第5話 甘いのは菓子だけではない

「はぁ~…」


 少し赤くなった指先に息を吹きかけると、外気との温度差で吐く息は真っ白に変わる。

 何度か指先を握り、指先に暖かさが灯るのを確認すると、近くに立て掛けて置いた箒を掴んだ。


 エステルの朝は早い。


 朝日が昇るのと同じ時刻に起き、着替えるなり早速掃除に取り掛かる。

 まず最初に向かうのは玄関だ。

 朝一に客人が来てもいいようにするためである。

 自分の背丈ほど近い大きな箒を動かし、丁寧に砂や葉っぱを掃いていく。


 いつもと変わらないルーティンであるが、朝日が昇る景色は、いつも見ていたそれとは違う。

 

 エステルはそれが嬉しかった。


 昨日、エステルはアルベルトの屋敷に無事招き入れられた。


 再会を喜んだ直後、恐る恐る『私を殺したりしない?』と尋ねたら、呆れた様子で『命令がないのにする訳がないし、例えあってもしない』と頭を撫でられた。

 その時の笑顔も優しい声も、何もかもがエステルの知っているアルベルトそのもので、嬉しくて堪らずまた抱きついた。


 エステルの師匠である人形師はというと、昨夜のうちに帰っていった。というよりも、ここの屋敷の主人に追い返されていた。


 二人の過去に一体何があったのかはエステルには分からないが、その口振りからお互い深く関りを持っていたことは間違いなさそうである。


(どうみても仲がよさそうなのに…)


 けれどそれに関して見たままの感想を述べると、アルベルトは怪訝な目をして『それはない』と言い切っていた。

 そこまで言い切るのだから触れてはいけない過去なのだろうと、極力自分の師匠の話題は避けつつ、昨夜は会えなかった四年分を取り戻そうとするかのように、夜が耽るまで二人はお喋りに没頭した。


「…よし、終わり!」

 玄関ポーチから階段へと丁寧に掃除し終えたエステルは深呼吸をした。


  ひんやりとした空気が胸いっぱい入り込むが、今の彼女の胸は温かいものでいっぱいだ。


 一先ず玄関の掃除を終えたエステルは、次にティーセットを準備し主寝室へ向かう。

 部屋の前に到着したエステルが、扉を数回ノックするが中からの反応はない。


「アルベルト様~アルト~もう朝ですよ~」


 起こす気があるのか無いのか、遠慮がちに声を掛ける。

 ゆっくりと扉を開けると、物音を立てないようにベッドへと近づいて行く。


(起きない……)


 大人が優に三人は寝られそうな大きなベッドの真ん中でアルベルトは眠っている。

 静かな寝息を立てているアルベルトを見ると、何だか起こしてしまうのは忍びなく、エステルはベッドに腰掛け顔を覗きこんだ。


 色の薄い金髪が窓から射し込む朝日を透かす。


(キラキラして綺麗……。睫毛長いなぁ……寝顔、女の子みたい……。あ、ひょっとして、私よりも可愛いんじゃ……?)


 まるで彫刻のような美しさについ魅入ってしまう。

 整った鼻筋や柔らかそうな唇に目が行き、つい指先で触ろうか迷っていると…


「そんなに見つめられると流石に恥ずかしいのだが?」


 エステルは目を見開き、思わず後ずさった。

 ふっと笑いだしたアルベルトは、パッチリと目を開けた。


「お、起きてたの!?いつから!?」


「君が玄関掃除をしていた時から」


 にこにこと微笑みながらアルベルトは身体を起こした。

 彼が目覚めたのは部屋に入る時かと思えば、答えた時間は一時間も前だ。狸寝入りをするにも程がある。


「起こしに来てくれるかもと思って待っていたんだ。あ、そうだ。外は寒かっただろう?こっちへおいで?」


 低く甘い声に手首を引っ張られベッドに引きずり込まれると、アルベルトに後ろから抱き抱えられる形で座らされる。


「なっ……!?」

 主に背中から伝わる彼の体温が、一気に全身に駆け巡る。


(アルトの匂いがする…!!寝顔は女の子みたいなのに、身体おっきい……っていうか、恥ずかしいぃ!!)


