見慣れぬ電車で、老人と。

 目を覚ますと僕は電車の中にいて、正面から見る窓越しの景色は真っ暗だった。眠っていたことも忘れていたのだが、目を覚ましたのだから、きっと眠っていたのだろう。目の前に座っていたはずの老人はもういなくなっていて、いま、その車内には僕の姿しかない。


 さっきまで目の前に老人がいたことはすぐに思い出せるのに、なんで今日は電車に乗る、という手段を選んだのか、どうも思い出せない。起き抜けの頭が思考を嫌がるのか、色々なことがぼんやりとしている。


 ただ電車にしては走行が緩やかに感じられて、そんな車内で揺られているうちに、すこしずつ記憶がはっきりとしていく。


 あぁそうだ……。


 僕はあの同窓会が終わってから、空野光のことばかり考えてしまうようになった。でもどれだけ彼女との記憶を頭に浮かべても、死んだ女性と連絡が取れるわけではなく、気になったからと言って、会えるわけではない。もちろんそんなことは分かっているけれど、何かせずにはいられないような気持ちになった。


 だから僕はかつて僕たちが通っていた中学に向かったのだ。行ったところで感傷に浸ることになるだけだろう。向かう前から気付いていたけれど、ざわつく心は意志とは関係なく僕の足を操るように、気付けば僕は母校の校舎の前にいた。休日の夜の学校はしんと静けさを保っていて、その周囲をうろうろする僕の姿がもし学校の先生にでも見られていたら、警察に通報されていたかもしれない。結局何をするわけでもなく、駅へ戻ると、もう終電が近い時間になっていた。


 電車に乗るなんて久し振りだった。


 こんな北陸の片田舎に住んでいると、どうしても移動手段は車が中心になる。きょうだって、いつもだったら車を使うはずだった。それをやめて駅を利用した理由は、自分でもよく分かっていないのだが、なんとなく車にも乗れなかった中学時代にすこしでも近付けたい、とそんな想いが萌したのかもしれない。


 帰りの電車に乗った時、かすかに違和感を覚えたのだが、その正体は分からなかった。


 僕の正面には老人がいた。


 そこまでが僕の覚えている最後の記憶で、だからいまは自宅へと向かっている途中のはずだ。


 なのに、ここがどこなのか、まったく分からない。


 それに第一、こんな外の景色がまったく見えないほどに外が真っ暗な状況なんてありえるだろうか。窓の先に、建物ひとつ見えない。


「こんばんは」


 誰もいない、と思っていたはずの場所で、ふいに隣から声が聞こえて、僕は驚きでびくりと身体を震わせてしまった。


 声のほうに顔を向けると、眠る前に最後に見たあの老人が僕の隣に座っている。紺のスーツに茶色のハットを被った、白い髭をたくわえた老紳士という感じの彼は、僕の周りではあまり見掛けないタイプだ、というか、フィクションの世界でしか見たことのないような不思議な雰囲気だった。


「え、っと。さっき正面に座っていた方ですよね? もう降りたと思ってました」


「残念ながら、私はまだ降りられないんです」


 ふふっ、と老人が意味ありげに笑う。


「どういうことですか?」


「私の過去はあなたよりもずっと遠くにありますし、それに降りるかどうかも、まだ決めていないんです。ほら、耳をよく澄ませてみてください。二〇〇一、二〇〇〇、一九九九。とそんな風に声が聞こえてきませんか?」


 その言葉に従って、周囲の音に注意を向けようとする僕の姿を、老人が黙ってにこやかに見つめていた。


 一九九八……一九九七……、と確かに小さくアナウンスの音が聞こえる。


「これは……?」


「西暦です。あなたの降りたい場所に来たら、停車ボタンを押すと良いですよ」


 老人が向けた視線の先に僕も目を向けると、そこには橙色のボタンがあった。バスではなく、電車に停車ボタンがある、というのは不思議な感じだ。


「降りたいも何も、僕は家に帰りたいのですが……」


「おや、知らずに乗ってしまったんですか? 焦った様子がなかったので、てっきり知っているものかと」


「いや、驚いてはいますし、もちろん焦ってもいますが、どうも昔からそういうのが顔に出ないタイプみたいで」


「ふぅむ」


「この電車は、普通では、ないんですよね」


「まぁ何を普通、と捉えるかは、ひとによって大きく違うとは思いますが……、あなたの本来イメージしている電車とは違うでしょうね。この電車は過去へと向かって走行を続けているんです」


