第30話 波打ち際に響く音
ふと夜中に目が覚めた。
いつもとは違う枕だからだろうか。それとも、合宿という非日常のイベントに、心躍って休まることができていないからだろうか。
どちらであっても、眠れないときに布団で横になっていることほど辛いものはない。
僕は布団から出て窓の外に顔を出す。
夏の夜は心地が良い。
昼間はサウナに入っているみたいに蒸しているのに、今の時間は頬を撫でる風も柔らかく、夏の夜の涼しさを誘うコオロギの鳴き声も軽やかで、むしろずっと聞いていたい気分になる。
月夜に照らされる海は、昼間のように活発なものではなく、微動だにしない確固たる何かを写しているような輝きを感じる。
「ちょっと散歩でも行くか……」
どうせ今から寝ようと思っても寝付けないのであれば、いっそのこと夜中の浜辺に繰り出してみるのも悪くない。
僕は靴を履いて宿泊施設からすぐの砂浜に向かった。
涼しい風が寝ている人たちを起こさないようにゆったりと吹く中、その風に合わせるように、僕もゆっくりと歩く。
地面が固いコンクリートから、徐々に砂の粒へと変わっていく。
すると、視界を遮っていた木々が途絶え、一気に視界が開け、眼前に無人の砂浜が姿を見せる。
昼間ともなれば、海水浴に来る人で溢れ返っているであろう砂浜も、夜中になればまるで別世界のような感覚に陥ってしまう。
聞こえてくるのは規則的な虫の鳴き声と、途切れることのなく打ち寄せる波の音だけ。
そこで僕が一歩踏み出して砂浜を押し込む音は、自然の音とは対極なもので、妙に大きく響いて僕の耳に入ってくる。
「――ん? あれは……」
しかし、僕以外にも同じような音を出しているのに気が付き、その音がする方向に目を向けると、波打ち際に女の子の人影を見つけた。
誰もいるはずがないと思い込んでいただけに、僕は一瞬見てはいけないものを見てしまったかと思って目を細める。
でも、うっすらと開けた眼から見えるそのシルエットには、どこか見覚えがあった。
月明かりの陰になっていて詳細までをここから見て判別することはできないけど、この時間にこの場所にいる女の子で、髪の長さが永田ほど長くはないとするならば、残りは必然的に綾夏ということになる。
「――もしかして……綾夏?」
恐る恐る近づいて、僕は綾夏と思しき人物に声をかける。
「っ……⁉」
声をかけられてびっくりしたのか、肩をビクンと揺らし、古びたロボットのような動きでこちらに振り向く――やはり綾夏だった。
「――蓮……くん? なんでここに……?」
「それは僕も同じことを綾夏に聞きたいよ。ちなみに、僕は寝れなくて散歩しをしに来たんだ」
「そうなんだ……。私も、同じかな。なんか寝れなくて」
「やっぱり同じだったのか……。そういえば永田は?」
「真澄ちゃんはぐっすり寝てるよ。とっても気持ちよさそうだった」
「そっか。あいつも色々疲れているんだろうな」
普段からずっと忙しそうにしているだ。寝ているときくらいはゆっくりさせておいてあげたい。
「それにしても、よく一人でここに来ようと思ったね。怖くなかったの?」
すると、綾夏の瞳が小さく動いた。
「――怖かった」
「じゃあどうして――」
「部屋の中にいると、病院を思い出して……。もしかしたらここからもう外の景色を見ることなくなっちゃうと思って……。そう考えちゃったら、もうダメで。居ても立っても居られなくなって……それでここに来たの」
「なんか……変なこと聞いてごめんね」
「別に、蓮くんが謝るようなことじゃないよ。それに……怖いけど、もう覚悟はできてるから……」
その言葉は、僕にとってあまりにも重くて、キャッチするだけで精いっぱいだった。
「ねぇ、蓮くん」
「な、何……?」
「誰もいないし、蓮くんに今の私の気持ち、聞いてもらってもいいかな?」
「それは……もちろん」
綾夏は「ありがとう」とほほ笑むと、波打ち際をじっと見つめながらぽつりぽつりと口を開いていく。
「私、人生って不平等だと思ってたの」
「……うん」
「生まれたときから親がお金持ちで、何不自由なく暮らしてきた人もいれば、生まれたときから自分が自由になるために、その自由を縛られる人もいる……。でも、それは自分じゃどうしようもすることができないも。それに立ち向かおうとしても、自分の力だけじゃ太刀打ちするどころか、それに近づくことすらできないの。だから、『なんてちっぽけな存在なんだろう』って、私はそこで毎回思うの……」
途中、いくら綾夏が言葉に詰まり、涙で顔を濡らしたとしても、綾夏が僕に何かを求めるまでは、彼女のスペースに立ち入ることはできない、いや、してはいけない――そう思った。
だから、僕は黙って綾夏の言葉の続きに耳を傾ける。
「でもね……あの日、蓮くんと出会って全てがガラッと変わったの」
それは僕も同じだ。
平穏だった日常が、一人で回っていたサイクルが、いい意味で崩れ去っていくのをこの肌で直に感じたから。
「いくらちっぽけな存在だったとしても、そんな私に、蓮くんは文芸部という居場所をくれた。蓮くんからしたら、そんなことって思うかもしれない。でも、私にとっては大きなことで、たしかにこの世界に存在しているんだって思えるようになったの」
気が付くと、綾夏は僕の肩に自分の体重をかけてくる。
いつもだったらすぐに引き離していただろうけど、今この瞬間は綾夏のすべてを受け入れようと思った。
「本当に楽しかったの。今までの人生の中の、たったの二カ月だったけど、それでも、病院にいたときよりもずっと充実した日々を送ることができたなって思うの」
僕は正面を向いたまま綾夏の話を聞いていたけど、質量を感じる左肩にじんわりと温かいものがしみ込んでくるのに気付いた。
綾夏の方をちらりと振り向くと、やはり彼女は泣いていた――しかし、満面の笑みを浮かべながら。
「蓮くん……私、こんなに幸せでいいのかな?」
綾夏の腕を掴む手に徐々に力がこもっていく。
「何を言っているのさ。綾夏は今までたくさん苦労をしてきたんだから、これくらい何の問題も何はずだよ。それに、もっと幸せになってもバチなんて当たらないさ」
綾夏がこれまで生きていきた中で経験してきた苦労は、僕なんかが想像することもできないだろう。
でも、この二カ月にも満たない期間で埋め合わせることができるほどのものではもはやないということだけは、僕にも分かる。
「それに、この前から綾夏、これが最後最後って何回も言っているけど、僕はそんなことは信じないから。これからもずっと文芸部として活動するんだよ」
綾夏は自分の身体がどれほど持つのか、本能的な何かできっと分かっているのだろうけど、僕はそれを否定したい。
いい方向に転がっていくことを、心の底から願っている。
僕は綾夏を治すことはできないから、そうするしかないのだけど。
「蓮くんは優しすぎるよ……今のは卑怯だ……バカ……でも――ありがとう」
真夜中の波打ち際に、綾夏のすすり泣く音が小さく響いていた。
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