第一章 Sirius-シリウス-

第一章 Sirius-シリウス-


 地上は真っ暗で空には沢山の星が瞬いていた。その中で青白い星が一際ひときわ明るく輝いている。

 波音に紛れて女性の歌声が途切れ途切れに聴こえてくる。

 旋律がムーシカに似てるけど違う……。

 歌ってるのもムーシコスじゃない。

 歌ったことのない地球人ひとがなんとかして歌おうとしているようだった。

 多分ムーシコスの奏でたムーシカを聴いたことがあるのだろう。その旋律を歌おうとしているのだ。

 ムーシコスが歌ってるわけじゃないのに感情が伝わってくる。

 旋律がムーシカに似てるからじゃない。

 彼女がそれだけ強く相手を想っているからだ。けど、それとは別に必死さも感じる。

 ただ想いを伝えたいというのとは違うような……。

 そのとき目覚ましの音で目が覚めた。


 霞乃かすみの小夜さよは朝食の片付けを終え、可燃ゴミの入った袋を持って外に出た。

 門を開けると道路の上に大きな黒っぽい塊が落ちていた。太い紐が絡まっているような感じだ。

 最初はなんなのか分からなかったが、それが身じろぎして正体に気付いた瞬間、悲鳴を上げていた。


 小夜の叫び声に霧生きりゅう柊矢とうや楸矢しゅうやが玄関から飛び出してきた。

 近所の人達も次々と家から出てくる。

「どうした!」

「小夜ちゃん、どうしたの!」

 小夜は声も出せないまま指を指した。

 周囲の視線が指の先にいるものに集まった。

「なんだ、ヘビか」

 柊矢が拍子抜けしたように言った。

「小夜ちゃん、ヘビ怖いの?」

「女の子なんだから当然よぉ」

 近所のおばさんが同情するように言ったものの当人は平然としていた。

「まだ冬眠から覚めるには早くないか」

「ここのところ暖かいから起きちゃったのよ」

啓蟄けいちつも近いからなぁ」

 隣のおじさんはのんびりとした口調でそう言うと家に入っていった。他の人達も小夜がヘビに驚いたのだと分かるとすぐに帰ってしまった。

 誰もヘビに動じてない……。

 楸矢はヘビを掴むと家の向かいにある公園の植え込みの中に放した。

「しゅ、楸矢さん! そこ、公園ですよ!? 逃がしていいんですか!? つ、通報とか……」

「通報ってどこに?」

 楸矢が苦笑しながら訊ねた。

「け、警察とか保健所とか……」

「アオダイショウなんかでいちいち通報してたら怒られるよ」

「あんなに大きいのに!?」

「大きいって言っても二メートルもなかったじゃん。この辺二メートルくらいのアオダイショウ何匹かいるし毒ヘビじゃないから通報しても迷惑なだけだよ」

「何匹か!?」

「一匹か二匹はシマヘビかな。ま、どっちにしろ二メートルくらいのヤツは全部で三、四匹くらいだと思う。さすがにヘビの個体識別は難しいからはっきりとは分からないけど。そこまで大きくないのはもっといるよ」

 楸矢が当然のような顔で言った。

「アオダイショウやシマヘビの餌ってネズミとかカエルとかだけど、どっちもこの辺いっぱいいるから。あ、カエルは平気? カエルとかトカゲとか、この辺りは爬虫類や両生類よく出てくるから慣れた方がいいよ」

「よ、よく?」

 小夜が青ざめた顔で言った。

 確かに冬になる前は家に入る時たまに壁に貼り付いてるヤモリを見かけた。

 トカゲは人が近付ただけで逃げてしまうし動きが速すぎるので、ちゃんと見たことはない。

「うん、この辺、湧き水の池とかあるからね。俺達が行ってた小学校なんか毎年春になると校庭の隅にある池からカエルの卵とってきて教室で観察してたんだよ」

「湧き水の池なんてあるんですか?」

「新宿区の大半は山の手だからな。湧水ゆうすいが湧きやすい地形なんだ。中央公園の向かいにだって温泉があっただろ」

 山の手というのは台地の端の谷の浸食を受けた地形やその地形にある地域のことである。

 日本では地中から湧き出してくる水のうち温泉法にのっとった三つの定義のうちの一つでも満たしているものを温泉といい、一つも満たしていないものを湧水という(海外は水温が高ければ温泉)。ちなみに水温も定義のうちの一つだが他の定義を満たしていれば冷たくても温泉に分類される(水温が低いものは鉱泉や冷泉ともいう)。

「ていうか、中央公園にヘビやカエルいないの? あそこ昔は浄水場だったんでしょ」

「浄水場にヘビやカエルがいたら不衛生だろ。どっちにしろ浄水場じゃなくなったのは六十年代だからうちの親ですら生まれてなかった頃だぞ。けど、すぐそばに温泉があったくらいだし熊野神社には湧水の池とかありそうだけどな」

 熊野神社とは中央公園の隣にある神社である。広重の浮世絵、江戸百景の角筈熊野十二社つのはずくまのじゅうにそうはその神社のすぐ横を描いたもので昔は滝などもあった。

「熊野神社は石畳で覆われていて地面が出てる所はないので……。境内は狭いですし」

「そうなのか。まぁ、マムシはいないしヤマカガシ以外毒は無いから気にしなくていいぞ。ヤマカガシにしても刺激しなければ襲ってこないし」

「もしかしてカエルも苦手?」

「み、見たことないので分かりません」

 小夜が引きった顔で答えた。

「カエルもヘビもいないなんて、やっぱ西新宿って都会だ~。とても同じ新宿区内とは思えないね」

 楸矢が感心したように言った。

「あの辺だって発展したのは戦後だぞ」

「小夜ちゃんが生まれた頃は発展してたでしょ」

「そうよ、おばさんが子供の頃はもうあの辺、高層ビルがいっぱい建ってたもの。この辺りはまだ空き地とか結構あったけど」

 この辺は元々自然動物園にする予定の場所を急遽住宅地にしたが予定地全てを住宅街や団地にしたわけではない。残った部分は公園になった。というか、する予定だったらしい。だが地面がならされてベンチなどが置かれたり、雑草や雑木ざつぼくが取り除かれて観賞用の草木そうもくが植栽されたりして公園としての体裁が整ったのは割と最近でそれまでは空き地みたいなものだった。

「ヘビやカエルより変な人に気を付けた方がいいわよ。最近怪しい人がうろついてるから」

「怪しい人?」

 家に戻りかけていた柊矢が聞きとがめて引き返してきた。


 男女の違いがあるとはいえ柊矢は楸矢に対してはかなり素っ気ない。

 小中学生の頃でさえ放任主義で成績のことで学校に呼び出されようが帰りが夜遅くなろうが何も言わなかった。

 元カノの霍田つるた沙陽さよにも似たような態度を取っていたからそういう性格なのかと思っていたが、小夜に対してだけは恋人になる前から過剰なくらい過保護だった。

 楸矢はブラコンではないし、年が八歳も離れている上に物心ついた頃から楽器を習っていた関係で一緒に遊ぶということもなかったため特に仲が良かったわけではない――というか柊矢が無関心すぎて仲良くなりようがなかった――から小夜に嫉妬したりはしないが。

 楸矢は、柊矢が家の音楽室を使っていて練習できないときに遊びに行ったりしたことはあったが、柊矢は練習に熱中するあまり沙陽とのデートをすっぽかしたこともあったくらいだから遊びに行ったことはほとんどない。

 すっぽかされた沙陽は激怒したが柊矢はその時おざなりに謝っただけで後はその話を蒸し返されても適当に流してしまうため喧嘩にすらならなかった。

 怒鳴り散らしてた沙陽の方は喧嘩してるつもりだったかもしれないが。

 そう考えると自分や沙陽と、小夜との違いは一体なんなのかと考えることがある。


「いつ頃の話ですか?」

 柊矢が真顔でおばさんに訊ねた。

「最近よ。ときどき見かけない人が歩いてるの」

「まだ送り迎えをやめるのは早かったか?」

 柊矢が心配そうに小夜を見た。

「大丈夫です。ここ、早稲田駅に行くとき通るところですから知らない人が歩いててもおかしくないですよ」

 小夜が慌てて手を振った。

 考え込んでいる様子の柊矢を見て助けを求めるように楸矢に顔を向けた。

「……ヘビがいないとネズミとか増えちゃって大変じゃない?」

 楸矢が話題を変えるように言った。

「……このうちにネズミが少ないのは新しいからかと……」

 戦地から帰ってきた柊矢達の曾祖父そうそふがここの土地を購入して家を建てたのは戦後だが、その後、都が耐震補強のためのリフォームに助成金を出していたときに建て替えたので建物は比較的新しかった。

