第9話 目標

 「文集を作るって……本気で言ってるの?」


 「うん、私は本気だよ」


 とんでもないことをサラッと言いのけてしまうあたりで、綾夏がどれだけその文集づくりとやらに熱を入れているのかがよく分かってしまう。


 「仮に文集を作るとしても、その完成した文集はどうするのさ」


 「そんなの決まってるじゃない。文化祭で配布するの! 目の前にタワーのように高く積み上げられた文集の山が、長蛇の列の人の手に渡って行って、どんどんとそれが低くなっていくの!」


 綾夏の脳内ではきっとたいそうな世界が広がっていていることだろう。僕の質問に答えていると思っていたのに、いつの間にか一人で勝手に事を進みにかかっているという始末だった。


 「それでねそれでね。それを受け取った内の一人が出版社の編集長で、私の書いた秀逸な文章が目に留まって、そのまま作家デビューしちゃったり――」


 「――綾夏、ちょっとストップ。ブレーキかけてブレーキ」


 綾夏ワールドの収拾がつかなくなる前に僕は無理やり綾夏を現実世界に引き戻す。


 「ちょっと、今せっかく担当編集が付いて書籍化の準備に入ろうとしていたのに! いいところだからもうちょっと待っててよ」


 「いや、待てない」


 僕は綾夏のペースに引き込まれないように必死で足元に力を入れる。そうでなかったら綾夏が作り出す世界に引きずり込まれそうな気がしてしまったから。


 「そんな~蓮くんってばつれないな~」


 綾夏はそう言いながら人差し指でツンツンと頬をつついてくるけど、僕はそれを避けようと顔を背ける。


 「そ、れ、で――」


 迫りくる綾夏の指を振り払いながら、僕は語調を強めて言う。


 「別に否定するつもりはないんだけど、どうして文集を作ろうと思ったの?」


 そこの理由ははっきりとさせておきたい。なぜやるのか分からないでやることほど身が詰まらずに散々な結果になってしまうことは目に見えているから。

 多少曖昧でもゴールを見ることができれば、それに向かって走り続けることができるから。そうでなかったらどんなに能力のある人でも回り道に回り道を重ねてしまって、結局最終地点に辿り着くことはできなくなってしまうから。


 「それは――」


 伸ばしていた指をすっと引っこめると、綾夏は小さくもはっきりとこう言った。


 「――そこに存在していたという証を作りたい……から」


 「証……?」


 「そう、証」


 綾夏は確かにそう言った。しかし、その真意がまったくこれっぽっちも理解することができない。


 「この世界には、何十億という人がいるよね」


 「えっ? う、うん……そうだね」


 「でもさ、その中で世界中の人に自分という存在を認識してもらうってことは現実的に不可能だよね」


 「それは……仕方のないことなんじゃないかな。だってインターネットが通じていない地域だってあるし、そもそもそんなに人気者にはなれないだろうし」


 「つまり、そういうこと」


 唐突に綾夏は話をまとめる。


 「いやいや、待ってくれよ。今の話と文集づくりのどこにその証の意味があるの?」


 今綾夏が話していたことは何かの哲学なのか? それとも新手の宗教の勧誘だったりするのか……? 

 話の筋道が見えてこなくて、入口も出口も分からない真っ暗なトンネルの中に閉じ込められてしまったように感じる。


 「そんなに難しく考えなくても分かるでしょ? 私が言いたいのは……その……私がこの文芸部にいて活動をしていたんだって。その事実を……少しでも多くの人の記憶の片隅にでも入れておいて欲しい……ただ、それだけなの」


