終章 証

第32話 もう一つの理由

 救急搬送された綾夏は、そのまま集中治療室で処置を受けることになった。

 綾夏が倒れた場所が自宅の目の前だったことが不幸中の幸いか、すぐに家族の人が集まって彼女を病院に搬送する手はずを整えてくれた。


 僕一人の状況のときだったら、きっと慌てるどころの騒ぎではなくなっていただろう。

 そんなことは起きないと、どこか決めつけていたのかもしれない。

 人が目の前で倒れることの恐怖を。しかも、ついさっきまで話していた相手ならなおさらだった。


 集中治療室から一般病棟に戻ったという知らせを受けたのは、それから一週間後のことだった。

 入院病棟の入り口をくぐり、ナースステーションで面会の旨を伝えると、看護師さんが「涼野綾夏」と書かれた個室に案内してくれた。


 「――失礼します……」


 震える手を何とか抑えながら引き戸を引くと、そこにはベッドに横たわっている綾夏と、その側で彼女を見つめる両親が座っていた。


 「君は……藤木蓮くん、だったかな」


 「はい。綾夏さんと同じ部活の藤木蓮です」


 「そうかそうか、君が綾夏が倒れたときに一緒にいてくれた、あの……」


 綾夏のお父さんは、柔らかい笑みで僕を出迎えてくれた。

 綾夏が倒れた当時、家にはお母さんしかいなかったから、後で僕がいたことを聞いたのだろうか。


 でも、実際僕は何もすることができず、ただ綾夏のことを支えることしかできなかった。

 だから、このときのお父さんの笑顔を僕は素直に受け入れることができないでいた。 


 「――お父さん、お母さん……ちょっと蓮くんと話がしたいから、二人にしてもらってもいいかな?」


 本人は普通に話しているつもりなのだろうけど、明らかに声が掠れていた。

 近くにいる人にしか聞こえないくらいの小さな声、息を吹けば消えてなくなってしまうようなくらいの弱々しい声だった。


 綾夏のお父さんとお母さんは無言で頷くと、静かに病室の外に出ていった。


 「――さて、と」


 綾夏は電動式ベッドを操作してゆっくりとその身体を起こしていく。


 「……っ」


 僕は言葉を失っていた。

 綾夏と最後に顔を合わせたのは、綾夏が倒れたあの日。


 それからたった一週間しか見ていないのにもかかわらず、綾夏は変わり果てていた。


 そのときそのときの感情に合わせてころころと動いていた表情筋はほとんど見えなくなっている。

 どこかで生気を吸い取られてしまったかのように顔の色も真っ白で、血色が悪いのが一目見ただけで分かった。


 以前病院で綾夏のやつれた姿を見ていた僕だったけど、今僕が目にしている綾夏のそれは、そのときとは比べ物にならないくらい酷いものだった。


 そんな彼女と目を合わせることも辛くなった僕は、顔を伏せるようにしてその場にある椅子に腰かける。


 「――話があるんじゃなかったのか?」


 クーラーを付けるために窓を閉め切っても、外から聞こえてくるセミの鳴き声は、この場所がどんな雰囲気になっているのかを全く分かっていないようだった。


 「――私がなんで文芸部に入ったのか、蓮くんは知ってるよね?」


 「それは……自分がたしかにこの世界に存在していたという証を残すため……だよね」


 「そう……実は、もう一つあったんだ」


 「文集を作るだけじゃなかったのか……?」


 「忘れていたの……それで、さっき思い出した」


 綾夏は窓の外の景色をぼんやりと眺めている。


 「私も……本が好きだったの」


 「へぇ、それは意外だった。あの綾夏がまさか読書好きとは」


 いつもなら「何でそんな風に私を決めつけるの⁉」なんて大きな声で反論してきていた。

 僕は無意識のうちにそう言い返してきてくれることを期待していたのかもしれない。


 「あはは……そうだよね。絶対蓮くんならそう言うと思ったよ……」


 でも、返ってきた言葉はよれよれとしていて、力強さは全くなかった。


 「でも、どうして……」


 「私ね、ずっと病室にいて、テレビ見るのも飽きちゃって……。そんなときにお母さんが持ってきてくれたのが、一冊の本だったの」


 そう言うと、綾夏は机の上に置いてある一冊の文庫本を指差した。

 僕がそれを手に取って綾夏に手渡す。


 「この本はね、困難に立たされている女の子が、色々な人の力を借りながらそれを乗り越えていくお話なの。私、それまで本なんて全く興味なかったんだけど、これを読んだら、一気に本の虜になった気分になれたの……すごい単純でしょ? 私って」


 「そんなことはないよ。どんな理由であれ、好きになれたのには変わりはないんだから」


 世の中のものを好きになるときに、確固たる理由なんて必要はなくて、「何となく気に入ったから」で僕は十分だと思う。

 逆に、取って付けたような、それっぽい理由を付ける方がよっぽど不自然だ。


 もともと人間は本能で生きてきたのだから、本来は理由なんていらなくて、直感の行くままに物事を進めるのが普通といえる。


 「それ以外にもたくさん読んだの。等身大の学生たちの恋愛物語とか、ちょっと非日常な物語とか……それはもうたくさん。それでね、私思ったの――やっぱり本っていいなって」


 「どうしてそう思ったの?」


 「だって、私はこの世に一人しかいないから、やりたいことがあっても、人生には限りがあるから、そのときできるのはたった一つで、何でもできるわけじゃない」


 たしかにそうだ。

 何でも出来たら、それをすることに価値を見出すことができなくなって、ありがたみを感じなくなってしまうかもしれないから。


 「でも、本を読めば、その本の中に広がっている世界に行くことができる。何冊も読めば、その分だけ多くの世界を見ることができる、知ることができる、感じることができる――これってすごいことだと思わない?」


 「それが本の良いところなんじゃないか」


 できないことがあるからこそ、本の中の登場人物に自分を投影して擬似体験をすることができる。

 それに関してはまったくもって綾夏と同意見だ。


 「――でもね……現実の体験は想像するよりもずっと楽しくて。五感で実際に感じることで分かるものってあるんだなって思ったの」


 そのときの感動を思い出しているのだろうか、綾夏の瞳には少しだけ輝きがあるように見える。


 「だから私、二か月間だけだったけど、すっごく満足できたんだ。もう後悔のないくらいに」


 「ちょ、ちょっと綾夏……?」


 そんなに自信ありげに言われてしまったら、僕はどう答えていいのかわからなくなってしまうだろ。


 「やっぱり、最期まで楽しむって決めて良かっ――」


 「綾夏っ……」


 声音は努めて抑えたつもりだったけど、綾夏の動きはぴたりと止まった。

 口元は笑おうとしているみたいだったけど、目からは涙が流れていた。


 「おい、今綾夏が言った言葉、冗談でもそんなこと口にするなよ」


 本当は怒ったりなんてしたくはなかった。

 でも、何かを口にしていないと、その代わりに何かものすごいものが溢れてきそうになってしまいそうだったから。


 「いくら事実がそうだとしても、僕はそんな綾夏を見たくない。どうせならもっと笑っていてほしんだ」


 そうだ。

 涼野綾夏という女の子は、どんなに重たい雰囲気の中でも、空気を読むことなく自分の言いたいことをただひたすらに言いまくって、その怒涛の勢いでその場の空気すらも力技で塗り替えてしまうような、そんな強さがある。


 それなのに、綾夏自身がまるでこれが最期の会話みたいにしてきたら、調子が狂ってしまう以外の何物でもない。


 たとえそうだとしても、僕は最期まで涼野綾夏と笑っていたい――。

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