「新しいかどうかは関係ないんじゃない? 捕食動物がいるかどうかの違いだと思うよ。家の中まで入ってきて食べてるし」

「ヘビがですか!?」

「うん。部屋の中にはまず入ってこないけど、天井裏ずるずるってる音がしたらヘビだよ」

「冬眠からめたみたいだし、よくあることだから驚くなよ」

 二人の言葉に小夜が真っ青になった。

 ネズミは不衛生とはいえ見た目は可愛いから気にならない。

 天井裏を走り回る音は少々うるさいが。

 しかし天井からヘビが這いずり回る音が聞こえてきたりしたら気を失ってしまいそうだ。

 朝から恐ろしい話を聞いてしまったが柊矢の気はらすことが出来たようだった。


 放課後、帰り支度をしていると男性の甘い歌声が聴こえてきた。

 そこに合唱する女性の声が幾重いくえにも重なっている。様々な楽器の音色も聴こえた。

 この声、椿矢しゅんやさんだ……。

 きっと中央公園だよね。

 清美を誘って行ってみようか。

 前に小夜が彼氏はいないと答えた時、立候補していい? なんて言っていたくらいだから彼女はいないだろう。

 椿矢はムーシコスにこだわっている帰還派を軽蔑しているふしがあったから地球人でも気に入れば付き合ってくれそうだ。

 問題は地球人かどうかより二十代半ばくらいのようだから高校生を相手にしてくれるかだ。

「清美、今日予定ある?」

「うん、深雪みゆきが彼の友達紹介してくれるって」

「そうなんだ。上手くいくといいね」

「ありがと。また明日あしたね」

 清美が行ってしまったので小夜は一人で中央公園に向かった。


 椿矢はいつものように中央公園でベンチに座ってブズーキを弾いていた。何人かの聴衆に囲まれて歌っている。

 ブズーキというのはマンドリンに似た楽器でボディは洋梨のような形をしていてネックが長くピックで弦を弾いて音を出す。最近のブズーキの中には弦が八本のものもあるが椿矢のブズーキは古いものなので六本だった。

 甘いテノールに重なるソプラノやアルトの重唱、副旋律のコーラスに様々な楽器の演奏が風のように流れていく。

 小夜はムーシカに聴き惚れていた。

 椿矢は小夜に気付くと手招きした。

 小夜がそばに行くと、

「良かったら一緒に歌わない?」

 と誘ってきた。

「え?」

「デュエットのムーシカは女性がいないと歌えないからさ。柊矢君に怒られちゃうかな」

 確かに聴こえてしまうが怒ったりはしないだろう。

 今までにも椿矢と歌ったことはあるのだし、デュエットは歌ったことがないから小夜としても是非歌ってみたかった。

「私も歌いたいです」

「じゃ、まず、これね」

 椿矢がブズーキで前奏を弾くと歌詞が浮かんできた。

 まず、小夜が歌い、続いて椿矢が歌い始めた。

 他のムーソポイオスは副旋律のコーラスのみで主旋律は小夜と椿矢だけだった。

 ムーシコスは奏でるのも好きだが聴くのも好きだから男女一人ずつのデュエットを鑑賞して楽しんでいるのだ。そこに楽器の演奏が重なっていく。

 男声パートと女声パートを交互に歌ったり一緒に歌ったりするのは普段のムーシカとはまた違った楽しさがあった。

 小夜は旋律に身を任せて夢中になって歌い続けた。

 何曲か歌ってお開きになったところで柊矢に気付いた。

 スーツを着ているから仕事で近くに来ていたようだ。

「あ、柊矢君。ごめん、小夜ちゃん借りちゃった」

「別に」

 柊矢は肩をすくめた。特に気にしている様子はないのを見て小夜はホッとした。

 椿矢に別れを告げると、柊矢と小夜は帰途についた。


「ねぇ、春休みの予定は?」

 休み時間香奈かなが小夜と清美に声をかけてきた。

「彼氏作り!」

 清美の断固とした口調に小夜は苦笑した。

 清美は前から彼を欲しがっていたが周りがどんどん彼氏持ちになっていくのを見てかなり焦っているようだ。

 ていうか、深雪の彼の友達、ダメだったのかな。

「小夜は?」

「特にないよ」

「小夜は柊矢さんとデートでしょ」

「誘ってくれたら行くけど……」

「自分から誘えばいいじゃん」

「うーん……」

 デートはしたいがどこへ行くにしろ支払いは柊矢がすることになる。

 それを考えるとお茶に行くのすら躊躇ためらってしまう。

 ドライブならガソリン代だけで済むだろう。

 しかし以前、楸矢が言っていた「後部座席」というのが気になる。今でも意味は分からないものの、ドライブに誘って変な誤解をされたらと思うとそれも言い出しづらい。

 それにガソリン代程度と言ってもそもそもガソリンが安いのかどうかも分からない。

 ガソリンスタンドにはガソリンの値段が書いてあるが何故なぜか値段がいくつも表示されてる。

 おそらく大根やレタスみたいに単純に安い方を選んでいいわけではないだろう。

 それにどれも一リットルの値段だと思うが柊矢の車が一リットルでどれくらいの距離を走れるのかも分からない。

 というか、そもそも一リットルだけで自動車が動くものなのかどうかも不明だ。

 時々ニュースでガソリンの値段がどうのと言ってるのを聞くが柊矢はガソリン代に限らず金のことは口にしない。

 楸矢は「東京の人って大体そうでしょ」と言っていた。

 確かに祖父も東京の人間で金のことは全く口にしたことがなかった。

 だからかえって経済的なことが心配で高校を選ぶときも都立にした。

 祖父に年金以外の収入や蓄えがあるのか知らなくて私立へ行けるだけの余裕があるのか分からなかったからだ。

 聞いてみて、仮に行っていいと言われたとしても、実際に通うことになったら祖父は小夜の知らないところで苦労して金策をすることになるかもしれないと思うと訊ねることすら出来なかった。

 出来れば女子校に行きたかったから私立は無理でも国立ならと思ってお茶大附属を調べてみたのだが、入学金が都立高校より高い上に授業料以外にかかる費用もかなり高額だった。

 授業料が都立高と同じくらいでも、それ以外の費用が高いのでは国立大附属を選ぶ意味がない。お茶大附属だと通学には交通費もかかる。それで自宅から徒歩で通えた今の都立高校を選んだのだ。

 東京の人間でも女性は家計のやりくりがあるから多少は気にする。

 小夜自身、東京育ちだがお金のやりくりには気を遣う。

 だが柊矢は特に気にしている様子はないから霧生家の経済状況は全く分からない。それに経済的に問題がないとしても居候いそうろうだと思うとお金が掛かるようなことは頼みづらい。

「予定がないなら……」

「彼氏作る予定があるんだってば!」

「はいはい」

 香奈は清美を軽くいなすと、

「実は親戚が春休み、一家揃って海外旅行行くからその間の留守番頼まれてるんだけど一緒に行かない? そこの近くの神社、縁結びの神様なんだよ。お参りすると彼が出来るんだって」

 と本題に入った。

「ホント!?」

 即座に清美と涼花すずかが食いついた。

「去年お姉ちゃんが留守番に行ったとき、そこでお参りしたらホントに彼が出来たんだよ。お姉ちゃん、今年はデートするからあたしに留守番に行ってって言うんだよね。だからみんなで一緒に行かない?」

「行く!」

 清美が速攻で答えた。

「香奈のご両親や親戚はあたし達が行ってもいいって言ってるの?」

 涼花が訊ねた。

「うん。うちの親、仕事があるから一緒に行けないんだ。それで一人じゃ心配だから女の子だけなら友達誘っていいって」

 香奈はそう答えると、

「小夜は?」

 と訊ねてきた。

「え? 私は柊矢さんに聞いてみないと……」

「柊矢さん、心配性だもんね」

 清美が言った。

「そういえば、ひったくりに遭っただけで最近まで送り迎えしてもらってたよね」

「聞くだけ聞いてみてよ。人数多い方が楽しいし」

 香奈が両手を合わせた。

「うん、分かった」

 そう答えたものの、香奈には申し訳ないが断るつもりだった。


 以前、柊矢が祖父の遺産を受け取れるように手続きをしてくれたというと、

「それなら、高校には通えるんだね」

 と清美が言った。

 その言葉に小夜は改めて高校の学費を調べた。

 入学金と初年度の授業料は入学時に支払い済みだから関係ないとして、授業料が年間十一万八千八百円、それに諸経費がかかる。修学旅行のお金や施設使用料などだ。

 小夜の通ってる高校の公式ホームページにはそれらの費用のことは載っていなかった。

 さすがに都立高校の普通科で諸経費がバカ高いとは思えなかったが念の為、担任の教師に具体的な金額を聞いてみた。

 先生は心配そうな表情で詳細を教えてくれた後、都の就学支援金の制度について説明してくれた。

 小夜が遺産があるので大丈夫だと答えると安心したようだった。

 柊矢から高校と大学にかかる費用は遺産で十分まかなえると言われていた。

 家賃や食費は柊矢に受け取らないと言われてしまったので遺産から引かれているのは学費と通学のための定期券代、それと月々の小遣い。

 後はこの先、春物と夏物の服を買わなければならないが普段着に高いものは着ない。

 正装は学生だから制服で間に合うし、以前、柊矢が買ってくれたブレザーもある。

 遺産で高校の学費は問題ないし大学も私立を含め大抵のところは行かれるとのことだった。

 霧生家は持ち家だから家賃を支払う必要がない代わりに固定資産税と、あとは家を建てたときやリフォームなどでローンを組んでいればローンの支払いがあるはずだが具体的にどれくらい掛かっているのか分からないから小夜が家賃を払うとしたらいくらになるのか見当がつかない。

