1—07 朝練開始

 6月14日金曜日。

 アラームは6時にかけておいたが、はっきりと目覚めたのは6時20分だった。

「やべっ」と叫びながら飛び起きて、急いで身支度。着替えを終えて、靴箱からしばらく眠っていたテニス・シューズを出して、紐を締めて、6時29分。

 外に出たら、美那が不満げな顔で立っている。背中にはバスケットボールが3つ入るバッグを背負っている。

「わりい」

「ま、ぎりぎりセーフ。朝ごはんは?」

 よかった。意外と表情は柔らかい。

「まだ」

 美那は手提げのトートバッグからバナナ2本を取り出すと、1本を俺にくれた。

「どっかでドリンク買って、南公園に行こう」

「南公園って、高速道路の近くのところ? あそこ、バスケできんの?」

「いちおう、バスケットゴールはあるんだよ。ミニ・バスケ用のちょっと低いやつだけど。とりあえず最初はそれでいいでしょ」

 途中の自動販売機でスポーツドリンクを買って、バナナを食べながら公園に向かった。

「朝早くから使えるところって、意外と少なくてさ。電車とバスで一時間近くかければ3x3用のコートも使えるけど、遠すぎるしね。学校の体育館はちょっと嫌だし。なんで、森本とバスケの練習??? とか思われちゃうし」

「そりゃ、そうだ」

「バイク、お母さんからOKが出て、よかったじゃん。少ししたら後ろに乗せてね」

「それだけどさ、タカシ兄ちゃんに乗せてもらえば? 俺はまだ下手だし、免許を取って一年しないとタンデムできないし」

 俺はかーちゃんからライディング・スクールに通うことや、安全運転など、誓約書の件を話した。

「さすが加奈江さん!」

「いつも思うけど、ひとの母親を友達みたいに気安く呼ぶな」

「えー、友達みたいなものだよ。だって、あたし、自分の母親より、加奈江さんのほうが話しやすいもん」

 美那のお母さんは、ちょっと神経質で性格もきつかったりする。美那はどちらかというと浮気したお父さんに性格が似ている気がする。だから浮気や離婚の件はよけい辛いんじゃないかと思う。

 お父さんは大手の電機メーカーに勤めていて、一流大学出のスポーツマンだ。美那の家に遊びに行っていたのは幼稚園の頃だから、よく覚えていないけど、すらっと背が高くて、ハンサムで、優しかった――今思うと、人当たりが柔らかいというほうが適切かもな――けど、休日出勤も多いらしく、あまり話した記憶がない。いかにも女性にモテるタイプ。

 一方、お母さんのほうは、お嬢様育ちの美人タイプ。でも俺のかーちゃんと違って、面白みのあるタイプではない。離婚は、どの夫婦にとってもそれなりにヘビーな出来事だと思うけど、美那のお母さんの園子そのこさんにとってはかなり重いことだと推察できる。それゆえ、その母親とふたりだけになる美那にのしかかる重荷も相当なものだろう。

 俺の父親は、やはり大手の自動車部品メーカーに勤めていた(たぶん、いまも)。俺が車やバイクが好きなのは父親譲りだろう。父親が家で暴力を振るい始めたのは、仕事で理不尽なことが続いたせいらしい。いまでいうパワハラだろう。もちろんいまだに父親のことを許せないが、多少の同情ができるくらいまでには俺も成長した。少なくとも養育費を毎月きちんと払ってくれていることだけは感謝している。世の中には、離婚をしても、養育費さえ払ってもらえない人もたくさんいるみたいから。

「バイクの二人乗りってタンデムって言うんだ。タンデムはリユの準備ができたらでいいよ」

「うーん。考えとく」

「約束だよ」

「何年かあとでもよければな」

 二人で事故ったりしたら、シャレにならない。少なくとも運転に自信を持ててからだな。いや、慣れた頃や自信を持った頃が危ないとかも言われているしな。しばらく保留だな。


 厳しくするとか言ってた割には、美那の練習メニューはさほどでもなかった。初日だからだろうけど……。

 軽くストレッチとかしてから、まずはダイレクトパス。なんか、よく遊んでいた幼稚園の頃を思い出す。美那のパスは速くて正確。胸の前にパシッて飛んでくる。俺のは、だいたい上半身の枠に収まっている程度だ。しかも、球筋がよくない。

 それから適当にシュートの練習。さすがに美那は決まってる。俺は止まってからのスローはできるけど、走り込んでのシュートはなかなか決まらない。美那が手本を見せてくれ、その真似をする。漫画スラム・ダンクで桜木花道も最初に練習させられたレイアップシュート。ジャンプしながらボールをそっと置くようにしてシュートするやつだ。

