裂け目の主は夜に踊る
おくとりょう
怠惰で淫らな夜
それは月の綺麗な夜だった。
明かりが消えた真っ暗な夜。数多の星と欠けた月だけが輝く真っ黒な空の下。彼女の長い銀髪が夜風にはためく。
もし天女が居るのなら、きっとこういう感じなんだろうと、ぼんやり見つめた。濡れた洋服ごしに小石が背中へと突き刺さり、固い地面で頭が痛い。
あぁ、なんて綺麗な星空だ。
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その日、俺は朝から少し興奮していた。
なんて言ったって、痴漢退治に貢献したのだ。
それは登校中のこと。途中までは、いつもと同じ朝だった。いつも通りに目覚ましを止め、いつも通りに朝食をとる。いつも通りに支度を済ませ、いつも通りに家を出る。
いつもの時間に、いつもの電車。平凡で退屈な繰り返し。
ただ、今朝はその後が少し違った。
いつも通り、寿司詰めの扉が開いたとき、若い女性の声がした。
「チカンでーす」
何てことない日常の出来事を伝えるような。抑揚の少ない普通のトーンで。
ポカンとしていたのは、俺だけじゃないはず。寝ぼけ頭ですぐに分かる言葉じゃなかった。
しばらくすると、凄く綺麗な銀髪の外国人女性が、冴えない小太りの男の腕を掴んで、人混みから現れた。が、ホームに降りたときにバランスを崩したようで、彼女はふらっとよろめいた。
男はその瞬間を見逃さなかった。周りの人々を突き飛ばすと、一目散に駆け出す。この人混みだ。逃げれば、何とかなると思っているのだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。
ようやく「チカン」の意味が飲み込めた俺は、男の前にすっと足を突き出す。慌てていた男は咄嗟に避けることもできずにつまずくと、勢いよく顔から床に倒れ込んだ。
無様なうめき声をあげて、うつ伏せに突っ伏した痴漢男。一瞬の沈黙のあと、ハッとしたように周囲の男性数名が倒れた男性を抑えにかかった。
再び朝の喧騒が戻る。ホームには、何事も無かったかのように電子アナウンスが響いていた。
結局、大した遅延になることもなく、いつもの電車は発車した。いつも通りの寿司詰めで。
遅刻の心配もなく、乗車できた俺はいつも通り、スマホを開いてイヤホンを耳に突き刺した。大したことでもないように。心臓の音が漏れないように。
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あぁ、俺まじヒーローじゃん!
時間が経つと、だんだん気持ちが高揚し始めた。乱れる心臓の鼓動に追いつくように。追い越すように。
興奮冷めやらぬまま、教室に着いた俺は居ても立っても居られずに、隣の席のクラスメートに武勇伝を語って聞かせる。
「へえー!やるじゃん!
警察の事情聴取とか、その美女と連絡先の交換とかはしてないの?」
「いや、あまりの人混みだったから。それに遅刻するのも嫌だし…」
ふと視線を下げると、さっきまで彼が読んでいたらしい本が目についた。
「あぁ、これ?ミヒャエル・エンデの『モモ』。高校生にもなって児童書なんて…って思われるかもしんないけど、なーんか好きで読み返しちゃうんだよね」
あまり本を読まない俺は、そう言えるほど好きな作品があることが少し羨ましく感じて、何となく『モモ』のあらすじをネットで検索してみた。
「『時間泥棒』の『灰色の男』たちか…」
詳しく見てみようかというときに、教室の扉が開く。
「おはよー、席つけよー」
そうだ、一時間目は宗教の授業だった。思わずため息が溢れる。
宗教って、何のために勉強するのか分からない。少なくとも、歴史や倫理があれば、要らないように思う。先週の「ペオルの事件」と「コズビの事件」というのもよく分からない。どうして偶像崇拝をしてただけで殺されてしまうのか…。
そういえば、隣の彼は「自分たちを守るための異文化の拒絶」って言ってたっけ?