 つい中性的な顔立ちに親近感を覚えてしまうが、その身体つきは間違いなく男性のそれであると、布越しからでもわかる。

 

(アルトって男の人なんだ…!)

 

 そんな当たり前のことを妙に意識してしまうと、益々顔に熱が集まっていく気がする。

 隠しきれないのは分かってはいるのだが、エステルは居た堪れなくて顔を両手で隠した。


「あったかいだろう?」


 ――むしろ暑いくらいである。


 耳元で囁かれると、そこから更に体温がじわりと広がる気がした。


「……無理ぃ…無理です……」


 これ以上熱がると自分は死んでしまうのではないだろうか?

 出来るだけアルベルトに触れないよう、膝を抱え極限まで縮こまる。


「ふはっ……!」


 その声に涙目で振り返ると、口元を抑え明後日の方向を向いて、笑いを堪えるアルベルトがいた。


(お、お、お、おもちゃにされたーー!!!!!)

 心臓はバクバクしっぱなしだし、変な汗はかくし、おまけに玩具にされるしで朝から散々だ。

 怒ったエステルが口を一文字に結び、ベッドから下りようとするとアルベルトがすかさず引き止め、顔を覗き込んだ。


「……ごめんって?」

「……」


 男のくせに上目遣いが可愛いとかどういうことだ。


「…………そんなに怒った?」

「………………」


 可愛い仔犬が寂しそうにしているように見えるけど、違う。断じて違う。

 正直、犬は好きだけど。


「じゃあ、お詫びとして……」

 熟考したアルベルトが一瞬悩み、言葉を濁す。


(アルトが、悩むほどのご褒美が…くる!?)

 

 エステルはその瞬間、つい期待の眼差しを向けてしまった。

 それがいけなかった。

 食い付いたと見るや否や、アルベルトは悪戯な笑みを浮かべ、彼女を腕の中へと引っ張り込んだ。


「めいっぱいキスしてあげよう!!!!」

 後ろから抱えられるように拘束され、アルベルトの唇がそっと首筋にキスをすると、そのままゆっくりとなぞるように這う。


「ひぃぃぃ!!」

 ぞくりとした感触に全身が総毛立ち、何とも情けない悲鳴を上げてしまった。


「流石にその悲鳴は、元令嬢としてどうかと思うぞ?」

 そう窘めておきながら、くすくすと笑ったままの彼は、その行為を止めることはない。


「あぁ、けど、久しぶりにこうしてエステルを抱きしめていられるのは、本当に幸せだな」

 そんなことを言われてしまうと、流石のエステルも無理には振りほどけない。

 けれど、唇を寄せたまま喋られると、柔らかい唇の感触がくすぐったく、羞恥心を煽っていくばかりだ。


 キラキラとした金髪が頬を掠めていく。

 やがて、面白がるように軽く首筋を食んだかと思えば、今度は下から上へとスーッと舐められた。


 「んっ…!」


 思わず漏れた声に、アルベルトの動きがピタリと止んだ。


(…もう!無理っ!!!!)


「許してください!!ごめんなさいぃ!!!!」

 何とか自分を拘束していた腕を引き剥がし、アルベルトから距離を取る。

 これ以上は恥ずかしさで本当に死んでしまうと判断したエステルは、意地を張ったことを素直に謝罪した。いや、させられた…が正しいが。


(あんなに素直だったアルトは何処へ…)

 他の人は爽やかな貴公子然としたアルベルトしか知らないだろうが、割とエステルの前では悪戯好きであった。

 そう思いだすと素直さはそのままだったと妙に納得する。悪戯っ子度に色気と拍車はかかっている気もするが。


 激しい息切れと疲労感に苛まれながら、エステルはアルベルトに目を向けたが、肝心の彼は口元を押さえたまま、明後日の方向を向いていた。

 心なしか耳が赤い気がするが、全身真っ赤な自分が聞ける立場ではない。


(…きっと、笑い堪えるのに必死なのね…)


