怪奇図書「管理番号:5」


「ありがとうございましたー!」


 深夜とは思えない、朗らかな笑顔で頭を下げる駅員さんに、軽く会釈を返してから改札を通る。


 かざしたIDカードの下から流れる、ピッ!という聞き慣れた小気味いい音は、仕事終了を祝う合図の様にも感じて、自然に安堵のため息が漏れてくる。


 軽く伸びをして、左手の腕時計を確認すると、午前1時を軽く越えていた。

 まぁ、終電に乗ってからの終点なら、当たり前の時間ではある……。


 駅から出ると、毎日見慣れた暗い歩道が広がる。その中で、街灯だけが明るいのも、悲しいがいつもの光景だ。


「疲れたなぁ……」


 脱いで畳んだスーツの上着を脇に挟み、首のネクタイも緩めながら、歩を進める。駅の屋外灯を離れ、ポツポツと道にある街灯をゆっくりと辿りながら、駅の隣にある複合施設に向かう。


 田舎ではあるが、休日や昼間には人が溢れるそこは、スーパーやコンビニ、飲食店やホームセンターなど、生活をおくる上で必要なものが全て纏められた施設だった。

 そんな普段の賑やかさとは打って変わって、真夜中のそれは、建物前の道路にある仄かな街灯と、一階のコンビニの明かりに照らされて、不気味に鎮座していた。


 深夜に見るその姿は、まるで、小さな光で人間を誘き寄せる巨大な真っ黒い化け物の様で、俺は少し苦手だった。


 怖い話は得意でもないが、苦手でもない。そんな俺がそう感じるのも、きっとこの環境のせいなんだろう。

 駅前こそ明るいが、少し進めば、真っ暗な中に、点々と続く街灯と、見渡す限りの田んぼが広がる光景は、人がいないのも合わさって、とても不気味に見えた。


 家賃の安さに釣られてここを選んだとはいえ、毎日夜遅くにこんな風景ばかり見てると、恐怖心が生まれても仕方ない。


「らっしゃいませ~!」


 聞きなれたお兄さんの気怠げな声を聞きながら、巨大な真っ黒い化け物と例えた建物……その中にあるコンビニに入る。


 仕事が終わった嬉しさに、意気揚々と店内を歩きながら、入り口で掴んだ籠に必要なものをポンポンと入れていく。


 不気味だ、何だと揶揄したが、この場所は、別に悪いことばかりじゃない。

 そう! このコンビニは、24時間営業なのだ。聞く人によっては、何言ってるの? そんなの当たり前じゃん! と思うかも知れないが、ここまで都会から離れた場所だと、夜の12時を回る頃には、コンビニですら閉まっていたりする。


 何故、このコンビニが今の時間でも開いているのか? その理由は、近くの建物のお陰だった。


 駅や複合施設から出て、目の前にある歩道を横切ると、大きな道路があるのだが、そこの横断歩道を渡った先に、山を切り開いて作った、心護しんご製薬という大企業の研究施設が、幾つもある。


 このコンビニは、そこの社長が研究施設で、日夜働く社員の為に、複合施設の敷地を一部買い取って招いた物らしい。


「うちの社長も見習って欲しいよ……」


 小声でそう呟きながら、ビール2本を籠に放り込む。まぁ、うちの社長に、テレビでCMもやっているような、誰もが知ってる大企業の社長と同じことをしろっていうのは、土台無理な話かもしれないが……。


 色々と詰め込んだ籠をレジまで運ぶ。見慣れた茶髪にピアスのお兄さんが、手際よく籠の中の物をレジに通していく。

 ピッ! ピッ!とリズムの良い音を聞きながら、レジ横の揚げ物に目を奪われる。


(どうする? 食べたいけど、この時間から揚げ物はなぁ~、明日も仕事だし、朝から胃もたれはキツいだろうし…………いや、でもお腹減ったしなぁ!)


