終了点

岩と氷

第一章 雲上の楽園

 何もない空間に手を伸ばすと手のひらに点々と冷たい感触があった、避難小屋の外は白一色で、目の前を通り過ぎる雪の粒さえ分からない。

 消えたのは色だけじゃない、音も消えた。雪が世界のすべてを吸い取っている。

  

 戸を閉めて薄いゴザが敷かれた板の間に座る、暗闇に見える何本かの細い線は雪囲いの隙間だ。ヘッデンの灯りでコーヒーを沸かしカップを口に近づけると、湯気が光ってコーヒーが見えなくなった、こんな場所で火傷はしたくないからヘッデンの角度をあれこれ弄っていると、先にコーヒーが冷めてしまった。


 若い頃、山岳会の冬合宿にレギュラーコーヒーを持ってくる奴らがいた。その二人は標高二千メートルを超えるベースキャンプまで、パーコレーターとか言うヤカンみたいなやつまで担ぎ上げた。確かに奴らの淹れたコーヒーは美味かった、だが少しでも荷物を軽くしたい冬山に、それもアルパインクライミングの合宿にそんな余計なものを持ってくる神経が俺には理解できなかった。


「馬鹿かお前ら、インスタントにしろよ」俺たちがいくら叱っても、奴らは毎年頑なにそれを担ぎ上げた。そいつらは二人とも日本中の誰もが知っている名の通った大学を出ていた、あの頃の俺は奴らが何かをやらかすたびに「人間は勉強しすぎると利口を通り越して馬鹿になる」と本気で飽きれたものだ。


 俺が高校生の頃、山岳部は国のお達しで岩登りを禁止されていた。北アルプスの登山道から岩壁にとりつくクライマーを見るたびに、俺の腹の奥で憧れと悔しさが増していく。一年生の頃は家の近くの公園で、毎晩のように懸垂をして鬱憤を晴らした。


 二年生になって片手で懸垂ができるようになると、岩登りが出来て高校生も入れてくれる山岳会を探した。川を渡った東京に良さそうな会があると聞いたのはもう冬が近づいた頃だった。


 親も若い頃に登山を齧っていた、だから理解してくれると思っていた。だが谷川岳で宙づりになったクライマーの遺体を銃撃で収容した事件が頭をよぎるらしく、入会はなかなか許してもらえなかった。


「どうせ山を登るために就職はしない、もうすぐ十八歳だから、許可してくれないなら高校を退学して勝手に入る」


 そう親を脅して入会した時には三年生になっていた。


 先輩会員の半分は教師と看護師だった、残りは近くの工場に勤める工員と自営業のオッサンどもだった。やたらと多かった教師を除けば学歴はみんな高卒か専門学校卒で、地元で長く魚屋を営んでいた会長に至っては、中学に入った覚えはあるがまだ出ていないと言い張るのが合宿のテントでの鉄板ネタだった。


「ボクちゃんまだ中学生なんでちゅう!」ソバカスの代わりにシミが目立つオッサンが、そう言いながら中学の教師をやっているオバサンにすり寄るコントは、三度も見ると鬱陶しくなった。


 そういえば会長とはもうずいぶん会っていない、九十歳を超えても相変わらず体は丈夫らしいが、痴呆ボケが進んでからは時々物凄い力で暴れるそうで、最近はほとんど薬で眠らされているらしい。


 教師や看護師というのはよほど鬱憤がたまる仕事らしい、教師は長い休みをとって、看護師は病院を辞めてまで毎年誰かは海外の山に出かけていた。

 俺は高校を卒業してからアルバイトで食いつないでいたし、工場勤めの若い会員もたいした給料は貰っていない、休みもあの頃はまだ週一日しか無かったから、若い俺たちはもっぱら国内の岩山に通って登攀の記録を競っていた。


 若者の煮えたぎった血のいくらかは女に回したが、残りのすべては岩壁に注いだ。おかげで入会数年後には無雪期の初登攀が三本、冬の初登攀にも一本成功して、俺たちは東京近辺では少しは名前が知られる存在になっていた。


”登攀に強くて海外遠征にも行く本格山岳会” レギュラーコーヒーの二人には俺たちがそんな風に見えたのかもしれない。実際はただのド助兵衛と酒飲みの集団だったのだが、いかにも世間知らずのお坊ちゃんらしい勘違いだ。