 エステルの色気に当てられているなど、露にも考えていないエステルは、呼吸を整えるとそろそろいい具合に冷めたであろう紅茶を取りに、もそもそとベッドから這い出していく。


「…ところでエステル、その服はどうしたんだ?」

 ベッドの上から朝の紅茶を用意し始めたエステルを見ていた彼は、彼女の服装について疑問を呈した。


 彼女が纏っていたのは、ユークレース伯爵家のメイド服である。

 チャコールグレーのワンピース、エプロンには差し色としてワインレッドのラインが引かれたデザインだ。


「いつも掃除用にしていた服を詰めるのを忘れてたから、倉庫に保管してあったやつを借りたの。」

 エステルがその場でくるりと回ると、フリルが波打つように舞う。


「えへへっ、ここのメイド服は可愛いから、前から着てみたかったの!」

 ブローチ付きのタイも可愛いが、なによりもスカートにバックフリルがあるのがいい。

 エプロンのリボンと重なると、まるでドレスのような華やかさがある。


 アルベルトは眩しげに見つめたあと、ベッドからおもむろに下りて、エステルの腰に手を回し抱き寄せた。

 エステルは先程のベッドの上でのことを思い出し、身体を強張らせた。

 眼前に迫る獲物を狙う獰猛さを孕んだ目に、思わず腰が引けたのだ。


「…君は何を着ても似合うな。でも、こんな可愛いメイドにあれこれと世話を焼かれたら、仕事が手につかなくなりそうだ。僕の理性を持たせるためにも、普通の服も何着か贈らせておくれ?」


 言葉に甘さを感じる効果などあっただろうか?


 おやつの時間でもないのに、部屋中が甘い香りに満たされているようである。

 じわじわと頬は赤くなり、布越しに触れられている腰にまで熱が集まってきている気がする。


「あ、ありがとう……けど、アルト……近い!近いですっ!!!!」


 今にもトロトロに溶けてしまいそうな感覚に陥りながら、エステルはその視線から外れようと身じろいだ。


 月日というのは恐ろしい。


 僅か四年足らずで元婚約者はとんでもない色気を手に入れていた。


 年齢よりも幼く見えるのに、その幼さが彼の魅力に更なる要素を追加しているようにしか思えない。

 本能的に危険を察知したエステルは、必死に手を突っぱね距離を取ろうとした。

 無駄な抵抗だというのに。


 けれどそんな健気なエステルの可愛さに満足したのか、アルベルトは彼女の額に軽くキスを落とすと、ようやく腕から解き放った。


「さて、朝食を済ませたら少し街に出ようか。確か、今日は市場も出ている筈だ。君がこの屋敷にいることになった以上、必要な物も増えるだろう?」


 何という魅力的なお誘いであろうか。

 エステルにとっては四年ぶりの王都。

 師匠が金に糸目を付けぬ性格だから、洋服や化粧品には困ったことなど一度もないが、そう、お菓子は別だ。

 日持ちしないお菓子はここ4年、自分が作るもの以外口にしていない。

 エステルはお菓子作りも好きだ。当然、頑張って作っただけあって格別に美味しいのだが、そうではなくて、人が作ったものはそれはそれで、新しい発見があって美味しいと思っている。


 「お菓子…!お菓子買ってくれる!?」

 

 「何がいいの?カヌレ?それとも新しいお菓子でも探すかい?」


 どちらも魅力的なお誘いである。だけど、ここは久しぶりに我儘が言いたい。


 「…どっちもは?」

 「君が望むのなら」


 甘く優しく微笑んだアルベルトに、エステルはピンク色の瞳を輝かせて喜んだ。

 その結果『可愛い』とまた言い出した彼に、15分もの間

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