 食費に関しては材料を買いに行くのも料理しているのも自分だから、おおよその費用は分かっている。

 なるべく安いものを選んで出来る限り材料が無駄にならないように作っているから食費は大した負担にはなってないはずだ。

 柊矢も楸矢も贅沢はしていないがお金に困っている様子はない。

 二人の高校や大学も私立だ。

 大学の話をしていたとき、楸矢が私立大の医学部に行っても問題ないと言っていたから小夜一人くらい増えても経済的負担にはなってないだろう。

 ただ家賃や食費、光熱費などを支払ってないからこそかえって友達と旅行に行きたいとは言い出しにくい。

 旅費は遺産の方から出してくれるはずだし、遺産の残りは成人した時点で小夜に渡されることになっているから残しておけば成人までの間に使われた家賃や食費として柊矢に譲られるというわけではない。

 でも、費用を抜きにしても旅行中は食事が作れないし掃除も出来ない……。

 小夜が住み始める前は二人でなんとかしていたのだから飢え死にが心配なわけではない。

 住まわせてもらってる代わりに料理や掃除をしているのだと思うと遊びに行って何日も家事をしないというのは気が引けるのだ。

 そのとき不意に胸元が熱くなった。下を見ると制服の下から光があふれていた。

 まさか……。

 小夜は襟元からクレーイスを出した。出す前から光っているのがクレーイスだということは分かっていた。

 咄嗟とっさに窓の方に顔を向けたが小夜の教室からでは西新宿の超高層ビルは見えないからムーサの森が出たのかどうか分からない。

 小夜はクレーイスに目を落とした。

 封印のムーシカは聴こえないから旋律が溶かされそうになってるわけではないようだ。

 でも、なんで……。

「ちょっと小夜、自重じちょうしてよ」

 清美が文句を言った。

「え?」

「彼から貰ったペンダント眺めるとかさぁ。あたし達まだ彼いないんだからね」

 清美だけではなく、香奈や涼花もまだ彼がいない。だからこそ縁結びの神社にお参りに行きたがってるのだ。

「ごめん、その……、なんか変な感じがして……」

「どこが?」

 三人とも怪訝けげんそうな表情をしている。

 清美達には光が見えてないんだ……。

「気のせいみたい」

 小夜は急いで制服の下にクレーイスを仕舞しまった。

「小夜と清美はともかく、香奈は旅行とか行く余裕あんの? 涼花だって次の試験の結果次第じゃ下のクラスに落ちるでしょ」

 いつの間にかそばに来ていた心乃美このみが言った。

 小夜達の高校は定期試験の度にテストの成績で科目ごとのクラスの編成が変わる。小夜と清美はそこそこだが香奈はいくつかの科目で一番下のクラスにいた。

「べ、別に親戚の家でだって勉強は出来るし、小夜や清美が一緒なら教えてもらえるし」

 香奈が言い訳をするように答えた。

 心乃美は小夜の方を向くと、

「先生、呼んでたよ」

 と言った。どうやら心乃美はそれを伝えに来たらしい。

「ありがと」

 小夜が礼を言うと心乃美は行ってしまった。

「心乃美は誘わないの?」

 清美が訊ねた。

「誘ったよ。でも、デートだって断られた」

「神社のお賽銭箱さいせんばこにお小遣い全部はたいてこなきゃ」

 悔しそうに歯がみしている清美を残して職員室に向かった。


 小夜が帰宅するとかすかなピアノの音が音楽室から聴こえてきた。

 いつもなら柊矢がキタラを爪弾つまびきながら待っているからピアノを弾いているのは楸矢だろう。

 高校三年で卒業式も近いから課題や試験などは無いだろうが大学でもピアノの授業があると言っていた。

 高校のときもそうだったのだが専攻している楽器とは別に副科としてピアノの授業もあるらしい。

 大学の授業の予習でピアノを弾いているのだとしたら邪魔しないようにしなければ。

 小夜は買ってきたものを冷蔵庫に仕舞しまい始めた。


 やがて玄関から、

「ただいま~」

 と言う楸矢の声がした。

 え、じゃあ、今まで弾いてたのは柊矢さん?

「珍しいね、小夜ちゃんがこの時間に歌ってないなんて」

 それに答えようとしたとき柊矢が音楽室から出てきた。

「なんだ、帰ってたのか。入ってくればよかったのに」

「楸矢さんがピアノの練習をしているのかと思ってたので……」

「ピアノは練習なんか必要ないぞ」

「それは柊兄とうにいだけ。副科だって練習必要でしょ。俺は試験前、いつも練習してたよ」

 楸矢は恨めしげに柊矢を見た。

 ヴァイオリンの才能もかなりのものだったがピアノの方もろくに練習してないのに上手くて、その上で一般科目の学業成績も良かった。

 二人が通っていた高校は音大付属の音楽科ということもあり実技重視で一般科目の成績はあまり良くないのが普通なのに。

 一日中ヴァイオリンを弾いていたのに何故なぜピアノや勉強まで出来たのか。

 柊矢の学生時代の成績を興味本位で覗いたときは自分の好奇心を呪った。

 そしてこの、自分が関心を持ってる事しか見えてない性格。

 いくら音楽室が防音とはいえ同じ家の中にればピアノの音は聴こえる。

 試験前にピアノを弾きまくっていたのが聴こえていたはずなのに試験のためだとは考えなかったのだろうか。

 音楽の才能といい、成績の良さといい、音楽と小夜以外には無関心な性格といい、あまりにも楸矢と違いすぎて祖父か両親が生きていたらホントに実の兄弟なのか問い詰めているところだ。

 二人ともムーシコスだから血の繋がりはあるはずだが片親が違うというのは十分有りる。

「歌うか?」

「楸矢さん、フルートの練習は……」

「歌った後でいいよ。ちょっと気晴らししたい」

 楸矢がそう言うと三人は音楽室に入った。


 夕食の片付けが終わると小夜は柊矢に音楽室に呼ばれた。

 柊矢はキタラではなくピアノを弾き始めた。多分さっきの曲だろう。

 綺麗な曲……。

 でも、これムーシカみたいな旋律だけど……。

「お前と椿矢のデュエットを聴いていて思い付いたムーシカなんだ」

「あ、やっぱり、ムーシカだったんですね。でも、どうしてピアノで……」

「これはデュエットのムーシカで男声パートと女声パートの説明はキタラだとちょっと難しいんだ」

 柊矢はそう言ってピアノを弾いた。

「これが男声パート。で、こっちが女声パートで、ここが一緒に歌う部分」

「じゃあ、柊矢さんと一緒に歌えるんですね!」

 小夜が嬉しそうに言った。

「いや、俺が歌っても聴こえないだろ」

「別に聴こえなくてもいいじゃないですか。私は柊矢さんと歌いたいです」

 そう言われてみればムーシカはムーシコスに聴こえてしまうというだけで聴かせなければいけないわけではない。

 聴かせるのが義務ならキタリステースの演奏が聴こえるのが特定の楽器を弾いたときだけのはずがない。

「そうか。なら、歌ってみるか」

 演奏は好きだが、小夜が椿矢と歌っているのを見て自分も一緒に歌えたらと思ったのも事実だ。

 高校や大学の副科で声楽もあったから歌えないわけではない。

 小夜が嬉しそうな表情になった。

 柊矢はキタラを手に取ると弾きながら歌い始めた。

 わぁ! 柊矢さんの歌声、初めて聴いたけどすごく素敵……。

 柊矢はキタリステースだからこの歌声が聴こえているのは目の前にいる小夜だけだ。

 柊矢の歌声を独り占め出来ていると思うとこれ以上ないくらい幸せだった。

 小夜は柊矢の歌声に聞き惚れた。

 女声パートに入ると歌詞が浮かんできた。小夜は歌い始めた。


 楸矢は小夜の歌声を聴いて顔を上げた。

 歌声が時々止まってキタラの演奏だけになる。

 既存のムーシカではない。しかも歌詞は恋人同士が語りあっているものだ。

「……まさかと思うけど、これデュエットなんじゃ……」

 やがて歌声と演奏が終わった。

 心の中で今のムーシカを思い浮かべてみると小夜の歌声が止まっていた部分にも歌詞があった。

 やっぱり、あれ、二人で歌ってたのか……。

 柊兄がキタリステースで良かった……。

 柊矢と小夜が互いに熱い想いを語り合っているムーシカを四六時中聴かされたりしたらたまらない。

 どうせならもっと早くくっついてくれれば大学の寮に申し込んだのに。

 今から申し込んでも入れてくれるかな……。

 今のデュエットはなんとなく雰囲気が昔のムーシケーがグラフェーに向かって歌っていたムーシカに似ている。

 ムーシケーのムーシカには歌詞はなかった――少なくとも聴こえなかった――し、グラフェーも歌ってなかった(多分)にしても、こんなムーシカを絶え間なく聴かされ続けて平気だったムーシコスって一体どんな精神構造してたんだ……。


