ひと夏の奇跡

東山 はる

プロローグ

 大気の流れがなくなったかのようにそこに丸一カ月もの間居座り続けた分厚い雲は、さよならも言わずにいつの間にか去っていて、最近ではこれでもかというくらいの晴天を見せている。


 じめじめと湿度が高く、そして気温もぐんぐん上がって行くから、季節の移り変わりを感じずにはいられない。


 僕――藤木蓮は、クーラーで冷え切った電車から抜け出して、実家の最寄駅のホームに足を付けた。


 「やっぱりここは相変わらず暑いな……」


 大学進学を機に地元を離れ、隣県で一人暮らしをしている僕は、何年か振りにこの地に帰ってきた。


 ここは茹だるような暑さが名物と化しているようだけど、僕にとっては今住んでいる場所の暑さの方が耐え難いくらいだ。ここの方が幾分快適にすら感じてしまうのは、僕が生きていた時間の大半をここで過ごしてきたことによる慣れから来るのだろうか。


 駅の改札を出ると、僕は降りる駅を間違えたかのではないかと錯覚する。

 最後に帰ってきた数年前からの短期間で、どうやらここは僕の知らない変化を遂げていたらしい。


 駅には目新しいショッピングモールのような建物が見上げるように佇んでいる。

 都会とはお世辞にも言えないこの場所に、似つかわしくないそのコンクリート造りの建物は、まだ僕の目には馴染みそうにはないと思う。


 しかし、周りはそうは思っていないのだろう。存在感を超えて、威圧感すら感じられる壁面からは、たくさんの登りが吊るされている。入り口に目をやると、そこでは、着ぐるみに身を纏った人が風船を配っている。

 きっといつもよりも人が多く感じたのは、ここが目当てなのだからだろう。


 帰省初っ端から変化を突きつけられて、少しめまいがしたような気がするけど、そこを何とか乗り切ると、それから少し歩いて自宅に立ち寄ることにした。


 「あら、帰ったのね。こんなに暑いんだから呼んでくれれば迎えに行ったのに」


 廊下の奥から母さんがエプロンで手を拭きながら出迎えてくれた。


 「ただいま、母さん。いやいや、僕はもう大人だよ。これくらいなんてことないよ」


 「ふふふ。そうだったわね」


 母さんは軽やかな笑みをこぼす。


 「さっきお隣さんからアイスもらったのよ。蓮も食べるわよね?」


 「うん。そうするよ。でも、用事があるから、それ食べたらすぐ行くね」


 「わかった」


 母さんはキャンディーアイスを僕に手渡し、キッチンへ戻って行った。

 喉が渇いていたのか、それともこの気温のせいか、真夏の晴天をそこにぎゅっと集めたような色をしたの氷菓は、あっという間に僕の胃袋へと溶けて行った。


 「じゃあ、アイスも食べ終わったし、僕そろそろ行ってくるね」


 「いってらっしゃい。用事が終わったら帰ってきなさいよ。何ならしばらくここにいてもいいのよ」


 「うん、そうするよ」


 僕は見送る母さんに沿う返事をすると、玄関の扉を閉めて歩き出す。

 実のところ、用事まではかなり余裕を持って帰ってきていたから、そんなに焦ることはない。それまでの時間で、僕はどうしても行きたい場所があった。


 自宅を出て、卒業した高校を横目に、さらに進んでいくと、目の前にはやはり坂道が『立ちはだかって』いた。

 勾配はおそらく箱根駅伝の山道はくだらないかもしれない――と、あの頃も毎回思っていたっけ。

 踏み込むたびに重くなっていく脚をなんとか前に向け、ようやく目的地にたどり着いた。


 ――ここは全く変わっていない。


 僕の心は、どこからか込み上げてきた嬉しさと懐かしさで満たされていく。

 入り口から見えるその光景は、僕が高校生の頃から何一つ変わっていなかった。

 駅前はあんなにも再開発が進んで、日に日に違う姿になっていくのに、ここだけは全然変わらない。まるで、この場所だけ「あの頃」のまま時間が止まっているみたいに。


 少し進んで、転落防止の策に手をかけて、そこから見える麓や、その先に広がっている大海原を眺め、ふと物思いにふける。

 大学生になって、とりとめもなく過ごしていたら、いつの間にか就活に振り回される日々を送るようになってしまった。


 目の前のことに押しつぶされてしまって、高校生の頃の記憶なんて、今となっては薄れゆくばかりだ。

 そこまで高校生活というものに期待はしていなかったから、その分記憶のバケツからこぼれ落ちてしまうのも、無理はないかもしれない。


 しかし、それでも。

 あれから何年経とうが、確かに覚えていることがある。

 この変わらぬ場所で出会った『君』のことは――。


 「――――っ!」


 僕は『あの頃の君』に向かって全力で名前を叫ぶ。

 何度も何度も。喉が枯れるくらいに。風に流されても叫び続ける。


 でも、『君』が僕を呼ぶ声は、もう帰ってくることはないだろう。

 そんな現実に、それでも抗うように絞り出すような声は段々と小さくなっていき、代わりに視界が滲み始める。鼻の奥がツンとする。

 僕は視界を強引にブラックアウトし、大きく深呼吸をする。

 そして、壮大な景色に背を向けて、歩き始める。


 靴の砂利を掴む音がする中、どこかでセミの鳴く声がちらりと聞こえたような気がする。

 それは、もうすぐ、あつい、あつい夏がやってくることの合図。これから始まるのだという号砲――。


 この季節になると、僕は必ず思い出す。

 この先、何度この季節が訪れようとも、僕は決して忘れない。

 『君』と過ごした、奇跡のようなひと時を――。 



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