第6話 入部届

 「こんにちは~!」


 静謐という言葉がしっくりくるようなこの部屋に、まるで正反対な、大きく凛とした声が響き渡る。

 ミディアムヘアの黒髪に夕日が反射して、髪がふわっと揺れる度に光が弾けるように煌めいている。

 ここまで走って来たからだろうか、制服からすっと伸びた四肢は少し上下していて、幾分か紅潮しているようにも感じる。


 「こんにちは~!」


 何も言えずにただ視線だけを向けて押し黙っている僕を見て、もう一度、彼女――涼野綾夏は同じようにそう言った。


 「こ、こんにちは……」


 やっと声が出た。


 「もう、なんで一回で返事しないのよ」


 やや呆れ顔と言った表情で、涼野さんは僕に対峙する。


 「だって、こんなところに人が来るなんて思ってもなかったから……」


 それもそのはずだ。だって、ここには僕以外の人なんてめったに来ることはないのだから。


 「それに、涼野さんは転校生だし、こんな場所知ってるはずないじゃないか」


 僕は至極真っ当なことをいったつもりだったけど、涼野さんは全く怯む様子を見せることはなかった。

 むしろこっちの仕掛けた罠に見事にはまってくれたことを喜んでいる漁師のような姿に、僕の目に映った。


 「だって、ここに君がいるって、君自身が教えてくれたじゃない」


 「えっ……」


 「ほら、放課後。教室を出ようとする君に、どこに行くのかって」


 「そ、それは……」


 たしかにそうだ。僕は涼野さんに文芸部の部室へ向かうと。

 

 「で、でも……。だからって、この場所を探すのに苦労したんじゃない? この学校に来てまだ一日目だから」


 「そのことなら心配いらないよ。だって、職員室で先生に場所を聞いたからっ!」


 涼野さんは自慢げに胸を張り、腰に手を当てている。


 「だとしても、どうしてそこまでするの?」


 「何でだと思う?」


 涼野さんは試すような視線で、こちらの反応を伺ってくる。

 普通、転校初日であれば、自分の教室だったり、クラスメイトの顔と名前を少しでも早く覚えようとするはずだ。

 それに、早速できた友達と一緒に帰ることだってできただろうし、涼野さんのあの人気ぶりからすれば、きっと誰かから誘われてもおかしくはない。

 さらに言ってしまえば、文芸部の部室のような辺鄙な場所を覚えるなんて、正直どう考えても無駄としか思えない。


 なのに、なぜ他の友達ではなくてここのだろうか……。

 僕は必至に考えてみたけど、やっぱり答えを出すことはできず、たった数秒で白旗を挙げてしまった。


 「僕には涼野さんに何があってどんな意図でそこまでしたのか、全く分からないよ」


 「でしょでしょ~」


 嬉しそうに何回も頷く彼女を見ていると、なぜ正解するまで考えなかったのかと、心の底から悔しさを感じてしまう。


 「じゃあ、正解を発表しま~す」


 涼野さんはセルフドラムロールをしながら、ポケットから何やら紙のようなものを取り出すと、それを焦らすクイズ番組の司会者のように、ゆったりと、ゆったりと広げていく。


 「正解は……これでした!」


 何だろうと、僕が彼女の持っている紙に顔を近づける。

 すると、そこには『入部届』と書かれていたのだ。しかも、部活名のところには『文芸部』と書かれている。


 「入部届……⁉」


 思わず大きな声が出てしまった。でも、さっきの涼野さんのに比べたら、全然大きいとはいえないかもしれない。


 「どうどう? びっくりした? 腰抜けちゃった?」


 そんな僕の反応を見て、涼野さんはさっきよりもテンションが一段階上がってしまったのか、舌がどんどんと滑らかになっていく。


 「そ、そりゃ驚くさ。だって、この時期だよ?」


 今はもう六月も終わろうとしていて、どの部活も三年生は引退を迎えている。

 二年生がそれを持っているならまだしも、引退間際の三年生が持っているとなると、何とも不思議な感覚がする。


 「じゃあ、この文芸部も三年生は引退するの? 現に君が残っているのに?」


 「いや……別に引退とかはなくて」


 「ならいいじゃん。私が入部しても」


 「ま、まぁ……だめってわけじゃないけどさ」


 僕は涼野さんの正論に言葉を詰まらせる。


 「何か問題でもあるの?」


 涼野さんは、きょとんとした顔で問いかける。悪気があって聞いているわけじゃないらこそ、余計に手詰まり感を覚える。


 「あの……なんで文芸部なのかなって思ってさ」


 「というと?」


 「だって、涼野さんってすごい活発で元気だから、バリバリの運動部っていう印象が強くて。なんかこう……文芸部って感じが全然しないんだよね」


 「わ、私ってそんな風に見えてる?」


 さっきまで優勢だった涼野さんだったけど、一瞬、彼女の目が泳いだ……気がする。


 「うん。だから、なんで文芸部なんかに入ろうと思ったのが不思議だなと思って」


 僕がそう言うと、涼野さんは口をつぐんだ。

 少しの間考える様子を見せていたけど、


 「――部活をやってみたかったから」


 しばらくして、ぽつりとつぶやいた。


 「えっ? 部活をって……涼野さん、今まで運動部とかじゃなかったの?」


 涼野さんの口から出てきた言葉が信じられず、僕は思わず反射的に聞き返してしまっていた。


 「ま、まぁね……。家庭の事情って言うか、何と言うか……本当はそういうこともしたかったんだけど、なかなか厳しくて……えへへ」


 涼野さんは困ったように頬を指でかき、それを隠すかのように無理やりな笑みを浮かべていた。


 「な、なんか……ごめん。まさかそんな理由があるなんて、これっぽっちも思ってなくて……。きっと嫌な思いしちゃったよね……」


 「そ、そんなことないって。むしろ私こそ、変な気を遣わせちゃってたら……その……ごめんね……」


 何となく変な空気になってしまって、この二人きりの空間がとても気まずくなる。

 しばらく僕と涼野さんは俯いて視線を外す。互いに同じ空間にいるのに、一言も言葉を交わすことなく、黙り続ける。


 一人でいる時に沈黙はとても心地よいのに、それが複数になると途端に何かしないといけないと思ってしまうのはなぜだろうか。

 沈黙は『間』であり、本来はもっと大事にされるべきことなのに。あたかもそれがあると忌み嫌うように心がざわついてしまう。


 とはいっても、僕にとってこの状況はどうにも耐え難い。

 つばを飲み込む音でさえ、スピーカーで拡散された音みたいに聞こえてしまいそうになってしまう。


 僕は沈黙に耐えることができず、ついに文庫本に手を伸ばしたときだった。


 「――ねぇ」


 涼野さんが真剣な面持ちで僕の方に身体を向けていた。

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