…とにもかくにも、面倒くさい。
やる気を無くすと、急に眠気が襲ってきた。宗教なら、受験には関係無い。そう自分に言い訳して、夢の世界へと落ちていった。
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「ありがとう」
顔をあげると、朝の銀髪の外国人美女が俺の手を握り締めて微笑んでいた。
「これはお礼よ。大事に使ってね」
そう言ってウインクをしたかと思うと、
待って、連絡先だけでも教えてください!
慌てて駆け出したものの、走っても走っても追いつかない。ただ歩いているだけに見えるのに、全く追いつかない。
ようやく、あと少しというところで、彼女は角を曲がってしまう。
見失ってしまう!
…と慌てて角に駆け込むが、曲がった先に居たのは、彼女ではなく痴漢男。グレーのスーツを着た彼は黙って、じぃっとこちらを見つめている。怒っているのか。馬鹿にしているのか。
戸惑って見つめ返していると、男はだんだん膨らみ始める。まるで風船のように。視線はこちらに向けたまま。
何が何だか分からなくて突っ立っていると、目と鼻の先まで膨らんでいた男の身体がパァンっと音を立てて弾け、後には白い煙だけが残った。
「他人を
どこからか声が聴こえた気がした。
尻餅をついたまま、キョロキョロと辺りを見渡す。近くに人の気配はない。
「明日は我が身と心得よ」
再び響いたその声に、上を見やると、煙が人間の姿をとっていた。輪郭はモヤモヤしているが、シルクハットを被っているように見える。片手には杖のような長い棒(?)を持ち、服装はスーツらしく、まるでフィクションに登場する英国紳士のようだった。
彼は『仕事は済んだ』と言わんばかりに興味のなさそうな様子で、パチンッと指を鳴らした。
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バッと身を起こすと同時に、一時間目の終わりのベルが鳴る。
「ナイスタイミング」
隣の彼に微笑まれ、曖昧な返事を返す。異様に頭がハッキリしていて、何だか寝起きの感じがしない…。
ふと、スマホが震えたような気がして見てみると、見覚えのないマークの通知が出ていた。
《打ち出のハンドベル
あなたの願いを叶えます。》
胡散臭い!
どうやら、気づかぬ間に妙なアプリをダウンロードしてしまったらしい。慌てて、ウィルス対策アプリを起動させて、端末全体をチェックする。
この妙なアプリもアンインストールしなくては…。
ふと夢に出た美女の言葉を思い出した。
『これはお礼よ。大事にしてね』
……。
端末のチェックが終わった。ウィルスの心配はなかったことにホッとした俺はとりあえずスマホを片付けた。
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放課後。
帰り道の公園で、俺はスマホとにらめっこしていた。
あの妙なアプリのことが気になって、しょうがない。ネットで検索してみたけれど、『打ち出のハンドベル』のことは全く分からなかった。
胡散臭いと思うけれど、万にひとつでも本当に願い事が叶うアプリだというのなら、使わずにアンインストールするのは、もったいない…。
思いきって、開いてみることにした。個人情報を抜かれそうになったら、そのときに止めればいい。
《このアプリは、タップして願うだけで、望みが叶います。
アカウント登録等、個人情報は一切不要!
あなたのお願いを叶えます。
ただし、一度叶えた願い事は取り消せません。よく考えて、責任のとれる範囲でご利用ください。
それでは、幸せな人生を☆》
この説明文の他には、ハンドベルのイラストがあるだけだった。きっとこのイラストをタップして、願い事をするのだろう。
でも、利用規約どころか、制作者もその連絡先も書かれていない!!どう考えても胡散臭過ぎる…。
…でも、願い事をすることには、デメリットは見当たらない。『責任のとれる範囲』という文面が少し気にかかるけど。俺にはちょうどいい願い事がある。
大きく息を吐いて、スマホの画面を押しながら目をつぶった。
「あの朝の女性と仲良くなりたい」
バチンッという音が聴こえたかと思うと、突然のどしゃ降り。さっきまで、雨の気配なんて無かったのに…。
雨宿りをする間もなく、ずぶ濡れになってしまい途方に暮れていると、後ろから傘を差しかけられた。
「大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを覗き込むのは、今の流暢な日本語を発したとは思えないほど、いかにもな外国人女性。しかも。
「あ!今朝の!!」
思わずスマホを取り落としそうになった。どうやら、このアプリは本物らしい。
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「若い男の子とデート出来ちゃうなんて、同僚から羨ましがられちゃうなぁ」
「いやいや、羨ましがられるのは俺の方です」
クレープに食べながら、ニコニコする彼女に見惚れながら、恐る恐る頬をつねる。あぁ、夢じゃない!