 あいつらはまるで当然のように英語を話した、二人とも第二外国語とかいうものがフランス語だとかで、フランス語も読む事が来た。奴らは集会に山道具屋の棚に二か月遅れで並ぶフランスやイギリスの山岳雑誌を持ってきた、そして毎回それを根気よく訳して俺たちに聞かせた。

 はじめは遠い世界の事とあまり意に介さなかった俺たちだったが、二人の熱のこもった語りに徐々に山屋の本能を刺激されて、数年後には俺たちは国内で最も先鋭的な山岳会の一つと周囲から見なされるようになっていた。


 人より余計に学を齧った奴というのは、やたらと負けん気が強いらしい。あの二人は自分たちの勘違いを認めるどころか俺たちを変えてしまった。だがそれでも俺はコーヒーについては俺が正しいと思っていた。


 普段くたくたになるまで体を使っている労働者は、生活の細かな手間をなるだけ省こうとする。美味いコーヒーが飲みたければ店に入るし、外に出るのが面倒な時も自分で淹れたりはしない、大抵はインスタントを濃い目にいれてごまかしてしまう。


 だが普段でかいビルの中で頭ばかりを使っていたあの二人は、そんな煩わしい手間をなぜか「楽しい」と感じていたらしい。あの頃俺はあいつらに合宿の食料係を任せていた、山のど真ん中で今度はどんな手の込んだ料理を作るのか、それを予想するのが毎回の楽しみになった。


 一口に登山家と言っても山の楽しみ方はそれぞれ違う。何が何でも頂上に立たなければ気が済まない奴もいれば、俺みたいに難しいルートさえ登れれば頂上なんてどうでもいい奴だっている。中にはただ山で酒を呑むのが好きで、テントから出るのは糞と小便とゲロをたれる時だけという奴だっている(ベースキャンプキーパーとしては有難い存在だ)。


 厳しい条件の山であっても美味いコーヒーを淹れる、それがあの二人には仲間に疎まれてでもやりたい大事な事だったわけだ、だが俺がそれを納得する前に奴らは一人づつ俺の前から消えていった。


 最近、山でポッカリ時間が空いてしまうと、あの頃の事ばかり思い出す。俺も本格的にじじいになったらしい。いつの間にか風が雪囲いを揺らしている、やはり束の間の静寂だったようだ。


 標高二千メートルほどの山頂に湿原が広がるこの山は、春から秋にかけてはたくさんの登山者を集める。だが冬になると状況は一変する、登山口まで十キロ以上もある林道が雪に埋まり、登山口までなんとかたどり着けても、そこから山頂までは樹林の間に降り積もった深い雪をかき分けて進む苦しいだけの登山になる。ここには岩屋の本能をかきたてる岩壁も無ければ、縦走家が望むすっきりとした尾根もない。


 冬になると湿原はそのまま雪原になる。ただ広いだけの雪原を見るために、この悪条件に立ち向かおうと考える者は登山家にさえ少ない。冬の間ここは周囲十数キロに人が誰もいないエデンの園になる。もっとも裸になるには寒すぎるし、いるのはこのむさくるしいアダムだけでイブはいない。


 避難小屋は湿原の端の樹林の中に風を避けるように建てられている。備え付けのノートを見たら案の定、俺の前に冬にここを使ったのは二年前の物好きな山スキーヤーが最後で、その前は何年もいないようだった。


 俺がこの山に初めて登ったのは高校生の頃だ、卒業してからも季節や相手を変えて何度か登ったが目的は登山ではなかった。山上に広がる湿原はロマンチックで女を口説くのに実に都合がいい。山を降りて寄る村には、昔ながらの混浴の共同浴場も残っている。


 だが遠くアルプスで小屋番のアルバイトを始めると、ここへ来る事は無くなった。北アルプスの岩と氷の世界でさんざん遊びまわるうちに、俺は縁あって山岳カメラマンの助手になった。

 独立後はただ仕事のために山に通う日々だった、金になる風景を撮りながら、自分で山の記録を狙うかわりに記録に挑んでいる連中を撮りもした。


 体の衰えに気づいたのは突然だった。こういうものは徐々に来るものだと思っていたが実際は違った、腰は職業病でとっくに壊していたが、強いと思っていた膝がある日を境に急に痛みだした。はじめは一時的なものだとたかをくくっていたが、それっきり何年も治る気配はない。


