聞いてないから、おそらく呪詛は受けてないと思う」

「呪詛ってことは分かるのにどんな被害に遭うかは分からないの?」

「ムーシカの旋律と歌詞は分かっても効果とかは分からないでしょ」

 確かにそうだ。

 柊矢と楸矢の祖父が亡くなった事故のときムーシカは聴こえていたし、嵐はこの〝歌〟のせいではないかと漠然ばくぜんと感じてはいたが椿矢に聞くまで確証はなかった。

 祖父もムーシコスだったのだから、あの嵐のときムーシカは聴こえていたはずだ。

 効果が分かるのなら嵐がムーシカのせいだと気付いて車を止めていただろう。

「なら、なんで呪詛って分かるの?」

「歌詞が人を呪うものだったから」

 ただ歌詞の言葉が古すぎるのか方言なのか、あるいは呪術の専門用語なのか、椿矢にも理解出来ない単語がほとんどだからどんな効果をもたらすのかは分からなかった。

 歌詞に空白の部分があり歌うときにその部分でリストの名前を言ってくれと書いてあった。

「君達のお祖父さんは恐らく誰のことも呪詛してないよ。燃やして欲しいって書いてたくらいだし、危険だから処分しようと思ってたのに、その前にお祖母さんに持ち出されちゃったから出来なかったんだと思う」

「でも……それならなんですぐに燃やさなかったんだろ」

 祖父がムーシカで誰かを呪詛していたなどとは考えたくないが、その気がないなら何故なぜすぐに処分しなかったのだろうか。

「名前が書いてあった人達に警告するためかもしれない。連絡先を調べるのに手間取ってるあいだに持ってかれちゃったんじゃないかな」

 楸矢の父が何年生まれなのかは知らないが、柊矢と椿矢はどちらも第一子だ。

 その二人の歳が近いということは父親の年齢もそう違わないだろう。

 だとしたら霧生兄弟の祖母が出ていったのはまだパソコンどころかパソコンという言葉すら存在しなかった時代だ。

 もちろん携帯電話なんてものもなかった。ネットもなかったからSNSもない。

 連絡手段は手紙と固定電話、電報くらいだった。

 連絡先が分からない相手を探すのは簡単ではなかったから時間がかかったのだろう。

 仮に連絡先が分かっていたとしても、近くに住んでるならともかく遠い場所なら電話か手紙ということになる。

 留守番電話もまだ存在してなかったから相手が家にいる時間に電話出来なければ掛け直すか手紙を書くしかない。

 都内ならともかく他県だと手紙が届くまでに最短でも二、三日は掛かった。遠ければ遠いほど日数が掛かる。

 名前が載っていた椿矢の知り合いはムーシコスだったし霞乃光蔵という人は恐らく小夜の祖父で同様にムーシコスだろう。

 小夜も祖父から〝歌〟のことを「〝他人ひとに〟話すな」と言われていたと聞いている。

「〝他人ひとに〟話すな」というのは聴こえてる人ムーシコスが使う言葉だ。

 聴こえない人ちきゅうじんはわざわざ「〝他人ひと〟に」などとは付け加えずに「やめろ」とか「その話はするな」と言うはずだ。

 小夜の祖父がムーシコスでリストに載っている人物だったとしたら、まず間違いなく名前が書かれていた人達は全員ムーシコスと思われるが、互いに相手をムーシコスだと知らず、自分も隠していたのだとしたら説明は容易ではない。

 届くまでに何日もかかる手紙でのやりとりではどれだけ時間がかかるか想像も付かない。

 小夜の祖父は同じ新宿区内に住んでいたから直接会って警告出来ただろうが。

「楸矢君、君のお祖父さん、日記か何か残してた?」

「さぁ? 遺品の整理は柊兄がやったから」

「じゃあ、柊矢君に日記のたぐいがなかったか聞いておいてくれないかな。出来れば見せて欲しいんだけど、頼んでみてくれる?」

 椿矢の言葉に楸矢は頷いた。


 楸矢は、椿矢に聞いたことを呪詛の相手の名前だけ伏せて話した。

「なるほどな。確かに人を呪う歌の歌詞なんて地球人からしたらイカレてるとしか思えないだろうな」

椿しゅんさんは、名前が載ってた知り合いには何も起きなかったから祖父ちゃんは誰のことも呪詛してないだろうって言ってた。なんで祖母ちゃんが封筒燃やさなかったのかは分からないけど」

「それは祖父さんや父さんの頭がおかしいって人に証明するときのためだろ。その紙を見せれば地球人なら誰だって納得するからな」

 確かにそうだ。

 けれど夫は元をただせば他人だから仕方ないかもしれないが父は実の子供だったのだ。

 お腹を痛めて産んだ子なのに、その子がイカレてることを証明するためのものを何十年も保管していたのだと思うとやりきれなかった。

「小夜ちゃん、あと、どれくらい?」

 楸矢が訊ねた。

「十分くらいです」

 小夜が鍋をかき混ぜながら答えた。

「出来たら呼んでくれる? 柊兄、ちょっといい?」

 楸矢はそう言うと自分の部屋に連れていった。


「小夜に聞かれたくないことか?」

「燃えちゃった封筒に入ってたの呪詛のムーシカとリストだって言ったでしょ」

「それが?」

「リストの中の一人が霞乃光蔵って名前だった」

 その言葉に柊矢が目を見張った。

 やはり小夜の祖父の名前は『光蔵』だったのだ。

「名前の漢字は?」

「え……椿さんがリスト写してたから確認しとく。それで、椿さんに祖父ちゃんの日記の類があったら見せて欲しいって頼まれたんだけど……。呪詛の手紙見せた後に言われたし、対象の一人が椿さんの知り合いって言ってたから多分、祖父ちゃんが頼まれた呪詛のこと詳しく知りたいんだと思う」

「分かった。遺品を出しておく」

 柊矢と楸矢が台所へ入っていくと、ちょうど小夜が料理を並べているところだった。

「あの、楸矢さん、明後日なんですけど……」

 全員が席に着くと小夜が楸矢に話しかけた。

「うん、何?」

「卒業式の後、予定ありますか? もし何もないなら夕食はお祝いにご馳走作ろうと思うんですけど」

「ホント!? 何にもないよ」

「ケーキはどうしますか?」

「ケーキ? 卒業祝いでケーキって食べるもんなの?」

 楸矢が訊ね返した。

「清美によるとケーキが好き人は食べるかもって言ってました」

「ケーキまで作るの大変じゃない?」

「そんなに手間はかかりませんから大丈夫です」

「じゃあ、お願いしようかな」

「もし、彼女を呼ぶんでしたら四人分作りますけど」

「いや、聖子さんはいいよ」

「分かりました」

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