すると、彼女は俺のことをじぃっと見つめてきた。
「…あの、どうかしましたか?」
「ううん、やっぱり私のコーディネートは完璧ね」
あぁ、曇り空すら吹き飛ばしそうな笑顔。それが相合い傘の下という至近距離なのだから、堪らない。傘を叩く雨音も、へばりつくような湿気も、今日は全く不快に感じなかった。
あぁ、神様。いや、アプリ様!本当に願いが叶うとは…。
濡れねずみになっている俺を見て、彼女は近くの店で着替えの服を買ってくれたのだ。朝のお礼だと言って。
そうは言っても申し訳なくて、何とかクレープをご馳走したのだけれど、結局、俺の方ばかり良い想いをしている気がする。しかし、高校生の財布では出来ることは限られているし…。
せめて会話で楽しませようと、端正な顔を見つめながら、脳をフル回転させる。
「どこから来られたんですか?」
「どこだと思う?」
質問を返されてしまった。
「…北欧?」
「ブゥーっ」
彼女は口を尖らせ、指でバツを作ってみせる。やっぱり綺麗な女性がすると、こういう仕草でさえ魅力的に見えるのだと感心しながら、見惚れた。
「じゃあ、フランス?」
「んーん…まぁ、正解」
「『まぁ、正解』?」
「私の家系は元々中東のヨルダンって国が出身なの」
「はは、血筋までは当てられないですよ」
中東の方が出身なら、イスラム教とかだったりするのだろうか。もしそうなら、さっきのクレープのクリームは大丈夫だっただろうか。
「…
もちろん、
彼女は傘の外を見ながら、そう言った。雨は小降りになってきていた。
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気づけば、薄暗くなっていた。
何だかんだとしている間に、日も落ちたらしい。
「雨も止んだね」
彼女の言葉に空を見上げると、途切れた雲の間から月が顔を見せていた。
あぁ、相合い傘もおしまいかぁ。
渋々傘を下ろすと、こちらを見上げる彼女と目があった。白く長いまつ毛の下で、淡い紫の瞳が悩ましげにコチラを見つめていた。月明かりが彼女を優しく照らす。その髪は輝かしく、肌は艷やかに見えた。小さな唇が何か呟いた。俺はそこに惹きつけられるように…。
…気づくと、視界には真っ黒な空が広がっていた。
「何してんの?」
頬にじんわり痛みを覚えた。どうやら、彼女に蹴っ飛ばされたらしい。
「何で急にキスしようとしてんの?」
彼女は側にしゃがみこんだ。こんな状況になっても、下心は元気なのが腹立たしい。ワンピースの奥へと視線が流れ、再び顔を蹴り飛ばされた。
パチンと音がしたかと思うと、彼女は先ほどまでのワンピースの下にデニムパンツを履いていた。もう中のパンツは見えない。
呆れたようにため息をついて立ち上がった彼女は、顔をしかめて言った。
「ここまでしても、分かんないわけ?」
そして、再び指を鳴らした。
ひゅーっと夜風が吹き抜けていく。木の枝々がざわざわとそよぐ音が聴こえる。
ふと、下腹部に違和感を覚えた。嫌な汗がじわぁっと滲み出て、シャツが肌にへばりつく。再び風がふわあっと通り抜けた。やはり股間はいつもより涼しかった。
思わず彼女に視線を寄越すと、俺に構わず大きな欠伸。そして、冷たい瞳で口を開いた。
「あなたはいつも自分ばかり。何をするにも自尊心。
人の目ばかり気にする癖に、人の気持ちは考えない。
考えるのは見える世界。見えない世界は受け入れない。
ハンドベルは返してね。代わりに言葉をあげましょう。
玉
そう言うと、彼女は背を向け歩いていった。
彼女の痕跡を隠すように、また風が吹いた。生ぬるく、湿った風だった。
「Today him, tomorrow you」
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