 もうすぐ今までのようには登れなくなる、そう思った時に思い出したのがこの山だった。他の季節はすべて登った、だが俺はまだこの山の冬の姿を見ていない、体が動くうちに、どうしてもそれをカメラに収めたい。歳をおうごとにその想いは強くなっていった。


 この冬は雪が少ないという予報を聞いて、雑誌の年末進行が片付くとすぐに東京を出発した。確かに雪は少なかった、おかげで林道のかなり深くまで車で入れた、だがそれでも登山口まではまだ数キロほどもある。


 腰のハーネスにプラスチックでできたソリを繋いで、八日分と予備日の食料と撮影機材を縛り付けて、まだ暗いうちに出発した。形は昔と同じだが素材がアルミに変わったワカンを履いて、こんな時スキーができれば帰りが楽なのにと思いながら、雪に埋もれた退屈な車道を歩いた。


 ヘッデンの明かりがいらなくなった頃、登山口の看板が見えた。荷物をザックに詰め直して登り始める。ここから頂上直下で樹林が切れるまでは、雪に埋もれた夏道を忠実にたどる事になるはずだ。


 出だしの急登からすでに膝上のラッセルだった、両手には深雪用の大きなバスケットがついたストックを持っている。思えばずいぶん変わったものだ、俺たちの世代は杖はバランスを保持するために使うと教えられていた。鍛えていれば必要のないものだと思っていたのだ。もし使うとしても片手に一本持てば十分だという先入観もあった。


 そんなしつこい先入観も消える時は一瞬だった。速攻登山でエベレストの単独登頂に成功した登山家の著書を読んでいると、彼は山の下部を両手にストックを持って突破していた。


 彼はヒマラヤの巨峰の登頂で世界的に有名になったが、元はヨーロッパアルプスの難ルートをいくつも制した優秀なクライマーだ。

 そのとき俺は気づいた、歩きの山屋と違ってクライマーは腕を引き付ける筋肉が発達している、俺たちならストックをバランス保持ではなく推進力に使えるのではないかと。


 脚が二本増えるようなものだ、楽でないはずがない。実際に山でやってみると初めは勝手の違いにまごついたが慣れると何と楽な事か、特に雪山では疲れが飛躍的に抑えられた。

 ピッケルがいらない場所でこれを使えばスピードが上がる、体力も温存できて姿勢も良くなり腰の負担も軽く済む。もっと早く試していれば腰や膝もここまでは壊れなかったかもしれない、俺は今まで何をしていたのだろう、自分の頭の固さを思い知った。


 尾根に出ると雪は膝下までに減った。白い雪面に突然、先客の足跡が現れる、足跡は上から降りてきて左側の樹林へ進んでいるように見える。足は小さくて少し幅が広い、婆さんがよたよた歩いたような感じだった。

 だがこの時期のこんな場所に婆さんがいるわけがない、顔を近づけて足跡をよく見ると先に爪らしい跡があった。暖冬のせいだろうか、熊がまだ冬眠に入っていないらしい。


 気配は感じないが気になって先を急いだ。登山口から四時間ほど登った辺りで、頂上手前の肩らしい部分が見えた。道がまた傾斜を増して、連続したアップダウンが老いた膝を痛めつける。


 ラッセルがまた膝上の深さになった、腿の筋肉が熱を持ちはじめる。ずいぶん高くまで登ったのに雪が湿っていて重い、雪が少なくてもこれではとても楽とは言えない。

 不規則な白い息を吐きながら「あーあああっ、クソ!」と毒を吐いた。思わぬ苦行に喘ぎながら頂上手前の小湿原を過ぎる。


 そこからもう二時間ほど登ったところで急に周囲の樹木が消えた。傾斜のある三十メートルほどの雪面を登りきって顔を上げた時、唐突に、本当に唐突に眼前に広大な雪原が広がった。


 雪原の真ん中にポツンと小さな標識が見える。頂上だ。

 標識には向かわずに左の樹林を目指した、薄く雪に埋まった木道をしばらく歩くと、遠くの樹の間に臙脂色のトタン屋根が見えた。

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