第12話 初めての海

  「わぁーい! 海だぁぁぁあ!」


 鉄板のように熱された砂浜の上を、綾夏はまるで水上を走る忍者のように駆けていく。

 見た目は高校生なのであるが、やっていることと言っていることは小学生のそれと何ら変わらない。


 数日前に永田を部室に呼んで、綾夏との顔合わせやら今後の取材日程を決めたりした。

 綾夏はどうやらこの夏休みの間に夏に関するイベントごとをすべてやりたいらしく、彼女が提案したのは、海水浴と夏祭り、そして合宿だった。


 しかし、永田は予備校やら生徒会の仕事が忙しくてどうしても予定を開けることができないということで、基本的には不参加という形になった。

 僕もそれに合わせて「不参加で――」と口を開こうとしたのだけど、その前に「蓮くんは強制参加!」と綾夏に先手を打たれてしまい、退路を断たれた。


 というわけで、僕は綾夏と常夏の海岸へとやって来たのだった。

 「女の子と二人で海に行く」とだけ聞けば、周りからは「リア充」だの「爆発しろ」だのと言われそうだ。

 それに、当事者同士もなんだかデートみたいで緊張してしまうかもしれない。


 でも、今の僕にはそんなことを思う余裕すらなかった。

 だって、相手が綾夏だから。

 たしかに、綾夏のルックスだけを見れば、男子からの人気は火を吹きそうなほどであると思う。

 しかし、彼女の性格がその全てを相殺してしまうくらいにもったいない。


 口を開けばわがままを貫き、相手が折れるまでは決して譲ることがない。

 一歩足を踏み出したら、スタミナが切れるまで走り続ける。


 人間は本来理性をコントロールすることができるはずなのであるが、この涼野綾夏という女の子はどこか本能で生きている気がするのだ。


 「お〜い! 蓮く〜ん!」


 波打ち際の方に走って行ったと思ったら、綾夏はそこから大声で僕の名前を叫んでいる。

 周りからは「元気いっぱいで可愛い彼女さんね」なんて声が聞こえてくるけど、僕としてはたまったもんじゃない。


 全身が燃えるように熱いのは、照りつける太陽のせいか、それとも綾夏の言動によるものなのかが分からなくなってきた。


 「おい、綾夏――」


 「すごーい! 海だ! うわっ、海の水って本当にしょっぱいだね!」


 多分綾夏の耳に僕の声は届いていない。それくらいはしゃいでいる。


 「海の水がしょっぱいくらい知ってることだろ?」


 「聞いたことはあるけど……海を見たことはあるけど、来たのは初めてなんだもん!」


 「そうなの?」


 高校生になって海に来たことがない人を僕は初めて見たからも知らない。

 それなら、これだけ小学生のようにはしゃいでいても不思議では……ないか。


 「でも、まずは荷物を置くのが先だね」


 「そしたら水着に着替えてレッツゴーだ!」


 「泳ぐのはいいけど、取材をすることを忘れるなよ?」


 そう言うと、綾夏は得意げに僕を見つめる。


 「泳ぐこと、屋台でご飯を食べること……その全てが取材活動です!」


 「へ? 僕はてっきり、カメラを持って景色を撮影したり、海水浴に来ている人の話を聞いたりするものだと思っていたんだけど……」


 「そんなことするわけないじゃない! 文集の主役は私たちなのよ!」

 