 翌日、楸矢が大学の教科書を買っているとき、キタラの音が聴こえてきた。

「嘘だろ」

 思わず声が出てしまった。周りの人間が怪訝けげんそうに楸矢を見ながら通り過ぎていった。

 キタラの音だけが聴こえている。

 既存のものではないからまた柊矢が新しいムーシカを創ったのだ。

 ラブソングだし、そろそろ小夜が家に着く頃だからきっと歌って聴かせるのだろう。

 勘弁してよ……。

 楸矢が店を出るとキタラの演奏が終わった。

 入れ違いに椿矢の歌声が聴こえてきた。

 楸矢は向きを変えると高田馬場駅に向かって歩き出した。


 小夜は買い物袋エコバッグを抱えて家路を急いでいた。

 さっきキタラの音色が聴こえていた。

 新しいムーシカだったし柊矢がまた創ったのだ。

 家に帰れば柊矢が歌ってくれるはずだ。

 旋律も歌詞も分かってるとはいえ、やはり本人が歌うのを直接聴きたい。

 小夜の足は徐々に速くなっていき最後には駆けだしていた。


 椿矢は聴衆の中に大きな鞄を持った楸矢がいるのに気付いた。

 お開きになって聴衆がいなくなると楸矢は椿矢の隣に座った。

 すぐに小夜の透き通った歌声が聴こえてきた。

 椿矢はそれには加わらずに隣の楸矢を見た。

「君達っていつも一緒にムーシカ奏でてるのかと思った」

「今、柊兄と小夜ちゃんが二人で歌ってるから」

 聴こえているのは小夜と男のムーソポイオスの歌声と副旋律のコーラス、それとキタリステースの演奏だ。

 だが、これは昨日柊矢が作ったデュエットである。当然、聴こえてないだけで男声パートは柊矢も歌っているはずだ。

「やっぱり、柊矢君と歌ってたんだ」

「そ。柊兄の声が聴こえなかったのだけが救いだよ」

「同じ家なのに聴こえなかったの? よそで歌ってたとか?」

「うち、音楽室があるから」

「音楽室って、防音設備がある部屋ってこと? すごいね」

「あんたんち、ムーシコスの一族なんでしょ。無いの?」

「キタリステース用の楽器はどれも古楽器だからね。ムーソポイオスは声量押さえればいいだけだし」

 昔の楽器というのはそれほど音は大きくない。

 基本的には上流階級の人間が自宅などで趣味として弾くか、旅芸人などが広場で人を集めて演奏するものだったからだ。もちろん音の大きいものもあったことはあったが数は少なかった。

 現代のように大きいコンサートホールでの演奏会などが無かったから大きい音を出す必要がなかったのだ。

 ムーソポイオスも声量はそれほどない。

 ムーシカであればどこにいてもムーシコスには聴こえるから声楽家のようにコンサートホール全体に響かせられるような声量は必要ないのだ。

 不意に椿矢がくすくす笑いだした。

「何、いきなり」

「いや、小夜ちゃんの声しか聴こえなくても歌詞で恋人同士のデュエットだってことは分かったでしょ。沙陽あのひとどんな顔して聴いてたのかなって」

 確かにデュエットで小夜の声しか聴こえてなければ男声パートを歌っているのはキタリステース――つまり柊矢――ということくらい見当が付くだろう。

 歌声が聴こえなくても歌詞を知りたければムーシコスなら望めば分かる。

 今は男のムーソポイオスが男声パートを歌っているが。

「男の方、あんたの弟?」

「違うよ。少ないとは言っても僕達以外にも男のムーソポイオスはいるからね。けど今、柊矢君が歌ってるんだよね。柊矢君、怒らないかな」

「平気でしょ。っていうか、そもそも完全に二人の世界に入っちゃってるから聴こえてるかどうかも怪しいし」

 楸矢は肩をすくめた。

「榎矢がよく君達のこと血が薄いって言ってるけど、僕の知ってる中で一番ムーシコスらしいのは柊矢君と小夜ちゃんだね」

「それなら柊兄や小夜ちゃんは帰還派になってないとおかしいんじゃないの?」

「逆だよ。ムーシカさえ奏でられればそれで満足だから場所はどこでもいいんだよ。ムーシケーである必要ないってこと」

「そういうことか」

 楸矢が納得したように言うと椿矢が不思議そうな顔をしたので、小夜と大学の話をしているのを柊矢に聞かれたときのことを話した。

「俺が『柊兄は俺のために音大やめたから』って言ったら『それとお前の進路となんの関係がある』って答えが返ってきたんだよね。ドラマとかだと普通そのあとに続く台詞は『俺のことは気にするな。お前は自分のやりたいことをやれ』とかじゃん」

「なんて言ったの?」

 椿矢が興味を惹かれた様子で訊ねた。

「自分は音大付属も音大も音楽の授業が多いって理由で選んだだけで今の仕事は好きなときに演奏出来るから行く必要なくなったんだって」

 その言葉に椿矢は苦笑した。

 いかにもムーシコスらしい答えだ。

 ムーシコスはムーシカとパートナーにしか関心を示さない。

 ムーシコスにとってパートナーを抜かせばムーシカが全てだが、ムーシカは物質ではないから他人に奪われるということがない。

 何らかの理由で奏でることが出来なくなっても聴くことは出来る。

 例え聴力を失ってもムーシカは聴こえる。

 ムーシカは耳で聴いているわけではないからだ。ではどこで聴いてるのかと質問されても椿矢にも分からないが。

 とにかくムーシコスからムーシカを取り上げるのは不可能なのだ。

 そのせいかムーシコスらしい者ほど物事に執着しない。

 ムーシカとパートナー以外に大切なものはないが、ムーシカは誰にも取り上げることが出来ないし、ムーシコス同士のカップルの絆は物凄く強いので他人に横取りされることはまずない。少なくとも心は。

 そういう意味ではムーシコスの典型のような台詞だった。

「でもさ、音大やめるってことはヴァイオリニスト諦めるってことじゃん」

「ヴァイオリニスト目指してたの?」

「そう思ってたからヴァイオリニストになりたかったんじゃないの?って聞いたら『なってもいいと思ってた』程度だって」

「ヴァイオリニストって何年も練習しつづけた上で、ようやく一握りの人だけがなれるものだと思ってたけど違うの?」

「小学校から習い始めたって言うと可哀想って言われる世界だよ」

「……小学生が練習ばかりで遊べないのは可哀想って意味じゃないよね?」

「スタダが遅くて可哀想って意味。本気でヴァイオリニストにしようと思ってる親は二、三歳くらいから習わせ始めるから」

 小学生からでもスタートダッシュに遅れたと言われるくらいだから毎日練習漬けでもなれるかどうかは分からない。

 当然、なってもいい、なんて軽い考えでなれるようなものではない。

 本気で音楽家を目指してる者は皆、普通の人なら命が掛かっててもここまではやらないと言うくらい必死になっている。

 だからそのときはまだ楸矢の負担にならないようにそう言ってくれたんだと思っていた。

 何しろ楸矢が物心ついたときには柊矢は既に毎日一日中ヴァイオリンを弾いていた。

 大学で沙陽と付き合い始めてもほとんどデートもしていなかった。

 極稀にしたデートの約束もヴァイオリンの練習に熱中していてすっぽかしたりしていたくらいだ。

 恋人とデートもろくにしないほど練習漬けだったのも全てヴァイオリニストになるためだと思っていた。

 音大を中退しやめて以来ヴァイオリンにはさわっていなかったのは断腸だんちょうの思いで諦めたからに違いない。

 だからつらくて触りたくてもさわれなかったんだ、と。

 キタラはヴァイオリンにさわれないからその代わりに弾いているんだと思っていた。

「違ったの?」

「小夜ちゃんと恋人になってからは、しょっちゅう小夜ちゃんの前でセレナーデ弾いてる。ヴァイオリン弾くと小夜ちゃん喜ぶからさ」

 楸矢はげんなりした顔で言った。

「あんま腕落ちてないし、俺が知らなかっただけで、もしかしたら今までにも気が向いたときには弾いてたのかも」

 ヴァイオリンに限らず、楽器は一日練習を休むと取り戻すのに三日かかると言われている。

 ヴァイオリンはキタリステース用の楽器ではないから音が届く範囲にいなければ弾いていても分からない。弾くとしたら防音の音楽室の中だから柊矢が演奏してるとき家になければ聴こえない。

「小夜ちゃんの性格ならセレナーデに感激してくれるよね」

 小夜が喜んでるところは容易に想像が付く。ヴァイオリニストになれるかもしれないほどの腕だったという事はかなり上手いのだろうが、例え下手でも小夜なら自分のために演奏してくれたことを喜ぶはずだ。

「柊兄、ホントに自分のしたいことしてただけだったんだなって。そう思ったら、俺、今まで何やってたんだろって考えちゃってさ」

 楸矢は溜息をいた。

「元々、音大付属に入ったのも、柊兄は俺のためにヴァイオリニスト諦めたんだから代わりに俺がプロにならなきゃ、みたいな使命感あったけど、諦めたわけじゃないって分かったら拍子抜けしたっていうか……。俺も別に音大じゃなくていいかなって。フルートは好きだけど、フルート奏者になりたいと思ったことなかったし」