 途中から綾夏の言葉の途中に僅かな空白が生まれる。そんな一秒にも満たない隙間が、なぜだか勝手に僕の鼓動を押し上げていく。

 綾夏の瞳にはうっすらと涙がきらりと映っている。


 生半可な気持ちで「どうした?」なんて聞くことはしてはいけない、聞くんじゃないと、綾夏の瞳が強く語りかけてくる。

 だから、喉まで出かかったその言葉は大きな深呼吸にして打ち消して、今度は違う言葉を口にする。


 「わかったよ」


 その五文字を聞いた綾夏は「ありがとう」と震える唇を何とか動かして言葉にする。真剣な表情を緩ませると、自然と涙が頬を伝う。


 「あれ……なんで私……」


 「何かその言い方、昨日とほとんど同じみたいだ」


「たしかにそうかもね。やっぱり蓮くんは私のことを泣かせるのが得意みたいだね」


「僕はあいにくだけど、女の子を泣かせる特技なんてお米一粒たりとも持ち合わせていないんだよ」


 「じゃあなんで蓮くんの前だと私はこんなにすぐに泣いちゃうのかな……」


 「それは……綾夏の感受性が豊かなだけで、それを見せる機会がたまたま僕のときだけだったんだよきっと。だから僕のせいじゃない」


 「ふふふ……。なんか蓮くんと話していると心が落ち着くというか、胸の辺りがじんわりと温かくなってくるような気がするのはなんでだろうね」


 「そんなのこの部屋が夕日に照らされて熱くなっているからだよ。僕だって暑いさ」


 一瞬ドキリとしてしまったけど、それを綾夏に悟らせないように、僕はわざとらしく大げさにワイシャツを派手にパタパタとさせてみる。

 そんな様子を見た綾夏は少し明るい表情を見せる。


 「――でも、よかったよ」


 「何がさ」


 つまんでいたシャツの袖口から手を置き、綾夏に視線を向ける。


 「私も蓮くんも一人ぼっちにならずに済んで」


 綾夏はまたメモ帳を取り出して何かを書き込み始めている。


 「それはどういうこと?」


 「だって、この部屋に一人でいても寂しそうだし、何だかつまならそうだなって」

 「別に、僕一人で集中することができればそれでいいから、あんまりそんなことは思わなかったかな」


 「でも、私が入っちゃったから、蓮くんが大切にしていた空間がなくなっちゃうかもしれないけど、それでもいいの?」


 「一人の空間はここでなくても一応まだ他にあるし、こんな部活なのかも怪しいところにに入りたいって思ってくれる人がいれば、僕はそれを拒んだりなんてしないよ」


 「蓮くんってもしかして結構なお人好しだったり?」


 「まさか……そんなことはないよ。『来るもの拒まず去る者追わず』ていうじゃないか。それと同じだよ」


 「へぇ……。なんだか考えてることとか言ってることが文豪みたいだね」


 綾夏は少し感心した様子でこちらを伺ってくる。


 「文豪だなんて大げさだよ。今の言葉くらい、高校生なら一度くらい聞いたことがあってもおかしくはないと思うけど」


 僕が文豪だとしたら、本当に文豪と呼ばれていて人たちのことを一体何と呼べばいいのだろうか。本物の文豪は僕なんかよりももっとすごいんだから。


 「私も聞いたことあるよ。でも、それを一端の高校生が口にしているところを見たのは、私は初めてだよ」

 

 「た、たしかに……」


 書道部や茶道部の新入生歓迎会のときにそんなような横断幕を目にしたけど、それを実際に口にしている人はいなかったかもしれない。

 自分だけが他の人が使わないような言葉を使っていることに多少の優越感はあったけど、逆にどこか済ませた顔をした自分が想像できてしまって、それを超えるくらいの恥ずかしさがこみ上げてくる。


 「そ、それに……綾夏は一人ぼっちなんかじゃないだろうよ。だってあんなに人気者なんだから」


 「そんなこと……ないよ」


 無理やり話題を変えてみたけど、それはどうやら逆効果だったらしい。

 明るくなり始めていた綾夏の表情に段々と曇りがかかり始め、肩を落として俯いてしまった。


 「最初の一週間くらいだよ、周りが転校生転校生っていってはしゃぎたてるのなんて。それ以降は本当に仲良くなってくれた人以外は私の近くから段々と離れていくんだよ……。何回もそうだったから」


 きっと綾夏は転校を繰り返しているのだろう。だからこそ、最初の反応とその後の反応との違いを分かっていて、最初のそれがどれだけ表面的なものかを知ってしまったのかもしれない。


 「でも――ここに来れば一人じゃないんだろ」


 だから僕はそう言うしかなかった。

 せっかくここにいるのだったら、目の前にいる人の表情は、悲しみに満ちたものよりも、元気で笑ってくれている方がずっと心地が良い。

 はっとした表情をしてこちらを向くと、綾夏は小さく頷く。


 「うん、ありがとう。なんか元気出たかも。またしょんぼりすることがあったら蓮くんに相談しようかな」 


 「ある程度にしてくれよ。僕は何も綾夏専属のカウンセラーになった覚えは一度もないんだから」


 「でも、何だかんだ言って相談に乗ってくれるのが蓮くんなんだよね、きっと」


  「会って二日目で僕の何が分かるんだっていうんだ」


 そう言いながらも、どこか最終的には折れて何でも話を聞いてしまっている僕を想像してしまっているのは、いつか現実になってしまうことが僕自身も薄々分かっているからなのだろうか。


 「でも、私はもっと蓮くんのことが知りたいな~」


 「な、何だよそれ。おちょくっているならやめてくれよ」


 「そんなこと言って~。本当は蓮くんもわたしのことが気になって気になって仕方がないんでしょ?」


 「変なことを言うなよ。ぼ、僕はそんなこと思ってないし」


 「へぇ~、でも、その割には教室にいるときから結構な頻度で私のことをチラチラと見ていたのは一体全体なんでなのかな……?」


 「そ、それは……」


 口角の挙がった綾夏の顔がまた近づき始める。前かがみになった綾夏の身体が僕の顔にくっつきそうになった――そのとき、最終下校の時間を知らせるチャイムがその間を駆け抜けた。


 「まぁいいや!」


 そう言って綾夏は僕から距離を戻すと、鞄を背負って軽やかな足取りでドアの方に向かう。


 「じゃあ、そういうことで、明日から文化祭で配布する世界で一つだけの文集を作り始めるから、放課後は毎日ここに集合すること! いいね!」


 それだけ言うと、綾夏は勢いよくドアを開き、そのまま廊下を駆けて行ってしまった。


 「部長は僕なんだけどな……」


 そんな嘆きの独り言は、またしても彼女に届くことはなく空気にすっと溶けていくのだった。

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