「先ほどの言葉から多少察してはいましたが……。降りると、その時期に行ける、ということでしょうか?」


「行けますよ。ただ……」


「ただ……?」


「いえ、それは実際に行ってみないと実感が持てないことかもしれないので、私から言うのはやめておきます。……そもそもあなたは知らずにこの電車に乗ったわけですけど、それでも行くのですか? 一応、このまま乗り続けていれば、そのうち行き先は未来へと方向転換するので、元の時代へと戻れますよ」


「そんな仕組みなんですね」


「えぇ。でもあなたは、いままで私が見てきた過去へと降りていくひとたちと同様の表情をしていますね」


「そうですね、確かに偶然ではあるんですけど、興味はあります」


 光の姿が頭に浮かぶ。彼女のことを同窓会で聞いていなかったら、僕は過去に戻ろうなんて思わなかったはずだ。何か違うことや新しいことへと向かって歩を進める機会が訪れた時、いつも僕は不安に足を絡めとられて動き出せなくなる人間だった。


 同窓会の日、村瀬は僕に、ごめんね、と言った。そして、田中くんは何も悪くないのにね、と。


『あなたのせいで、光は死んだのよ!』


 確かに村瀬は三十年近く前、そう僕に言った。中学を卒業するすこし前のことだ。あの時はみんな気が動転していたから、それは仕方のない話なのかもしれない。そもそも僕自身が自分を責め続けていたのだから、僕のせいで空野光は死んだ、と。気にする必要なんてない、とファミレスで対面するように座る村瀬にそう伝えると、彼女は首を横に振った。


『ううん。同窓会の話が来た時、昔のことが一気によみがえってきて、ね。そう……うん……、あの時、私は田中くんを責めたけど、本当に責められるべき人間がいるとしたら、それは私なんだ』


 どうして、と聞いたけど、彼女は答えてくれなかった。整理が付くまで、もうすこし時間が欲しい、と言って。


 この電車が過去へと辿れるのならば、僕はその真実を自分の目で確かめることができるのだろうか。


「では、あなたの降りたい過去……その西暦が聞こえたら。停車ボタンを押してください。そうすればきっと、あなたの待ち望んでいた過去に足を踏み入れることができるはずです」


 一九九六……、一九九五……、とアナウンスされる数字は過去へと遡っていく。


「あの、でも西暦が分かっても、その日に行けるかどうかは分からないんですよね」


「えぇ、あなたのその年の、もっとも特別な日からはじまります」


 一九九四……、一九九三……。目的の年が、どんどんと近付いてきて、僕は不安と焦りを感じながら、老人に質問を続ける。


「帰ってきたい時は、どうすればいいんでしょうか?」


「それは、私たちには決められないことです。また急に気付けば、この電車に乗っていて、その時は元の世界へと向かって走行していることでしょう」


「戻れなくなること、って……」


「すくなくとも私は、いままで一度も見たことがありません。多くのひととこの場所で再会していますから。ただ絶対に戻れる、と私の口から保証することはできません。例えば、ほとんどは大丈夫でも、実際に絶叫マシンの事故やスカイダイビングで死ぬひとは確かに存在します。それでも行きますか?」


 一九九二……、一九九一……、決断する時はもうそこまで迫ってきている。


「色々と、ありがとうございます。僕は先に降りることにします。あなたの旅にも幸運があることを祈っています」


 一九九〇。


 にこやかにほほ笑んだまま頷く老人の顔を見ながら、僕は停車ボタンを押した。


「いってらっしゃい」


 僕は限りなく三十年近く前の過去へと足を踏み出した。

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