 気付いたときにはフルートを習っていたから自分の意志で始めたのかどうかも覚えてない。

 演奏が嫌いではなかった上に、普段は無関心に近い祖父がフルートの演奏だけは褒めてくれたこともあって物心ついたときには毎日の練習が習慣になっていた。

 そういえば柊兄と遊んだことは一度もないけど演奏だけはよく一緒にしてたんだよな。

 今思えば楸矢が音楽室を使う時間に演奏がしたかったから同じ曲を弾いていただけで柊矢に合奏しているという意識はなかったのだろう。

 何しろ突出とっしゅつした音楽の才能があって実技の点数が抜群だった柊矢が唯一あまりい点をもらえなかったのが合奏だった。

 一応合わせてはいるがちゃんとした合奏になってないと再三注意され、課題で弦楽四重奏を弾くことになったときは解釈の違いで喧嘩している他のメンバーを放っておいて一人でヴァイオリンを弾いていて教師に仲裁しろと叱られたと先生から聞いたことがある。

 楸矢は鞄を開けると買ってきたばかりの教科書を見せた。

「西洋音楽史概論とかさ、音楽家ならともかく、それ以外の職業で役に立つと思う?」

 椿矢は渡された教科書をパラパラとめくった。

「役には立たないかもしれないけど面白いよ」

「どこが?」

 楸矢の問いに椿矢は西洋音楽史概論の教科書の開いたページを見せた。

「古代ギリシアのピタゴラスは〝天球の音楽〟って概念を提唱したの。天球の音楽って言うのは惑星とかの天体は運行するときに音を発してるんだけどそれは音楽になってて、でも、〝全ての人が知覚出来るわけではない〟って言ってるんだよね」

 椿矢は大学で古典ギリシア語を専攻していたくらいだから天球の音楽についても前から知っていたのだろう。

惑星てんたいが発する……聴こえる人と聴こえない人がいる音楽?」

 椿矢はただ単にムーシカに古典ギリシア語のものが多いからと言うだけの理由でムーシコスが古代ギリシアに送られたのではないかと推測していたわけではないようだ。

 古代ギリシアのことを色々学んだ上でのことなのだろう。

「そして、古代ギリシアでは音楽は宗教や政治、哲学、数学なんかにも関わってたの」

「宗教はともかく、政治や哲学にも?」

「数学の部分は疑問に思わないの?」

「音楽は数学の応用だって授業で習ったから」

「数学の方が音楽の応用なんだけど、それはともかく、ピタゴラスの後、プラトンがアリストクセノスの〝新しい音楽〟について批判してるんだけど、それは裏を返せば今の音楽って言うのはその頃出来たもので、それ以前は違ったってことでしょ」

 確かにムーシカと地球の音楽はよく似てる。

 実際、椿矢が公園で歌っているのを聴いても珍しいメロディくらいにしか思わないから聴衆が集まってくるのだろう。

 音楽をやっている楸矢でもムーシカと地球の音楽の違いは上手く説明出来ない。

 ムーシコスに聴こえるかどうか以外に判別方法はないが、地球の音楽をムーソポイオスが歌ったりキタリステースが演奏しても聴こえない。

 そっくりではあるがムーシカと地球の音楽は違う。

 似て非なるもの。

 それがムーシカと地球の音楽だ。

「つまり、音楽はムーシコスが地球に持ち込んだって事?」

「いや、ムーシコスが来る前から地球にも音楽はあったよ。ドイツで三万六千年前の笛が見つかってるからね」

「まぁ、興味深いのは認めるけどさ、それ知ったところで食ってける? 俺、普通に地球人と結婚したいし、ちゃんと自分の家族食わせてけるようになりたいんだよね」

「地球人って条件は外せないんだ」

 椿矢が面白がってるような表情で言った。

「柊兄と小夜ちゃん見てたらムーシコスはちょっと……」

 楸矢の心底嫌そうな表情に椿矢が苦笑した。

 柊矢や小夜がどうこうではなく、ああいうカップルにはなりたくないということだろう。

「ムーシコス同士のカップルってみんなああなの? あんたの大伯母さんが地球人と逃げたって気持ち、すっげぇよく分かるんだけど」

 他人事ひとごとのように言っているが椿矢の大伯母というのは楸矢の先祖だ。

「まぁ、大体あんな感じだね。ほとんどが古典ギリシア語だから分からないだろうけどムーシカの大半はラブソングだよ」

「そうなの!?」

 と言ったもののムーシカを思い浮かべたとき旋律と歌詞の他に感情も伝わってくる。

 確かに今まで奏でたムーシカのほとんどは恋しい想いが伝わってきていた。

 小夜のムーシカラブソングを聴いて初めてその感情が創ったムーシコスのものだったと知った。

「典型的なムーシコスってムーシカとパートナーのことしか考えてないから、パートナーがいるムーシコスはラブソングばっかり奏でてるんだよね。大抵は既存のムーシカで、自分で創ることは滅多にないけど、あの二人は多分、何かって言うとムーシカ創っちゃうと思うよ」

 確かに一ヶ月かそこらの間に小夜が二曲、柊矢は半月足らずの間に三曲創っている。

 しかも柊矢の曲は全てラブソングの上にそのうちの一曲はデュエットだ。

 四六時中小夜ちゃんのこと考えてるってことか……。

「いつも小夜ちゃんのことばっか考えてるのに手ぇ出さないってすごい自制心だよね」

「自制心は関係ないよ。ムーシコス同士の夫婦って子供は多くても二人だし、いないことも珍しくないよ」

「もしかして、ムーシコスって繁殖期があったりするの? それとも子供が出来にくい体質とか?」

「そんな分かりやすい特徴あったらもっと簡単に地球人と区別付くでしょ。配偶者が地球人のムーシコスは子沢山の人、珍しくないし。ムーシコス同士のカップルにとって愛を確かめ合う行為ってムーシカ奏でることだけど、ムーシカ奏でても子供は出来ないから」

「それでよく絶滅しなかったね……」

 地球人らしさの方が強い楸矢には理解しがたかった。

 呆れた表情の楸矢を見て椿矢が笑った。

「あんたんちにもいるの? 何かっていうとムーシカ創っちゃうカップル」

「僕の周りにはいないよ。日本語のムーシカ、ほとんど無いでしょ」

「じゃあ、なんで創りまくるって思うの?」

「魂に刻まれるのはあくまでも旋律と歌詞だけで、作者は記録されないけど、曲調とか歌詞の言葉の使い方とかで、これとこれを創ったのは同じムーシコスだろうなっていうのは見当が付くでしょ」

 確かにそれに関しては地球人の創る曲も同じだ。

 作曲家や作詞家にはある程度、傾向があるから初めて聴いた曲でも作者の当たりが付くことは珍しくない。

 もっともムーシカの歌詞自体はすぐに思い浮かべられるが原語だから知らない言葉だと歌詞の内容までは分からない。

 椿矢は古典ギリシア語を知っていて歌詞が理解出来るから類似性に気付けるのだろう。

「数が膨大だから気付きづらいけど同じムーシコスが創ったなって思うムーシカ多いよ」

 椿矢はあくまで推測だけど、と前置きした上で、ムーシコスらしい者ほどよく創るのだと思うと言った。

 ムーシカのほとんどが古典ギリシア語なのも、ムーシケーにいた頃や地球に来たばかりの頃によく創られていたからで、ムーシコスの血が薄くなるにつれて創られなくなってきたから古典ギリシア語以外の言語のムーシカが少ないのだろうとのことだった。

 確かにムーシケーを凍り付かせている旋律を創ったのはムーシケーではなくムーシコスのようだし、凍り付く前に存在していたのだからムーシケーに住んでた頃に創られたということだ。

 以前、椿矢はムーシコスは人数が少なかったのではないかといっていた。

 実際、地球人の血が濃くなってきた今ですら子供が少ないということはムーシケーにいた頃は現代日本も裸足で逃げ出す超少子化社会だったに違いない。

 人数が少なかったにも関わらず惑星全体を覆ってしまえるほど膨大な数の旋律があるということはみんな日常的に創っていたということだ。

「あの二人はかなりムーシコスらしいムーシコスだから多分この先も創りまくるんじゃないかな」

「勘弁してよ。ただでさえ四六時中イチャイチャしてるの見せつけられてるのに……」

「柊矢君はともかく、小夜ちゃんって人目を気にしそうに見えたけど違うの?」

「イチャイチャって言っても基本的には柊兄が側にべったり張り付いて話してるだけだから。内容はかなり痛いけど小夜ちゃんって男女のことにはうといから気付いてないんだよね」

 楸矢は溜息をいた。

「あの二人が別れる可能性あると思う?」

 二人の幸せは願ってるし、特に小夜にはこれ以上傷付いて欲しくないが大学を出るまであれを見せつけられるのはかなりキツい。

 留年なしでも四年はかかるのだ。

 しかも楸矢の場合、実技はともかく他の科目は惨憺さんたんたる有様ありさまだから留年も十分考えられる。

「残念だけど……」

「ムーシコスってタンチョウみたいに一度くっついたら一生げるとか?」

 柊矢は沙陽と別れているからそんなことはないはずだが。

「タンチョウっていうか、ラブバードっぽいところはあるよ」

「何それ」

「ボタンインコとかコザクラインコはパートナーが死ぬと気落ちして、もう一方も死んじゃうことがあるからラブバードって呼ばれてるんだけど、ムーシコス同士のカップルも多いんだよね。片方が亡くなると、もう一方も後を追うように死んじゃうの。後追い自殺とかじゃないんだけど気付くと息を引き取ってるんだよね。ムーシコス同士のカップルってそれくらい絆が強いことが多いんだよ」