 「そんなことを初めて聞いたよ……」


 予定を決めるあたりでなかなかやるじゃないかと思っていたけど、そういうところの詰めはまだまだ甘いようだった。


 「ほらほらっ! ぶつぶつ言ってないで早く荷物置きに行くよ!」


 綾夏は僕の腕を掴むと、そのまま走り出す。


 「ちょ、ちょっと綾夏?」


 綾夏は始めてきた海に興奮していて、さっきからずっと言葉尻が上がっていたけど、彼女の手の平は、僕が思ったよりもひんやりとしていた。

 海の家に着いておばさんにお金を払うと、僕と綾夏は更衣室の前で分かれる。


 「じゃあ、着替えたらそこの前で待っててね!」


 「うん、分かったよ」


 綾夏は僕の返事を聞くと、スキップをしながら更衣室の奥に姿を消した。


 「さてと。僕も着替えるか」


 男子更衣室に入ってロッカーに鞄を入れ、中から海パンを取り出す。

 いくら海の近くに住んでいるとはいえ、海パンを持って本格的な海水浴に来ることはほとんどなくて、せいぜい波打ち際を散歩したりするくらいだった。


 それだけに、いくらサイズが合っていたとはいえ、海パンだけで出るのはちょっと恥ずかしい気もする。

 結局、僕は上にTシャツを羽織り、更衣室を後にする。


 しかし、まだ綾夏は来ていないようで、僕は一人その場に立って彼女を待つことにした。

 容赦のない日差しが照り付ける砂浜ではじりじりと肌が焼かれていく。

 日焼け止めを持って来るべきだったかと後悔していると、後ろから声がした。


 「蓮く~ん、お待たせ~!」


 「おぉ、綾夏――」


 僕は振り返って、そのまま言葉も身体も固まってしまった。


 「えへへ……この日のために水着を新調して見たんだけど……ど、どううかな?」


 くるりとその場で一回転しているのは、確かに綾夏だった。

 今日のために新調したという白のフリルが付いた水着は、綾夏の透き通るように白い肌と絶妙にマッチしていて、清楚感が漂ってくる。

 それに、いつもの肩まで伸びているミディアムボブは、今日は後ろで小さく一つ結びにされている。


 おまけに白い砂浜と彼女の姿が相まって、そこに立っているのは綾夏なのに、雰囲気はいつもの綾夏とは大違いだった。

 そのせいで、いつもは何とも思っていなかった僕だけど、このときばかりは内心かなり心拍数が上がってしまっていた。


 「す、すごく似合ってると思うよ」


 普段から綾夏は外見はとても可愛らしいけど、さらに垢抜けたようで、僕は彼女を直視することができないでいた。


 「あ、ありがとう……」


 綾夏もちょっと照れ臭そうに視線を斜め下に逸らす。


 「で、でもね。私もビキニとか着てみたかったんだけどね……」


 「そ、それはまだ綾夏には早いんじゃないか?」


 「だ、だよね……。ほら、私全然だからさ……」


 そう自分の胸のあたりに手を当てて苦笑いを浮かべると、近くを通りかかった大学生か社会人くらいの女性に視線を向ける。


 「あぁ、なるほどね……」


 僕も綾夏と同じ方向を向き、その視線の先にいる人を見て、何となく察した。


 「あっ、蓮くん。今あの人のこといやらしい目で見てたでしょ?」


 「えっ……? そ、そんなこと――」


 「どうだか? それに、『なるほど』って、あの人のこと見た後に私のこと見てから言ったよね。それはちょっとどうかと思います! 問題発言です!」


 僕は綾夏にびしっと指をさされてしまう。


 「す、すいませんでした……」


 「なーんだ。蓮くんってただのおとなしい人だと思っていたけど、ちゃんと男子高校生なんだね」


 「それは一体どういう意味だ?」


 「どうもこうも、蓮くんはえっちですけべでむっつりさんだなって思って」


 「や、やめろよ綾夏! そんなに連呼するなよ」


 「やめてほしかったら、私の機嫌を直してくださーい」


 綾夏は舌を出して「べー」と繰り返している。


 「わ、わかったよ……」


 思っていることを口にすることは結構高いハードルに感じる。しかも、内容が内容だからだ。


 だけど、これを言わなくては綾夏のあっかんべーは終わらないだろう。

 僕は依然として高まる鼓動を感じながらも、息を吸う。


 「――綾夏、今日の君はとっても素敵でかわいいと思うよ」


 「あっかん――えっ……?」


 綾夏の動きが止まった。

 何だか動きの悪いロボットに潤滑油を入れて、それが浸透していく様子を見ているみたいだった。


 「――あ、ありがとう……」


 僕の言葉が脳内で処理されたみたいだ。

 心なしか、綾夏の頬が少し赤らんだように見える。

 お互いに恥ずかしいけど、どうやら綾夏の機嫌は戻ったみたいだ。


 「そ、それじゃあ行こっか……」


 しかし、綾夏はなぜかまた僕の手を掴んで歩き出した。

 ゆっくりと歩き出す綾夏の手から伝わってくる体温は、さっきより少しだけ温かくなっていた。

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