第20話 忘れ物

 「ど、どうして綾夏が……?」


 「何よ。私も文芸部員なんだけど? たった数日顔を見ないせいで忘れちゃったの?」


 驚きを隠せない僕に、綾夏は挑戦的な口調で僕に対峙する。

 しかし、いくら制服を着ていたとしても、やつれた身体をごまかすことはできないようだ。

 両手両足は一回りほど細くなり、顔の頬骨もうっすらと浮き出ているようにも見える。


 「どうしたのよ、そんなに深刻そうな顔しちゃって……」


 「いや、ほら……だって何の連絡もなしに二週間近く部活に来ないから、そりゃ誰だって心配するだろうよ……」


 「それは……ごめんね。ちょっと色々あって……」


 「そっか……」


 その色々というのは入院のことで、あまり触れてほしくないんだろうな。

 本人はあえてそこには言及していないのだから、僕からそのことを切り出すのはあまり気分のいいことではないだろう。


 「――ほら、文集作ろう文集!」


 綾夏は笑い飛ばしながら鞄を横のパイプ椅子に置くと、『取材ノート』と書かれた大学ノートといつもの手帳を取り出した。


 「へぇ、ずっとただ遊んでいるだけだと思ったら、実はしっかりと準備はしていたんだな」


 「何よそれ。私は遊んでもいたけど、あれもれっきとした取材活動だったのよ!」


 僕から見たら、取材活動なんて完全に頭から抜け落ちて、遊ぶことに全力を注いでいたようにしか見えなかった。

 でも、実際に綾夏がまとめたと言っているノートを見ると、その言葉はどうやら真実であったみたいだった。


 「すごいなこれ……よくこんなにまとめられたね」


 何なら僕よりも細かくメモされていて、何時にどこでどんなことがあったのか、それを見ただけで、時系列ごとに起きた事の詳細を鮮明に思い出すことすらもできた。

 自分が目で見て耳で聞いて肌で感じたことを余すことなく書き記しているようだった。


 「当たり前でしょ? 何のための取材活動だと思ってるの? 全力で遊んで、それを全力で文集にするの!」


 「綾夏はいつでもそうだったね。じゃあ、僕も綾夏に負けないように進めるとしようかな」


 「そうだよ。私よりも長い時間作業しているから、追い越されるなんてことがないようにしないとね!」


 「もちろんそのつもりだよ。じゃあ、始めようか」


 「うん!」


 僕と綾夏は作業に入った。

 途中、一言二言会話することはあったけど、視線は自分のノートを向いていて、シャーペンを握る手は休まずに動かし続けた。


 それから数時間はあっという間に過ぎていき、夕方のチャイムが耳に入ってきたところで、僕と綾夏は作業を終える。


 「綾夏、お疲れ様」


 「蓮くんこそ、おつかれ。すっごい進んだよ! ほら見て!」


 綾夏は大学ノートに書かれた細かい構成を見せてくる。


 「さすがと言ったところだね」


 「なんか、蓮くん言い回しが堅いなぁ……もっと素直にほめてくれてもいいのに」


 「こ、これでもかなり褒めているつもりなんだけどな……」


 「難しい本の読み過ぎだね。単純に『すごい!』だけでいいんだよ。それだけで私はすっごく嬉しいの」


 「よく頑張りました。すごいね綾夏は」


 「う、うぅ……なんかわざとらしく見えるけど……嬉しい」


 「なんだよそれ。はっきりしないな~」


 「う、うるさい! 私さき昇降口行ってるから、早く追いついてきてよね!」


 ほんのりと赤く染まった頬を隠すように、綾夏は駆け足で部室を後にする。


 「まったく……褒めてほしいのかそうじゃないのかはっきりしてほしいな――って、これは……」


 部質の戸締りをしていると、机の上に置かれた一冊の小さなノートを見つける。

 そこには綾夏の字で『メモ帳』と書かれていた。

 いつも綾夏が肌身離さず持っているという、あのメモ帳だった。

 それを手に取ると、ある衝動に駆られる。


 「ちょっとくらいならバレないよな……」


 人の日記の中身を見ることが本当は駄目なことくらい分かっている。それも、女の子のものならなおさらだ。

 でも、見てはいけないと思えば思うほど逆の感情が芽生えてしまうのは、一体どうしてなのだろうか。


 僕は好奇心に負けて、その手帳を恐る恐る開いてしまった。

 すると、そこに書かれていたものは――日記ではなく、何かのリストのようなものだった。


 ――病院の中を、点滴を付けずに歩きたい。

 ――大好きなご飯を好きなだけ食べたい。


 最初のページにはその二つが大きく書かれていて、その横にチェックマークがついている。

 次のページにはこんなことが書かれていた。


 ――学校に行きたい。

 ――可愛い制服を着たい。

 ――友達を作りたい。

 ――部活をしたい。


 これらは今まで綾夏が僕たちにしたいと言ってきたことだった。

 そうなれば、この先何が書いてあるかが何となく予想が付いた。


 ――文集を作りたい。

 ――海で遊びたい。

 ――夏祭りに行きたい。

 ――花火を見たい。

 ――合宿をしたい。


 「やっぱり……」


 綾夏はここに書いたことをやろうとしてきたのだ。

 しかし、その理由は僕には分からない。


 だから、この先を見ればそれがわかるだろうと、さらにページを捲ろうとした時だった。


 「――忘れ物しちゃったので戻ってきま……あっ」


 ドアの目の前に立つ綾夏と、綾夏のメモ帳を開いて手にする僕の目がばっちりと合った。

 僕が手帳を閉じようと手を動かすよりも先に、綾夏の口が動いた。


 「――見た……?」


 たった一言。

 しかし、その一言ですべてを了解してしまうほどの恐ろしさがあった。


 「えっと……ごめん。少しだけ」


 僕は手にしていた手帳をそのまま綾夏に差し出した。

 怒られて、呆れられてしまうのは目に見えていた。だって、やっていることは、人のプライバシーを覗き見る行為と同等なのだから。

 頭を下げ、綾夏の言葉に備え全身に力を込める。


 「――どういうこか聞いたりしないの?」


 しかし、綾夏の口から出てきた言葉は、どこか不思議そうな気持ちが混じっていた。


 「えっ、そ、それは……特に――」


 「――嘘、付いてるでしょ。そんなわけないじゃない」


 綾夏は、今度は僕の胸を突き刺すかのように鋭い口調で静かに言った。

 それは仕方のないことだと思っていた。


 綾夏は以前、嘘をつかれるのが嫌いだといっていた。

 でも、この世をうまく渡り歩いて行くためには、必要な嘘もあるのだと思っていた。


 今回は間違いなく後者であると。

 本当は聞きたいことはたくさんあったけど、僕はそれを否定した。


 しかし、彼女はそれを見逃してはくれなかった。


 「――あの日、蓮くんは入院姿の私を見たよね?」


 心臓がきゅっと締まる感覚がした。

 まるで素手で思い切り掴まれているような。

 息が苦しくなり、呼吸が浅くなる。


 「そ、それは……」


 何を言っていいのかが分からず、僕は綾夏にかけるべき言葉がこれ以上続いて行ってくれない。

 綾夏は僕があの場所にいたことを知っていたのか。

 じゃあ、なんであのとき何の反応もなく――


 「ねぇ、蓮くん――ちょっと歩かない?」


 今度は柔らかく、包み込まれるような口調だった。

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