 そんな事を考えていると、いつの間にか商品をレジに通す音が止んでいた。

 もう終わったのかと、慌てて財布をポケットから取り出し、店員さんと向き合うと、その手には、商品とスキャナーがまだ握られたままだった。


「うん?」


 止まったままの店員さんに、文句でも言おうと、声をかけようとしたが、じっと外のある一点を見続けるその姿が気になって、自分もそちらを向いて見る。


 このコンビニは、入って直ぐ右側にATMがあり、その隣にレジがある。店員さんが見ていたのは、入り口の左側、雑誌コーナーのガラス張りの壁……そこから見える、外の景色だった。


 俺が最後に籠に入れたビールは、雑誌コーナーと、その対面の商品棚との間にある通路を歩いた先にあり、店員さんが、今見ている外の風景も、俺が商品を持って通った時と、何ら変わった様子は見付けられなかった。


「あの~? いい加減終わら……っ!?」


 レジの催促をしようと店員さんに向き直ると、じっと外を見ていた彼は、いつの間にか、俺の事を真正面から凝視していた。


(何だよ~! 怖いんだよ!)


 驚きながらも、自分がこの人に対して、何か気に障るような事でもしたのかと、考えを巡らせてみる。


 どれだけ思案しても出てこない。やっぱり、俺は何もしてない。

 というか、コンビニに入ってから、商品を籠に入れてレジに持っていく以外の行動はしていなかった。


「……あのー?」


 店員さんの様子を見て、恐る恐る、もう一度声を掛けてみる。


「………………あっ! すみません!」


 声を掛けられた彼は、焦った様に目を逸らし、籠の商品を急いでレジに通して、袋に詰めていく。

 その姿を見て、疑問も残ったが、もう夜も遅い。

 見た所、深夜に一人で働いているみたいだし、店員さんもきっと、疲れてぼーっとしてたのかも知れない。

 そう勝手に納得しながら、手渡された袋と仕事のカバンを抱え、コンビニの入り口に歩いていく。


「あの~」


「……はっ、はい?」


 背後から、いつもの気怠げな声に呼び止められる。

 振り返ると、カウンターからわざわざ出てきたのか、先ほどの店員さんが直ぐ後ろに立っていた。


「どうしました?」

「………………」


 聞いてみるが、返事はない。やっぱり俺、何かした?


「………………付けて下さい」


 そんな馬鹿な事を考えている間に、店員さんは何かを小声で呟いていた。


「……はい? 今、何て……?」


 思わず聞き返す。こちらをしっかりと見ながら、神妙な面持ちの彼は、今度はハッキリと俺にこう伝えてきた。


は、気を付けて下さい」


「……は、はぁ……? あ、ありがとうございます」


 何を言ってるのかは理解出来なかったが、彼が俺を心配してくれているのだけは伝わったので、とりあえずお礼を言って、コンビニを後にする。


 コンビニを出てからも、相変わらず景色に変化はない。


 耳を澄まして、聞こえてくる音といえば、ここに住んでいれば嫌でも毎日耳に入る、虫や蛙の鳴く声だけで、何かおかしな感じはしなかった。


 辺りに広がる、田んぼや土の匂いを吸い込む。自然が大好きという訳ではないが、何故かその匂いを嗅ぐと安心出来た。


 暗闇の中に点々と並ぶ街灯たちを見ながら、目の前の、横に続く歩道を突っ切り、その先の道路にある横断歩道を渡る。


 渡った先には大きな階段と、その左側に、ここ目的で来た人の為の案内図が立っていた。

 それには、階段を上った先にある、心護製薬の各研究施設の説明と場所が、細かに書かれている。


「やっぱり凄い数だなぁ……まぁ、俺には関係ないけど」


 階段と案内図を横目に、そこから右に曲がって真っ直ぐ歩いていく。俺が住んでいるマンションは、この先にある。


 のんびりと歩きながら、2本買ったビールのうち1本を取り出す。

 ビールを開けた際の、プシュという音にウキウキしながら、渇いた喉を一気に潤す。


「んっ…………くぅ~! うめぇ~っ!」


 歩道をのんびりと歩きながら、景色を楽しむ。


 俺から見て、左側には急勾配の坂があり、右側には道路を挟んで田んぼが延々と並んでいる。つまみにするには淡白な景色だが、引っ越してから1ヶ月の自分には、まだまだ目新しい。


 ビールの残りをちびちびと飲みながら、先ほどあった、コンビニでのやり取りを思い出す。


 仕事終わりの帰宅時間が、大体このぐらいなのもあって、平日中は、毎日あのお兄さんと会ってた気がする。

 といっても、レジの時に顔を合わせる程度で、冗談を言い合う程の仲でもなかったが……。


 まぁ、考えた所で分かるわけはないだろうし、もういいか!