 そもそもドリブルだっておぼつかない。体力も続かない。徐々に息切れがひどくなる。

「ちょっと休憩しようか?」

 美那には珍しく気遣ってくれる。

「ああ、たのむ」

 荒い呼吸でベンチに座り込み、スポーツドリンクを喉に流し込む。

 ほとんど同じことをしていたはずなのに、美那は涼しい顔だ。

「課題だらけだね」

 美那がつぶやくように言う。

「割とシュートは決まってたよな」

「静止状態からは、ね。レイアップは練習でほぼ100%決まるくらいじゃないと、試合じゃ決まんないよ。それにドリブル。最初から思ってたけど、ドリブルがいちばんの課題かなぁ。でも逆に言うと、ドリブルが上手くなれば、リユの戦闘能力は格段にアップすると思う。あとはボールのハンドリングもね。あ、そのまえに、体力ね。特に走力。たばことか吸ってないよね?」

「吸わねえよ。バイクの金を貯めるのに必死だったし、無駄に税金を納める気はねえし」

「やっぱ、ここのゴールじゃ低過ぎるね。どっか、近くでできるところを探さなくちゃ」

「普通のゴールよりどれくらい低いんだ?」

「45センチ。中学生以上の公式戦用は305センチ」

「15%くらいか。でも50センチはでかいな。あと50センチ高く飛ぶとか無理だし」

「どっかないかなぁ。朝9時からとかばっかりなんだよね。ここは土のグラウンドだからいいけど、コンクリートだと、結構、音が響くからね。ゲームしたら声も出すし。まさかコートの確保で苦労するとは。3on3は夜とか休日とかだったから有料でも予約はできたし」

「筋トレとか走り込みばっかりとかイヤだぞ」

「イヤでも必要だから。完全、体力落ちてる。テニスやめて、どのくらいだっけ?」

「夏休み前だから、もうかれこれ1年か……」

「その後、ランニングとかしてないよね」

「まあ、体育で走るくらい。あと、クラスのやつと休み時間にじゃれるとか? 最近はそれもあんまないけど」

「はー。先が長い……」

「大会出るとか言ってたけど、いつあんの?」

「9月中旬。予定を空けといてね。これから前期末試験もあるし、夏のバイトもあるし、実質2カ月あるかないか、ってとこか」

「ドリブルなら、コートじゃなくてもできるよな」

「走るのは徹底的にイヤなわけね」

「もちろん必要だろうけど、そればっかりだと気持ちが落ちそうだ」

 横で美那が皮肉っぽく笑ったような気がしたが、気のせいか?

「時間もあんまりないし、再開しようか?」

 俺は重い腰を上げた。

 次は1on1(ワン・オン・ワン)という1対1で攻守交代するゲーム。ゴールを決めたら引き続き攻撃をできるルールで、ゴールから遠いところで守り側が攻撃側にボールを渡してプレーを開始する。ただこの場所はラインがないから、ポイントはどれでも1点で、5点先取したほうが勝ち。攻撃側は12秒以内にシュートを打たなくてはいけない。審判はいないから、守備側が適当にコールすることにする。

 俺が先攻だ。美那がボールをパス。受け取った俺はドリブルを開始する。が、美那のディフェンスに全然、中に入っていけない。カウントが残り3秒になったところで外側から無理やりシュートを放つが、ゴールにかすりもしない。

 次は美那が攻撃。俺がボールを渡すと、あっという間にフェイントをかけて、俺を置き去りにする。なんとか追いすがるが、さっとコースを変えて、レイアップシュートでゴール。カウントダウンする暇もない。

 ゴールを決めた美那がまた攻撃。今度はフェイントにひっかからない。美那は器用にドリブルする手をかえて、俺をもてあそぶ。俺もテニスで培ったステップで必死で美那の進路を潰す。土のコートならテニス部だった俺のほうが慣れている。だけど、すっと横に動いたと思ったら、くるっと一回転して、俺が離れた隙に、ロングシュートを決めてしまう。

「くそ。うまく守ってたのに」

「甘い、甘い」

「次はマジで行くからな」

 強がってはみたものの、左右の手を切り替えたり、股間を通したりするドリブルに惑わされて、美那が動き出した時には完全に出遅れてしまう。が、なんとか手を伸ばして、シュートをブロックする。

「よっしゃ!」

「おー、やるねー」

 美那は余裕だ。こっちはもう呼吸が乱れまくっている。

 今度は俺の攻撃。どうやったら、美那を抜ける?

