20. 夢の中
長かった昭和が終わり、時代が平成へと移り変わる。
それはその時代に生きていた日本人の多くが初めて経験する時代の節目だった。
その少し前、俊彦の実家の店が出品した工芸菓子が博覧会で最高賞を受賞した。職人見習いだった俊彦の目から見てもやりすぎに思えた絢爛豪華な細工菓子は、先代が職人頭の佐橋に作らせたものだった。
通りを行きかう人々の服や車も原色の派手なものが増えた、ディスコに向かう着飾った女たちと高価な服に身を包んだナンパ男たちが夜の街を闊歩しはじめた。
ある映画をきっかけにスキーがブームになると、男たちは高価な四輪駆動車に乗って夜の街から雪山へと向かった、現地のホテルを予約してスキー場にやってくる女たちを待ち構える。世の中の景気は確かに上向き始めていた。
そんな時代の空気のせいだろう、先代が作らせた豪華な細工菓子は、それまで菓子の賞など見向きもしなかった新聞やテレビに連日大きく取り上げられた。
先代が佐橋にあれほど豪勢な細工菓子を作らせたのは、この好景気で一点物の高級工芸菓子に世間がどれほど興味を示すかを探るためだった。
だが反響は先代の予想を遥かに超えて、受賞が報道されると取引先のデパートを通じて店には贈答用の高級菓子の注文がひっきりなしに舞い込むようになった。先代はデパートの勧めで、その系列店に高級和菓子の専門店を出店した。
景気はその後も破竹の勢いで上向いていった、それまで普段の運転資金すら融資を渋っていた銀行が執拗に事業拡大を勧めてきた。
新しく出店したり工場を大きくするのであればいくらでも融資すると銀行は言ったが、先代はいろいろと理由を作って拡大を小出しに抑えた。先代は好景気が長く続くとは初めから考えていなかった。
「こんな事が永く続くわけがない、経営者はその時に備えないといけないんだ。お前はみんなにクビだって言えるか? 俺は絶対に御免だ」
先代は俊彦の前でことあるごとにそう言った、だが後に『バブル』と言われた景気拡大は、終わりを考えるのが馬鹿馬鹿しいと思えるほど拡大を続けた。
経済の専門家は「景気は当面このまま拡大を続ける、将来的には緩やかな成長に落ち着くだろう」などと言っていた。素人は素人で「日本はいずれあのアメリカさえも抜いて経済で世界を制するのだ」と、まるで集団催眠にでもかかったように信じ込んでいた。
好景気は揺るがないという空気が広く世間に蔓延した頃、先代はそれまで避けていた付き合いの席に俊彦を連れて顔を出すようになった。
俊彦はそこで空前の好景気に沸く人々の姿を見た、高級シャンパンをまるでビールのようにあおる人々、酒を注いで回る女たちの胸元や帯には折り畳まれた一万円札が何枚も突っ込まれていた。
自分の数倍の人生経験を積んだはずの大人たちが、夢のような投資話に夢中になっている。その中には先代の知り合いでかつて幼い俊彦に人の道を説いたものさえいた。大人たちの熱気と厚化粧の匂いで蒸れた会場がまるで夏の陽炎を見るように歪んで見えた。俊彦は呑みすぎてもいないのに何度もトイレで吐いた。
帰りのタクシーの中、俊彦は何故自分を連れてきたのかと先代に訊いた。先代は言った。
「酷いもんだったろう? あの人たちの大半は現実を見ていない、夢の中にいるんだ。今の景気が良ければ良いほど悪くなった時の反動は大きい、その時を考えたら責任がある立場の人間があんなに浮かれたりはしない。良いときこそ大事なんだ、その間に何をするかで会社の運命が変わる。おまえは絶対にああなるなよ」
この時期、先代はいつも景気が下降した時のことを考えていた。景気が悪くなれば高価な贈答用の菓子など真っ先に売れなくなる、会社をどの程度の規模にとどめておけばその時に耐えられるのか――。
たぶんその場に集まったどの経営者よりも家業を継ぎたくなかった先代は、その家業を絶やさないために休みの日も様々な場所に顔を出しては、経営や経済に関するあらゆる情報を集めていた。
だが先代の方針には問題もあった、注文は増え続けている、だが小さな会社は来る仕事を簡単には断れない。工場は酷い人手不足に陥っていた、しわ寄せは先代が大事にしているはずの従業員たちに回っていた。冗談めかしてはいたがあまりの忙しさに不平を言う者も出始め、経営者の息子である俊彦は率先して休まずに働くしかなくなった。
秋子とは歌舞伎の晩を最後に会っていなかった、翌月届いた手紙には地元の役場に就職が決まったと書かれていた、秋子は故郷で暮らす道を選んだ。
俊彦は返事を書かなかった、何か書くべきだとは思った、だが何をどう書けば良いのか分からないまま時間は過ぎていった。秋子は故郷を選んだ、若い秋子の時間をこれ以上自分の為に浪費させるわけにはいかない。俊彦はそう思った。
秋子からはその後も二通の手紙が届いた、二通目は病気とでも思ったのか俊彦の体を心配していた。新人だから役場はまだ休めないけれど日曜なら空けられると書いてあった。だが俊彦は卒業研究が追い込みに入った事を自分への言い訳にして、やはり返事を書かなかった。