 インコと言うからにはラブバードというのは小鳥だろう。

 小夜ちゃんってホントに〝小鳥ちゃん〟だったんだ……。

 柊矢は小鳥と言うにはデカ過ぎるからやはりタンチョウだと思うが。

「ムーシコスはムーシカが全てでしょ。ムーシカ以外はどうでもいいから、他人が視界に入ることが稀なんだよ。見えなければ目移りのしようがないし、仮に目に映ったとしても興味を示すことは滅多にないから。特にあの二人はムーシカしか頭にないような典型的なムーシコス同士だし、ムーシカ以外はどうでもいいなら相手の欠点とかも気にならないでしょ。気が合わなければ、くっついたりもしなかったわけだし。あの二人が別れることはまずないよ」

 それでか……。

 柊矢は見た目もいいし将来有望なヴァイオリニストだったから学生時代はかなりモテた。だが付き合ったのは小夜の前は沙陽だけだ。

 あれだけモテてるのに誰とも付き合わないのは脇目も振らずにヴァイオリニストを目指して練習に没頭しているからだと思っていた。

 単に他の人間が眼中に入ってなかっただけだったのか。

 必死になって柊矢を追いかけ回してた女の子達に全く気付いてなかったのだと思うと彼女達には同情を禁じ得ない。

 沙陽はムーシコスだった――ムーシコスということは知らなかったにしても――から辛うじて目に映ったか、相当強引に迫って無理矢理視界に入ってきたかのどちらかなのだろう。

 友達もほとんどいないもんなぁ……。

 柊矢の数少ない友人も皆他人ひとの都合などお構いなしにぐいぐい押してくるタイプばかりだ。それくらいでないと柊矢に相手にされないからだろう。

「ねぇ、あんた大学で古典ギリシア語専攻してたって言ってたよね」

「うん」

「大学受験って大変だった? 普通の大学ってどのくらい勉強すれば受かるの?」

「それは大学や学部によって違うから一概には答えられないよ」

「そっかぁ」

 楸矢は肩を落とした。


「ただいま~」

 楸矢が帰ると、小夜が台所で夕食の用意をしていた。

「小夜ちゃん、今日の夕食、何?」

「お帰りなさい。ロールキャベツです。今は春キャベツがしゅんなので」

「へぇ、楽しみ。おやつは?」

 楸矢は鞄を床に置くと椅子に座った。

「卵焼き、甘めに作っておきました。教科書沢山買うって言ってたので疲れてるんじゃないかと思って」

 そう言って楸矢の前に卵焼きの載った皿を置いた。

「ありがとう! いただきま~す!」

 楸矢は早速食べ始めた。

「大学の教科書ってどんな感じなんですか?」

「俺もまだ見てないけど教科書なんて高校と大して変わんないんじゃないの?」

 楸矢はそう言って鞄に手を突っ込むと一番上の教科書を引っ張り出した。そのまま適当なページを開いて顔を引きらせた。

「字、ちっさ」

「小さくたって読めるだろ。老眼になるような歳じゃないんだし」

 台所に入ってきた柊矢が言った。

「そうじゃなくて、小さい字でびっしり書いてあるんだよ。こんなに分厚いのに」

「教科書だぞ! 当たり前だろ! お前、高校の教科書もまともに読んでなかったのか!」

「高校の教科書はもうちょっと字が大きかったし、行間だって空いてたじゃん。それにもっと薄かったし」

 柊矢の呆れ顔から目をらすようにして別の教科書を取り出して開いた。

「良かった。こっちは挿絵がある」

「挿絵って……。お前は小学生か!」

「楽器の構造とか、文章だけで説明されたって分かんないじゃん」

 楸矢は言い訳しながら教科書をテーブルに積み上げていった。

 そのうちの一冊の本が小夜の目に止まった。

 表紙には青地に大勢の人が描かれた壁画のような写真が印刷されている。

 教科書ではなく音楽史の入門書のようだった。

 小夜が引き寄せられるように手に取った。

 楸矢は慌てて、

「あ、ほら、音楽史って難しそうだから入門書が必要かなって」

 と弁解した。

「高校でも音楽史の授業はあっただろ! お前、ホントにちゃんと学校に行ってたんだろうな! どこかで……」

 その言葉を遮るように小夜が小さな声でムーシカを歌いだした。

 柊矢が口をつぐんで小夜を見た。

 楸矢も困惑したような表情で小夜に目を向けた。

 小夜の瞳は本の表紙に向けられているが見ていないのは明らかだった。

 柊矢と楸矢は顔を見合わせた。小夜が歌っているムーシカを思い浮かべてみる。聴いたのは初めてだが既存のムーシカだ。

「これ、古い日本語?」

「そういえばお前、古文の点数悪すぎて居残りさせられたことがあったな。あのとき俺も学校に呼び出されたんだよな」

 柊矢のとがめるような目付きに楸矢は顔を背けた。

 あの時は何も言わなかったのにしっかり覚えてたんだ……。

 ていうか、なんで中学のときのこと今頃怒るんだよ……。

 楸矢は横目で恨みがましく柊矢を見た。

 楸矢を叱ったものの柊矢にも歌詞の意味は判然としない部分が多かった。

 単純に古いと言うだけではなく、どこかの方言が使われているらしく学校で習う古文の知識では完全には理解出来なかった。

 かろうじて分かったのは、何かを探し求めて旅をしている途中らしいと言うことだ。

「小夜ちゃん、フライパン!」

 スープが沸騰する音に楸矢が声を上げた。

「あっ!」

 我に返った小夜は慌てて本を置くと火を弱めて被害状況を調べ始めた。

「小夜ちゃん、どうしたの、突然」

「え?」

「今のムーシカ、なんだったの?」

「よく分からないんですけど、急に頭に浮かんだって言うか、口をついて出てきちゃったって言うか……」

 小夜が困惑したように答えた。

 今のムーシカ、どこかで聴いたことあるような……。

 小夜は夕食作りに戻りながら首をかしげた。


「小夜、清美は?」

 休み時間、香奈が話し掛けてきた。

「電話してくるとか言って出ていったよ」

 多分、誰かに男の子を紹介してもらえるように交渉中なのだろう。

「小夜と清美が一緒に行ってくれるなら四人だからきっと心強こころづよ……楽しいと思うんだよね。それで秘密兵器持ってきたんだ」

 香奈は得意気にスマホの画面を小夜に向けた。

「それ何?」

 小夜の後ろから清美の声がした。

「清美に見せようと思って。ほら、この人、なかなかいと思わない?」

 香奈が清美にスマホを渡した。スマホには三人の男子が写っていた。香奈はそのうちの一人を指差した。

「そうだね」

 清美は気のなさそうな素振りで頷いた。

 ちらっとしか見えなかったが三人共イケメンとまではいかなくても顔は悪くなかった。

 いつもの清美なら食いついてるはずだ。

 一応好みはあるが清美はあまり見た目にこだわらない。

「この人、従兄の友達なんだけど、東京の大学受かったんだって。清美が親戚のうちに来てくれたら紹介するよ」

「ホント!? どこの大学?」

「東洋大」

「学部は?」

「理工学部」

 香奈が心持ち小さい声で答えた。

 東洋大の理工学部ってキャンパスは川越じゃ……。

「香奈、その人、都内に住むの?」

 小夜が訊ねた。

「あ、東京は家賃が高いから埼玉に……」

 香奈が目をらしながら言った。

 川越キャンパスって知ってるんだ……。

 まぁ、まだ紹介されてもいないし……。

「じゃあ、今日こそ説得する!」

 どうやら昨日は許可が下りなかったらしい。

「小夜は? 聞いてくれた?」

「ごめん、まだ機会がなくて……」

「そっか。今は送り迎えしてもらってないもんね。なるべく早く聞いておいてね」

 清美に口止めしてあるのでみんな小夜と柊矢が一緒に住んでいることは知らない。だから滅多に会えないと思っているのだ。

「うん」

 小夜は頷いた。

 許可が下りなかったと言って断ると柊矢を悪者にすることになってしまう。

 それは嫌だから何か他の言い訳がないか考えているのだが全く思い付かない。

 早く断る口実を考えなければならないが先日、先生に呼ばれたときのことで頭がいっぱいでそこまで気が回らないのだ。

 教師の話というのは大学のことだった。

 以前、高校の学費は遺産で払えると答えたが大学に行かれるだけの余裕があるかどうかは話してなかった。それを聞かれたのだ。

 もし進学したいのに経済的余裕がない場合、小夜なら奨学金を申請することが出来ると言われた。

 一応、私立を含め大抵の大学には行かれると聞いていると答えると教師は安心したようだった。

 だが小夜は教師に質問されたことで嫌でも将来のことを考えなければならなくなった。

 いつまでも霧生家にはいられない。

 十八歳までは柊矢が後見人だし、それまでは一人暮らしは認めてもらえないだろうが成人――つまり高校を卒業――したら出ていかなければならない。

 独り立ちしなければならないなら、それが出来るような進路を考える必要がある。

 でも、なりたいものがあるわけでもない状況で進路を考えろと言われても難しい。

 そのとき胸元に熱を感じた。

 クレーイスだ。見るまでもなく下から照りつけてる光が視界に映っている。

 しかし清美達の表情からするとこの光は自分にしか見えていないようだ。

「ちょっと、手、洗ってくるね」

 小夜はそう言って教室を出た。

 清美が探るような表情で小夜を見ているのには気付かなかった。


 西新宿方面が見える窓辺へ行ってみたがやはりムーサの森は出ていない。

 封印のムーシカは伝わってきていなかったから予想はしていたが。

 気付くとクレーイスの光は消えていた。

 まず間違いなくムーシケーが何かを伝えようとしているのだろうが、よほどのことがない限りはっきりとした意思表示はしてこないから小夜としてもムーシケーが何を言いたいのかよく分からない。