 酔いが回ってきたせいか、細かい事はどうでも良くなってきていた。


 荷物が重い。目指す我が家はまだまだ先だ。

 前回、住んでた家の半分の家賃に関わらず、広さは倍という素晴らしい物件だが、駅から家までの遠さだけはいただけない。


 実は、俺が住んでるマンションも、心護しんご製薬の社員寮の一角だったりする。

 珍しい事だが、入居している人間が少ないとか何とかで、本来研究施設の職員や、その家族の為に用意されたマンションを、一般にも開放してくれているらしい。


「社員寮って言うなら、せめてもう少し研究施設の近くに建ててくれれば良かったのに……」


 呟きながら、缶に残ったビールを飲み干し、その空き缶をコンビニの袋に押し込む。


「あぁ~、ダメだ。眠くなってきた……」


 重くなる瞼をこすり、顔を上げた――――その時だった。


「うん……?」


 目の前に広がる風景に、何故か違和感を覚えた。だが、酔ってるからなのか、何に対してそう感じたのかが、自分でも直ぐに分からない。


 足を止め、辺りを見回す。目に入る光景は相変わらず、左側の急勾配な坂と道路を挟んで、右側一面に広がった、田んぼだけだ。

 頭上の歩道を照らす街灯にも、特におかしな所はない。


「…………いや、待てよ?」


 ゆっくりと前を向く。真っ直ぐ伸びた歩道の先。遠くまで見える、点々と等間隔に並べられた、歩道を照らす街灯。


 自分の頭上にある明かりから数えて5、いや6、7ぐらい先か? そこの街灯が不自然に点滅していた。


「何だ、あれ?」


 特技と誇れる訳でもないが、視力だけには自信がある。そんな俺の視界に、今までの違和感の正体が現れた。


 チカチカと、まるで誰かがスイッチのONとOFFを激しく切り替えてるように、遠くにある街灯が明滅しているのだ……。


 その様子をじっと眺めていると突然、7本ぐらい先の街灯の明かりだけが完全に消え、そこが真っ暗になった。

 6本目と8本目が、絶えず光を放つ中、間の7本目だけが不自然に消えているのは、どう見ても不気味な光景だ。


 俺の頭には、接触不良という言葉が一番最初に思い浮かんだが、その考えは、まもなく吹き飛ぶ。

 何故なら、明滅がしている事に気付いたからだ……。


 頭上の街灯から数えて、7本先の街灯の明かりが消えた後、少し経ってから、今度は6本目が明滅し出していた。


 その明滅にも法則があった。最初はゆっくりと明かりが消え、また直ぐにつく。その繰り返しだ。

 やがて、その間隔が短くなり、明かりがまた完全に消える。

 6本目に突然訪れた暗闇の先では、直前まで消えていたのが嘘のように、7本目の街灯が、再び光を放っていた。


 そこまで来てやっと、俺の心の中に警報が鳴り始める。


 今まで、見たことのないおかしな光景に背筋が凍っていく。

 俺の目には、消えた街灯の場所には、暗闇以外何も見えていなかった。


 だが、間違いなくそこには


「に……逃げないと!」


 一歩、二歩と後退りする。恐怖で足が思うように動かない。

 もたもたしている間にも、街灯の暗闇が6本目から5本目に移動していた。


 その光景に、俺の頭は今までに感じたことのないくらい、混乱していた。


(警察を呼ぶ? それとも大声で助けを呼ぶ?)


 今からでもスマホで……いや、近くに誰か助けてくれる人がいないか辺りを見回そう。


(いや、そんなことして何になる? どう考えても間に合わない!)


 警察に繋がったとして、周りの誰かに助けを求めたとして、目の前に迫るがこちらに来るまでに、どうにかなるとは到底思えない。


(じゃあ今すぐ後ろ向いて走り出すか?)


 でも、を視界から外して本当に大丈夫なのか?