 ドリブルが思うようにできない。奪われずにボールを突いているのが精一杯だ。仕方ない。一か八かで動き出し、わずかにゴールに近づいたところで、ボールをホールドしてから、ステップで美那を離してジャンプ。さらにシュートフェイントで空中で体勢を無理やり変えてからボールを放つ。弧を描いたボールがゴールに吸い込まれていく。

 決まった!

「やったー」

「しまった。やられた。油断したー!」

 美那が悔しがるのを見るのは楽しい。

「もう1点もあげないからね」

「できるかな?」

 偉そうに言ったものの、次の攻撃では、ドリブルを自分の足に当てて、ボールはコートの外に。そして、美那に攻撃が移ると、続けざまに3本決められてしまいゲームセット。

 それに俺はこれ以上、息が続かない。膝に手を当て、立っているのがいっぱいという状態だ。

「どう? わたしの実力を思い知った?」

「ちくしょう(ハアハア)めちゃ悔しい(ゼイゼイ)ぜんぜん、かなわないじゃん(ハアハアゼイゼイ)」

「そろそろ帰らないと、遅刻しちゃう」

 俺はそれ以上、言葉を発することができずに、美那のあとに続いた。

 しばらく無言で歩いて、ようやく呼吸が整ってきた。

「やっぱ、伊達に毎日鍛えてるわけじゃないんだな」

「うちのバスケ部は毎年せいぜい3回戦どまりでなかなか支部予選を突破できないけど、それでも結構厳しい練習してるんだから。いくら男子でも帰宅部のリユに簡単に負けるわけないじゃない」

「でも、1本は決めた」

「ま、ちょっと油断したのはあるけど、あれはさすがリユって感じだよね。創造性のあるプレーっていうの? それもバスケじゃなくて、テニスとか別の要素も混じっているから、やられたーって思った」

「そうだろ」

「リユって、球技大会で見たときも思ったんだけど、テニスとも違う、相手の意表をつく特殊な動きをするよね」

「え、どんなやつ?」

「なんか、動物みたいな。ほら、野生のヒョウとか獲物を追う時にすごい方向転換するじゃない」

「ああ。たぶんだけど、小さいころ、犬とよく遊んでたからじゃないかな?」

「リユんとこ、犬なんて飼ってなかったよね。引っ越してくる前?」

「いや。小学3年とか4年のころ、親父が暴力を振るい始めて、家に帰りたくなくてさ、特に土日? 俺たちの家からちょっと行ったところに、結構大きな邸宅があるのを知らない?」

「ちょっと登っていたところにあるぐるっと塀に囲まれた大きな家?」

「そうそう。そこの老夫婦が犬を散歩していたときに、その犬と仲良くなってさ、いつのまにか、そこの家の庭で犬と遊ぶようになったんだ。金持ちだろうに雑種の中型犬でさ、でも賢いやつで、楽しかったな。サスケって名前だった」

「へぇー、ぜんぜん知らなかった。あのころ、クラスも違ったし、ちょっと疎遠だったもんね。リユの家の家庭内暴力のことを知ったのは高学年になってからだったし、学校では普通に見えたし」

「それはいまのミナも同じだな。気がつかなかったよ」

「わたしたちって、ふたりとも強がりなんだよね」

「そうだな」

 美那が俺のほうを見て、子供のころのように微笑んだ。可愛らしい笑顔だ。

 いつもこんな笑顔をしていられたらいいのにな。せめて、バスケで頑張って、笑わせてやるか。

「なあ、どうすれば試合で通用するようになる?」

 ちょっと驚いた目で美那が俺を見る。柔らかい眼差しに変わる。そして、再び前を向く。

「やっぱ、体力とドリブルからだね。それと右と左で同じようにプレーできるようにならないと」

「じゃあ、明日にでも、ひとりでできる練習方法を教えてくれよ」

「うん、わかった」

 美那は急に競歩のように急ぎ足で歩き始め、俺も負けじと足を早めた。

 結局、手前にある俺の家に先に着いたのは美那。完全に体力負けだ。

 俺が30秒ほど遅れて到着したのを見計らったように、美那はバッグからバスケットボールを一つ取り出し、俺に渡した。

「これ、リユにプレゼント。新品じゃなくて悪いけど、3x3の公式ボールだから。テニスの時もやってたでしょう? 暇なときにラケット持って、ボールをぽんぽんひとりで弾いたり。それと一緒。ボールを触ったり、軽く投げたり、左右の手に交互に渡したりして、ボールに馴れて。ハンドリングの練習」

「いいのかよ。公式戦用なら結構するんじゃない?」

「勝つためなら、このくらい安いもんよ」

「そうか。じゃあ、もらっとくわ」

「うん」

 美那は「じゃあね」と言いながらくるっと背を向けると、左手をあげて、自分の家に向かって走っていった。

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