 沙陽さんにはムーシケーの意志が分かったのかな。

 沙陽に聞いてみたい気もするが、教えてくれるか――というか、それ以前に口を利いてもらえるか――疑問だし、何より教えてもらえたとして、その言葉を素直に信じられるかという問題もある。

 そういえば、沙陽さんの前は椿矢さんのお祖父様がクレーイス・エコーだったんだっけ。

 椿矢さんに聞けば分かるかな。

 小夜は予鈴の音を聞いて教室に向かった。


「あれ、あんた、ここで何してんの?」

 楸矢が公園を歩いている椿矢を見つけて声をかけた。

「早稲田大学の知り合いに用があってね。楸矢君は?」

「俺はうちがそこだから」

「帰るところ?」

「ムーシカが聴こえなくなったらね」

「ああ」

 椿矢は苦笑した。

 小夜の声が聴こえている。

 柊矢の創ったムーシカではないがデュエットだ。

 男声パートは男のムーソポイオスだから柊矢ではないが、柊矢が小夜と歌っているだろうことは想像にかたくない。

「幼馴染み三人で、そのうちの二人がくっついちゃうって結構キツいね」

「幼馴染み?」

 楸矢が怪訝そうな顔をした。

「違うの? 小夜ちゃん、男の人苦手みたいだから君達と普通に話せるのは幼馴染みだからかと」

 榎矢が、柊矢と楸矢は遠縁の親戚だと言ったとき小夜には言及しなかったらしいから彼女は雨宮家とは関係ないはずだ。

「柊矢君と付き合い始める前から結構夜遅い時間に一緒にいたし」

「あれ、聞いてないの? 小夜ちゃん、身寄りなくして柊兄が引き取ったんだよ。だから今うちで暮らしてる」

 楸矢は柊矢が小夜を連れてきたときの経緯いきさつを話した。

沙陽あの人、小夜ちゃんの家に火をけたの!?」

 さすがの椿矢も驚いた表情を見せた。

「関わってた事は本人の口から聞いたし、火のいたポイ捨てタバコが原因っていうのは新聞やニュースには出てなかったのに沙陽は知ってたって」

「確かにその頃、沙陽あの人がそのムーシカ歌ってたのは覚えてるけど……」

 強風を起こすムーシカなど利用することはまずない。

 特に都会で必要になることはない。

 というか田舎でも使わない。使い道がないのだ。

 以前、田舎に住んでいる椿矢の親戚が風力発電機を建てたことがあった。

 建設を請け負った会社から、ここは風が吹かないから場所を変えた方がいいと再三忠告されたのに、それでも構わないと言って強引に作らせた。

 そして完成した風力発電機の前で強風のムーシカを歌ったものの、風が強すぎてあっという間に風車が破損してしまった。

 最初に聞いたときは受けを狙って話を盛っているのだと思った。

 しかしその親戚の家に行くと壊れた風力発電機が野ざらしになっていた。

 風が吹かない場所だから直しても発電しないし、かといって解体するのも金がかかるから放置しているのだという。

 風車の高さと位置からして万一倒れてきたら家が壊れるよ、と忠告したら、なら屋根の補強をしないと、と言っていた。

 補強する金があるなら取り壊せるでしょ、と突っ込みたかったが何を言っても斜め上の行動に出そうだったので黙っていた。

 どうせ風車が倒れたところで壊れるのは椿矢の家ではない。

 元々ムーシカというのは自然の力を操る為にあるわけではない。

 本来は感情が旋律として発露はつろしただけだ。だから効果の微調整は出来ない。

 あのときも沙陽が歌っているのを聴いて、また良からぬたくらみにムーシカを使ってるんだなと思って覚えていたのだ。

 まぁ、それで柊矢が小夜を引き取ることになって結果的にくっついてしまったのだからまさに「人を呪わば」の典型といえるだろう。


 土曜日、清美は小夜のことで相談があると言って楸矢を呼び出した。

「すみません、急に」

 清美が頭を下げた。

「気にしないで。家を出る口実が出来てむしろ助かったよ」

「もしかして、柊矢さんと小夜、ですか?」

「そ。小夜ちゃんが喜ぶんで土日とかは柊兄が一日中ヴァイオリン弾きまくっててさ。参るよね」

 楸矢がうんざりした顔で言った。

 柊矢は自分のために音大を中退しやめたんだからと必死になっていたのがバカみたいに思えてくる。

「うわぁ……。それはキツいですね」

「ホントだよ」

 かなり閉口している様子の楸矢に清美も本気で同情した。

 小夜が柊矢達に聴こえるところで柊矢への想いをオリジナルソングで歌ったと聞いたときも引いたが、小夜はまだ十六歳だから〝そういう年頃〟ですませられる。

 だが柊矢の方もオリジナル曲のセレナーデで応えたと聞いたときはドン引きどころではなかった。

 いい年した大人のやることか? と思ったものの、楸矢から柊矢は将来有望なヴァイオリニストだったと聞いて、音楽をやっている人間とはそういうものなのかと納得しかけたが現在進行形で音楽家を目指している楸矢の様子を見ているとそうでもないみたいだから、やはり柊矢は少し変わっているようだ。

 どちらにしろ話を聞いてるだけでも痛過ぎるのに同じ家でそれを聴かされるなんて地獄だろう。

「ま、それはおいといて、小夜ちゃん、何か困ってるの?」

「困ってるって言うか……ちょっと心配で……」

「柊兄が手を出すんじゃないかとか?」

「いえ、そうじゃなくて」

 清美は笑って手を振った。どうやらその手のことは心配してないらしい。

 柊矢が手を出すことはないと思っているのか、出しても構わないと考えているのかまでは分からないが。

「小夜から、お祖父さんの遺産が入ったけど家賃や食費とかは柊矢さんが受け取ってないって聞いて、もしかして、あたし達に心配させないように遺産があるって言っただけでホントはないんじゃないかって……」

「それはないよ。どのくらいなのかは聞いてないけど」

 楸矢は即座に否定した。

「住んでた土地だってお祖父さんのものだったから売ったんだし。あの辺の土地の値段ってかなり高いじゃん。相当な額になったはずだよ」

「だから心配なんです。あたしの母の知り合い、親が亡くなって家を相続したそうなんですけど、都内に住んでたんで相続税が払えなかったから土地と家を現物納付? とか言うのをして、今は賃貸のマンションに住んでるそうです。小夜の住んでた土地もホントはお金がなくて現物納付したとかいうことは……。火事で全部燃えちゃったなら土地以外の財産は残ってませんよね? だとしたら土地を納付しちゃったら何も残らないんじゃないかと……。税務署ってお釣りくれます?」