 街灯があるとはいえ、辺りは元々暗い。俺が道を外れて逃げて、あれも一緒に移動なんてして来たら……。


 想像するだけで体が震えてくる。明かりがあるから、あれのいる場所を確認出来るのだ。


 必死に考えるが、残された猶予は殆どない。4本目が今、明かりを失った。


「クソッ!」


 踵を返し、全速力で走り出す。一歩、二歩と地面を強く踏む。

 普段から運動してる訳でもない俺の体は、数十秒と経たずに音を上げ始める。


「もういい!」


 手元に抱えていたカバンとスーツの上着、コンビニで買った袋を、そのまま地面に投げ捨てる。

 こんな物を抱えたまま走り続けられる程の余裕は俺にはもうない。

 捨てたと同時に、後ろの様子も確認すると、そこではちょうど2本目が消えた所だった。


「嘘だろ?」


 明らかにこちらに近付いて来る速度が上がっている。

 一瞬だったが、2本目が消えた所で、1本目が既に明滅しているのが見えた。

 あんな速さで来られたら、直ぐに追い付かれるのも、時間の問題だろう。


 肩で息をしながら、必死に足を動かす。酔いが回ってきたせいか、頭がくらくらして来た。


 走り続けながら、これが酔って見た幻覚であってくれと何度も思うが、そんな願いも、背後で何かを踏み潰す様な、ぐしゃっという音で掻き消されてしまう。

 これは多分、先ほど捨てたコンビニの袋に入っていたビールの缶が潰れた音だろう。


 その不愉快な音は、俺のもう直ぐそこまで、が近付いて来ている事を証明していた。


 恐怖で震える足を手で叩き、ゼーゼーと悲痛な叫びを上げる喉を無視して、痛む横腹を押さえながら、必死に走る――――走り続ける。

 頭上の街灯を何度も、何度も見送って、体がばらばらに壊れるんじゃないかと思い始めた頃……。


 どれくらい経ったのか。逃げる俺からすれば、この時間は永遠なんじゃないかと錯覚する程だったが、足がもつれ、そのままの勢いで地面に倒れ込んだ痛みが、体に直接そんな事はないと伝えて来た。


 だらだらと全身で汗をかきながら、倒れた体を無理矢理起こして、周りを確認する。


 街灯は? 恐る恐る辺りを見渡すと、先ほどの光景が嘘だったかの様に、均一に、遠くまで並び続ける街灯は、1本も欠けることなく、その輝きを維持していた。


 普段は頼りない光としか思っていなかったこの明かりに、こんなに安心する日が来るとは夢にも思わなかった……。


「…………助かった……のか?」


 上がる息を整え、恐怖心から、口の中で歯と歯がぶつかり合ってガチガチと鳴っていた不愉快な音も、やっと落ち着いてきた。


 俺は助かったんだ! やった! 逃げきった! これは、きっと悪い夢だったんだ!




 ――――そう、喜んだのも束の間だった……。



 

 フッ……と頭上の明かりが消える。




「うわぁ!!!!」


 叫ぶと同時に、強烈な寒気が襲ってくる。氷の浮かんだ真冬の海にでも飛び込んだのかと、錯覚するような大きな寒気。


 恐怖に震える体を、それでも何とか鼓舞して、逃げるために立ち上がった俺の足に、強烈な痛みがはしる。

 まるで、俺の足の輪郭を確かめるように、がゆっくりと、恐怖に震える俺を嘲笑うように、上半身まで這い上がった後、その動きが止まった。


 俺の目の前には暗闇しかなかった。ただの暗闇じゃない……蠢くようなそれは、獲物を今か今かと待ちわびる化け物にしか見えない。


 全身を襲う強烈な寒気と痛みに、俺の心は今までに感じたことがないくらいの、凄まじい恐怖に支配されていた。


 さっきまで、うるさい程に聞こえていた、虫や蛙の鳴き声はいつの間にかピタリと止まっている。


 何も聞こえない、何も見えない、そんなしんと静まり返った暗闇の中で、最後にただその一言だけが、俺の耳にハッキリと聞こえて来た……。



















「つかマあぇタァ……!」



















 丁寧に綴じられた一冊の本をゆっくりと閉じる。本の背表紙には最近貼られた物なのか、ペンなどで記入出来るように枠が分けられた、綺麗な白色のシールが貼られていた。


 そこにはこう書かれていた……。


タイトル:暗闇

年代番号:V

管理番号:5

管理ジャンル:ホ

危険度:


 俺には、それぞれの項目が何を意味するのかよく分からなかったが、他の部分は黒色で文字が書かれているにも拘わらず、危険度の所だけオリーブ色寄りの緑色で、印が付けられているだけなのが気になった。


 読み終わった本をずっと見ていても暇なので、腰掛けていたソファーから立ち上がって、体をほぐす為に、伸びをする。


「……南様」

「うわぁっ!!」


 一人だと油断していた所に、背後から突然声を掛けられた驚きで、前方に倒れ込んでしまう。

 集中して読んでいたせいか、今の今まで、全くそんな気配を感じなかった。


「……お怪我は御座いませんか?」


「一応。というか……」


 立ち上がって振り向いた先には、メイド服を着た綺麗な女性……カミラさんが、俺を助け起こそうとこちらに向けて手を伸ばしていた。


「……はい?」


「この本は何なんですか?」


 先程まで読んでいた本を掲げながら、気になっていた事を質問してみる。


「……全て現実の話です」


「えっ? この本に書かれていた事が現実……? そんな事……」

「……この本は」


 俺が否定する前にピシャリと話を遮ったカミラさんは、ゆっくりと口を開いて、こう続けた。


「……


 俺は、彼女が突然伝えてきた、とても信じられないような話に、驚きを禁じ得ない。


「いくら何でもそんな馬鹿な話……。それに、この本の内容はまるで、登場人物の視点その物じゃないですか」


 そうだ。直接見て書いたと言うなら、その内容は客観的な物になる筈だ。

 だけど、この本の内容は登場人物が何を見たか、どう感じたかまで詳細に書かれている。


「……それは……。私が知っているのは、お祖父様から口頭で伝え聞いた情報のみで、実際にどう見えていたのか、私にもハッキリとは分かりません」


 俺の問いかけの答えは彼女も持ってないようだった。

 実はじいちゃんが趣味で書いていた恐怖小説だった……とか言われた方がまだ納得は出来る。


「……その本の内容が現実だと、直ぐに信じて貰う方法がはあります。でも、私はその方法を望みません。ですが……」


 俺の目の前に一歩進み出た彼女は俺の片手を両手で包み込んだ。

 まるで、神に祈りを捧げるシスターのように、優しく包み込まれた手から、彼女のほっとするような体温が伝わってくる。

 だが、その手は何かに怯える小動物のように、小刻みに震えていた。


「……お祖父様と、私を――どうか……どうか、信じて頂けないでしょうか?」


 ゆっくりとそう言う彼女の表情は、何故かとても悲しげで、苦しそうで、でもとにかく必死な事だけは伝わって……。

 そんなカミラさんを見た俺には、彼女が何でそんな顔をするのか聞き出すことも、馬鹿な話だともう一度言う事も、とてもじゃないが出来なかった。


 俺にとって彼女は、亡くなったじいちゃんの事を知る為の手掛かりではあるが、まだ殆ど知らない赤の他人の筈だ……。

 だけど、何故だか……知り合って間もない彼女がそんな顔をするのはとても見ていられなかった。


「………………分かりました」


「……えっ?」


「信じます」

「……本当ですか!」


 その言葉を聞いた瞬間、カミラさんは綺麗な花が満開に咲くような笑顔を見せてくれる。

 しかし、そんな顔は一瞬だけで、直ぐに能面のような無表情に戻ってしまった……。


 会って間もない相手との、そんなおかしなやり取りに少し笑いつつ、考える。


 信じるとは言ったものの、正直まだ半信半疑な所はある。でも、きっと大丈夫だ!

 これから先、じいちゃんや、彼女の事を知る時間はまだまだある。

 ゆっくりと知って、のんびりと考えて、それからもう一度結論を出せばいい……。


 だが、そんな風に考えていた俺の時間は、長くは続かなかった……。


 今になって思えば、あの本がじいちゃんが書いた物だと。

 冷ややかにも聞こえる声音で伝えられたその真実に、驚くと同時、何処か納得していた部分もあったのかも知れない。


 この一冊が始まり……。


 これから出会う、奇々怪々な物語や、様々な人物たちとの始まりであり、でもあった。

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