会いたかった、会って抱きしめて、キスをしたかった。だが会ってどうなるのだ。「もう会えない」と紙に書くことすらできない男が、秋子の前でそれを口に出せるとは俊彦には到底思えなかった。
部屋にいるとポストが気になって仕方がなかった、研究室に泊まる事が多くなると、俊彦はアパートを引き払った。去り際にポストを覗いたが中にはどうでもいいダイレクトメールの類しか入っていなかった、迷った末に郵便局に手紙の転送は頼まなかった、それからは研究室と友人の部屋に泊まる生活を続けた。
論文を仕上げて横浜の実家に戻ると、すぐに見習いとしての日々が始まった。職人頭の佐橋に怒鳴られながら必死に仕事を覚える日々を過ごしていると、気が付いた時には秋子と会わなくなって半年が過ぎていた。
ここで家業を継ぐ以上、秋子の人生にかかわってはいけない――。
親がかりの身でなくなった俊彦は、若く激しい愛情に溺れて認められなかったことを、もう認めなければならなくなっていた。
秋子の前ではいっぱしの大人のような顔をしていた、だが今は佐橋に毎日怒鳴られるペーペーに過ぎない、これが自分の本当の姿なのだと俊彦は思い知らされていた。
自分の仕事さえ満足にこなせない男が若い秋子を故郷から引き剥がして幸せにする。そんな事は出来っこない、もしあのとき秋子を連れ去っていたら、僕はきっと彼女を失望させていた――。
佐橋は社長の息子にも手加減はしなかった、むしろ他の者よりもきつく当たった。実際に仕事ができなかった事もある、だが佐橋が俊彦を叱れば叱るほど他の職人たちの不満は行き場を失い工場がうまく回る。
職人たちは俊彦に同情を寄せ、社長の息子という扱いづらい立場を忘れ、俊彦を仲間として受け入れた。すべては佐橋と先代の策だったが、それを俊彦が知るのはその後ずっと先の事だった。
工場は忙しくなる一方だった、俊彦は早く一人前になるために懸命に働き続けた。いや違う、本当は秋子を一日も早く忘れるために。
簡単な仕事ならこなせるようになってきた夏の事だった、一人の女子学生が工場に現れた。
その年、大学の商学部に入学したばかりの詩織は佐橋の孫娘だった、詩織は大学の長期休みの間だけ事務のアルバイトに来るようになった。父親の輝邦も職人だから、詩織の大学が休みの間は佐橋家の三代が店に揃う。
佐橋は工場の職人頭であり会社では常務だった、息子で名ばかりの課長に過ぎない輝邦は、もうすぐ四十歳を迎えるというのに父親に頭が上がらない。そんな二人と同じ職場で詩織はどんなに気まずいだろうと思っていたら、本人は二人を空気か何かのように無視して黙々と仕事をこなしていた。
およそ何事にも動じないその姿に感心して俊彦は訊いた、「詩織さんは、職人に興味ないの?」
詩織は痩せた体に似合わず「お菓子は作るより食べるほうが好きです」と迷わず答えた。
俊彦はときどき詩織に秋子の姿を重ねていた、詩織は秋子のように十人中十人の男が振り返るような美人ではなかった。だが整った美しさよりも柔らかな愛らしさが目立つ女だった。
性格は都会の若い女らしく、あっさりとしているように思えた。だがそれは自分の父と祖父と一緒に働くという居心地の悪い中での詩織しか見たことがないせいかもしれなかった。
詩織は大学の長い夏休みの半分をアルバイトに割いた、何のためにそんなに稼ぐのかと訊くと、旅行が趣味なのだと答えた。夏休みの後半は稼いだ金で旅行サークルの仲間と沖縄へ行くと言った。
夏休みが終わった九月、詩織が久しぶりに工場を訪れた。軽く日焼けをした優し気な顔に、黄色い清楚なワンピースが良く似合っていた。
アルバイトの時の詩織はいつも髪を上げて、Tシャツとブルーのデニムパンツ姿だった。その雰囲気の変わりように俊彦は秋子と別れてから初めて胸の高鳴りを覚えた。
詩織は大量の“ちんすこう”を土産に持ってきた、だが俊彦にだけは他の皆から隠すように、ゴーヤーに脚が生えたような奇妙なキャラクターのキーホルダーをくれた。
「いろいろ教えてもらいましたから」詩織は照れるようにそう言ったが、職人見習いの俊彦が事務の詩織に教えた事など、特にないはずだった。
「写真は無いの?」俊彦が訊くと、詩織はバッグの中から白い封筒を取り出した。
「さっき貰ってきたばかりで」
一枚目の写真には、南国の真っ青な海の前で水着姿の若い男女が七、八人肩を組む姿が写っていた。詩織は新入生らしく一番端にいて、オレンジ色のビキニを着ていた。
「あっ」小さな声を出して詩織が写真を隠そうとした、俊彦はとっさに束ごと写真を取り上げた。
四人いる女子の中では詩織が抜群に可愛いい、着ているビキニも抜群に小さくて、目の前の清楚なワンピース姿との違いに俊彦は驚きを隠せなかった。二枚目、三枚目と似たような写真が続き、四枚目の写真で俊彦の手が止まった。写真の中の詩織は黒々と日焼けをした筋肉質の男と二人で並んで写っていた。
「詩織さんの彼氏?」
俊彦がなにげなく訊くと、詩織は「違います!」と強く言って、俊彦の手から写真の束をひったくった。
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