 清美の話を聞いて楸矢は考え込んだ。

 都内の一戸建てに住んでいるというとバカ高い金を払って土地を買った――買うことが出来た――金持ちと思われがちだが都内でも昔は土地の値段もそんなに高くはなかった。

 昔といっても戦後の話だからそれほど前ではない。

 それに親やそれ以前の代から住んでるような家ならそもそも土地を買ったのは今の住人ではない。

 だから所有者も特に金持ちというわけではない――もちろん金持ちもいるが――。

 バブル景気で地価が高騰こうとうしたため住んでる人間が相続税を払えないと言う事態におちいることになってしまったのだ。

 新宿駅周辺も駅舎が出来たばかりの頃は東京の郊外で周囲には田畑でんぱたが広がっていた。

 広重の江戸百景の角筈熊野十二社つのはずくまのじゅうにそうは今の新宿駅のすぐ近くをえがいたものだが駅が開業したのはその絵が描かれてから半世紀も経っていない。

 西新宿に超高層ビルが建ち始めたのは更に百年近く経った七十年代からだ。

 柊矢が小夜を家庭裁判所や銀行などに連れていったから遺産が入ったという話だけ聞いて安心していたが、言われてみれば納税の話は聞いていない。

 いくら相続したのかが分からなければ相続税の計算は出来ない。

 小夜の場合は赤の他人だったから資産状況も全く分からなかったし手続きも普通より手間がかかった。

 赤の他人が財産に関する手続きをするには委任状が必要だが未成年の小夜では委任状を出すのも後見人にやってもらわなければならない。

 だから後見人になるところから始めなければならなかった。後見人になってからようやく手続きが出来るようになったらしい。

 柊矢はいちいち細かいことは言わないから遺産の受け取りにしろ納税にしろ詳しいことはほとんど聞いてない。

 霧生家は持ち家だから家賃は払ってないし固定資産税は住んでいる人数で増減したりはしないから二人でも三人でも同じだ。

 光熱費や食費なども小夜一人増えたところで大して変わるとは思えない。特に食費は自分達が食べてる量に比べたらそれこそ〝小鳥〟並みだから微々びびたるものだ。

 そんな端金はしたがねのために就職するまでは収入源のない小夜の遺産を減らす必要はないと思ったから受け取ってないのだと思っていた。

 遺産管理に関して後見人ができるのは保全だけで投資などでやしてやることは出来ない。

 だから何らかの収入がある資産でも持ってない限り遺産は減っていく一方なのだ。

 学費は小夜の受け取った遺産から出していると聞いているが、どちらにしろ都立高校の学費などたかが知れている。

 都立高校三年分の学費に入学金を合わせても楸矢の高校の学費一年分にもならない。

 しかし遺産の額も聞いてないが相続税をどれくらい払ったのかも訊ねなかった。

 考えてみれば同じ新宿区内とはいえバブル全盛期でさえ地上げ屋にスルーされた地区にある霧生きりゅう家と、地上げ屋が雲霞うんかごとむらがって食いものにされまくった西新宿にあった霞乃かすみの家では地価はかなり違うはずだ。

 しかもそのバブルの頃はまだ都庁舎は建っていなかった。

 都庁だけではない。あの辺はその後も高層ビルが増え続けている上に地下鉄の駅も増えた。

 いくらバブルがはじけて地価が下がったとは言っても都庁や新宿駅まで徒歩十分弱の距離では大して変わってないのではないだろうか。

 その上、霧生家の相続人は二人――柊矢と楸矢――だったが霞乃家は小夜一人。

 つまり土地の値段は霞乃家の方が遥かに高いのに控除額は霧生家の半分くらいということになる。

 柊矢はその手の手続きに詳しいし自分は説明されても分からないからえて聞いてなかったが清美の心配はもっともだ。

 柊矢のことだから小夜が無一文にならないように手を打っているはずだが、さすがに相続税を肩代わりは出来ないし、火事で全部焼けてしまったから残っていた動産は預貯金と保険金くらいのはずだ。

 動産で払えないとなれば土地を売って払うか現物納付(物納)するしかない。

 土地を売ったというのは本当だろうが、その金と保険金や預貯金が全て相続税の支払いにてられてしまっていたら遺産など残ってないだろう。

 預貯金が大量にあったのなら別だが、それはそれで支払わなければならない相続税の額が増えるということでもある。

 ふと顔を上げると清美が心配そうに楸矢を見ていた。

「あ、大丈夫だよ。小夜ちゃんから聞いてない? 柊兄って仕事で不動産関係の手続きよくやってるからそういうの詳しいし、うちは弁護士や税理士もいるし。ちゃんと小夜ちゃんが困らないようにしてくれてるよ」

 楸矢は安心させるように言った。

 仮に小夜が無一文でも養えるだけの余裕はあるはずだ。

 でなければ楸矢に私立大の医学部に行っても大丈夫、などと言ったりするわけがない。

 楸矢の成績を知っているのに医学部を持ち出したのは、金のかかる私立大の医学部へ行けるだけの経済的余裕があるという意味だ。

「そうですよね。小夜の告白に対する返事がオリジナル曲の演奏だったって聞いたときはドン引きしましたけど、普段はまともそ……じゃなくて、頼りになりそうですよね」

 清美が急いで言い直した。

「あはは。やっぱ引くよね~。セレナーデとかさぁ」

「小夜がその話したとき、楸矢さんどこにいたの?って聞いたんです。小夜、あたしが訊ねるまで、楸矢さんに聴こえてたことに気付いてなかったって知ったときには心の底から同情しましたよ」

 清美の言葉に楸矢は苦笑した。それから真顔になると姿勢を正した。

「ところで、小夜ちゃんの経済状態が心配って、何かあったの?」

「いえ、ただ、柊矢さん達に色々遠慮してるみたいなので……。まだ、デートもしたことないんですよね? あたしが小夜から誘えばって言ったときも言葉をにごしてましたし」

「ああ、なるほど」

 そういえば、初めて家に友達――清美――を呼んだのも一緒に暮らし始めてから何ヶ月もってからだった。

 それも楸矢を紹介して欲しいと頼み込まれてようやく呼んでいいか訊ねてきたくらいだから色々と遠慮しているのだ。

 食材の買い出しも楸矢達の方から言い出さない限り一人で行っている。

 柊矢も楸矢も荷物を持つからだろう。

 楽器の奏者の中には手にケガをしないように重い荷物を持たない者もいるが地球の音楽にうとい小夜はそんなこと知らないはずだ。

 ただ荷物を持たせては悪いと思っているから一人で行っているのだ。

 楸矢達からすればそれだけ大量の食材を買わなければいけないのは自分達が沢山食べるからなのだから、むしろそんなに重い荷物を女の子の小夜に持たせる方が申し訳ないのだが。

 そういえば、この前のロールキャベツも単純に喜んでたが一個につきキャベツの葉を丸々一枚使うのだから当然丸ごと買ってきたはずだ。

 柊矢と楸矢が二人で食べた数を考えるとキャベツ一つで足りたかどうかも怪しい。

 それに新じゃがが旬だからとフライドポテトを作ってくれたことがあったがジャガイモだって一個か二個だけ買ってくるわけではない。

 袋にはいくつも入ってるのだからそれだけでかなりの重さになる。

 しかもフライドポテトはともかくロールキャベツは中身やスープなどに他の食材だって使っているのだ。

 それを学校帰りに教科書などが入っている鞄と一緒に持っているのだから相当重かっただろう。

 つい甘えてしまっていたが毎日の食材の買い出しは小柄な小夜にはかなりの重労働のはずだ。

 他にも楸矢達の気付かないところで何かと気を遣っているかもしれない。

「小夜ちゃん、部活はしてなかったよね?」

 柊矢はいつも楸矢が帰る時間には家にいたから小夜が歌っていたのは学校が終わってすぐの時間のはずだ。

 部活をしていたならその時間に超高層ビルのそばで歌っていたはずはない。

 だから自分達に遠慮して部活をめたということはないと思うが確認しておきたかった。

「はい。そこは大丈夫です。うち、共学だから小夜、部活に入れないんですよ。男子と話せないんで。もちろん女子だけの部もありますけど、人見知りだし、運動部は体操服姿、男子に見られるかもしれないから嫌だって……」

 清美は楸矢が何を知りたかったのか分かったようだ。

「それもあって経済状態が心配だったんです」

「え?」

「だって、男子に体操服姿を見られるのも嫌なら女子校に行きますよね。でも、都立って女子校がないじゃないですか。だから、もしかして経済的に余裕がなくて私立に行けなかったのかなって」

 確かに都立高校は共学のみだ。

 男女比が物凄くかたよっていて女子校っぽいところもあるとは聞いているが男子が全くいない都立高はないはずだ。

 女子校に行きたければ国立か私立ということになる。

 国立ならお茶の水女子大の附属高校が女子校だが小夜が住んでた所からだと交通費が掛かる。

 小夜の通っている高校は都立高の中では上位十位以内のところだからお茶大附属も狙えたはずだ。

 お茶大附属に落ちたのでないなら徒歩で通えた都立高に行っているのは往復千円弱の交通費を節約したかったという可能性がある。

 お茶大附属は池袋駅からそう遠くないので時間がかかってもいいなら西新宿から徒歩通学も出来なくはないが片道一時間以上も歩いて通うのは現実的ではない。

「お祖父さんが生きてた頃の経済状態は分からないけど、仮に遺産がなくても、うちは小夜ちゃん一人くらい養ってあげられるから心配いらないよ。まぁ、遺産はあるはずだけど。今度、柊兄に聞いておくよ」

「ありがとうございます。小夜に楸矢さん達みたいな親戚がいてホントに良かったです」

「親戚?」

「違うんですか?」

「いや、親戚だよ。ただ、小夜ちゃん、俺達のことなんて説明したのか聞いてなかったから」

 楸矢は慌てて誤魔化した。

「何も聞いてませんけど、小夜は知らない男の人とは話せないので普通に話してるのは親戚だからかと。それに、柊矢さんが後見人になってますし」

「うん、遠縁の親戚なんだ」

 地球人は皆さかのぼれば一人の女性に行き着くと聞いたことがある。ならムーシコス同士の霧生家と霞乃家も一人くらいは共通の先祖がいるだろう。

「ね、清美ちゃん、小夜ちゃんが何か遠慮してるのに気付いたら、なんでもいいから教えてくれない? 多分、俺達じゃ気付けないこと多いと思うし、小夜ちゃん、自分からは言ってくれないでしょ」

「はい! 任せて下さい」

 清美が勢いよく頷いた。

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