22
『藤本くんって、可愛いね』
由生子が言った。
あれは、木曜日の放課後の教室、朔の席に座る青桐を見下ろす目は、相変わらずどこかいつも優しげで、達観したような眼差しだった。
その優しさが青桐は気に食わなかった。
昔から、この従姉は何かと青桐を構いたがる。
『は?』
うっとおしげに青桐は頬杖をついたまま言った。
開け放した窓から風が吹き込んでくる。
カーテンが大きく膨らんで、ふたりの間を舞った。
『藤本くんが好きでしょ?』
青桐は窓の外に向けていた目を、由生子に投げた。
『…だからなんだよ』
睨みつけるが、由生子は薄く笑ったままだ。
『ときどき見かけるけど、随分大事にしてるみたいだね』
真意を測りかねる言葉に青桐は少し警戒した。
『まだ友達?』
青桐は由生子を睨みつけた。
『は? おまえに関係ねえ…』
『藤本くんに好きって言って欲しいんだ?』
青桐の声に被せるようにして、由生子は言った。
『自分じゃ言えないから、相手に言わせるんだ?』
『違う、俺は──』
がたん、と青桐は立ち上がった。反論しようとして、言葉に詰まった。
そうじゃないと、どうして言えるだろう。
自分で言いたかった。
伝えたくて、でもいつのまにか、朔が笑顔を向けてくれるたびに、少なくない好意を感じていた。このままもっと仲良くなり、一緒にいて、時間が経てば、朔が自分と同じ気持ちになって、いつか言ってくれるんじゃないかと──
そう思わなかったといえば、それは嘘だ。
青桐は言い淀んだ。
そうじゃないと、なぜ言い切れる?
『俺は…』
『…由也、私と賭けをしよう』
静かな声で由生子は言った。
『賭け?』
『あんたがもしも、藤本くんに好きって言わせることが出来たら、──』
怪訝に眉を顰めて青桐は由生子を見た。
『…ふざけんなよ、おまえ』
『言わせることが出来たら、私は跡目を下りる』
『下りるって…』
『でも、もしもあんたが藤本くんに好きって言えたら、そのときは…』
風が大きく吹いた。
『私が跡を継ぐ。全部引き受ける。あんたはもう、自由にしていいよ』
白いカーテンがふたりの間ではためいている。
薄く透けた向こうに由生子がいる。その顔からは笑顔が消え、冴えるような真剣なまなざしが青桐に向けられていた。
『こんなとこでする話じゃねえだろ』
苦々しい思いで青桐は言った。
ここは学校で、放課後で、誰が聞いているか分からないのだ。
もしも、このことが──何かの拍子に、朔の耳にでも入ったら…
そうだね、と由生子は言った。
『大体何で俺がそんなことに付き合わなきゃなんねえんだよ』
そうだね、ともう一度由生子は言った。
『でもあんたは選ばなきゃならないと思うよ』
『どういう意味だよ』
『私が、藤本くんをどうにかしてもいいの?』
由生子の言葉に青桐は目を見開いた。
『私は女だもん。あんたよりずっと話は簡単だよ』
『おまえ…』
『身動き取れなくなってから、お互い後悔はしたくないでしょ?』
由生子の目は真剣だった。
彼女の気質を幼いころから見ていた青桐は、由生子の言葉が本気なのだと分かった。
『由也、どっちを選ぶ?』
その問いに、青桐の心は大きく揺れた。
長い長い沈黙があった。
校庭から聞こえてくる部活動の声、風の匂い。
誰かが廊下を歩いて行く足音。密やかに、近くなり、遠ざかっていく。
やがて、青桐は答えを出した。
『俺は…、俺は──』
風と一緒に舞い込んでくる枯れ葉。
朔の机の上を滑り、床に落ちた。
それは高校二年の、秋のことだった。
***
「…ん、う」
薄く開いた唇の間に舌先を押し込んで、青桐は朔の腔内に入り込んだ。震えて逃げる朔の温かい舌を捉えて吸い上げる。もっと、と二の腕を掴んで引き寄せれば、朔は逃れたいのか、青桐のベストを掴んで胸を押し返し、背を逸らせて仰け反った。倒れ込みそうになる背に手を回して胸の中に抱え込み、青桐は朔を床に押し倒した。
「…や、ちょ、っ、ま…っ」
だめ、という口を自分の唇で青桐は塞いだ。手のひらで肩から辿り、押し付けた胸を叩く朔の手首を取って、痕が残らないように加減しながら床に固定した。
「んんぅ、う…、ん、っ、ん、」
朔の口から水音が立つ。
その音に頭の芯がぐらぐらと揺れる。
もっと聞きたい、甘い声を上げさせたいと、青桐はわざと音を立てて貪った。
「ん…っ」
押し付けた手のひらの下で、朔の腕がびくっと跳ねた。指先で手首の内側を撫でると、朔の体が発熱したように熱くなった。
「…朔」
「も、やっ…はな、っ」
「放すわけないだろ」
逃げようと顔を背けた朔の耳元に青桐は囁いた。薄青い明度の中でも分かるほど赤くなった耳朶の輪郭を唇で辿り、甘く噛みながら首筋に口づけた。
あ、と朔の唇からあえかなため息が漏れる。
その声に青桐の背筋が震えた。
「なんで、出て行こうとするの」
「あ、…あれ、はっ」
「俺といたくないの?」
「ちが、違う」
そうじゃない、と空いている片腕で朔は顔を覆った。目元が隠れ、唇が何か言いたそうに開いては閉じる。
青桐は体を起こして、朔を見下ろした。顔が見たい。隠されるのは嫌だ。腕をどけようと手を伸ばした。
「朔」
手首に触れたとき、溺れているみたいな声で朔が言った。
「そうじゃ、なくて…、…すき、好き過ぎて…」
「──」
青桐は手を止めた。
「こんな、一緒にいたら、俺、おかしくなりそうで…、だから…離れたくて…っ」
「……──」
好き過ぎて離れたくて。
おかしくなるから。
「…それが、理由?」
「ちょっ…やっ」
青桐は朔の手首を掴み、顔から引き剥がした。目を見開いた朔が慌てて目をぎゅっと瞑って体を丸めようとする。青桐は馬乗りになり、縮こまろうとする朔の胸を半ば無理やりに開かせた。
羞恥に歪んだ目が揺れている。
「青桐、や、やだ…」
朔は激しく首を振り顔を背けた。捉えられた両腕を取り戻そうと青桐の下でもがくが、青桐はその手を緩めなかった。
「……くそ、可愛すぎる」
「なに、何言って──あッ…、あ!」
青桐は朔の首に掛かったままのネクタイを乱暴に引き抜いた。シャツのボタンを引き千切るように外すと、あらわになった鎖骨に歯を立てた。
「い…!」
きつく吸い上げて痕を残す。
強烈な飢餓感が青桐の中から湧き上がってくる。
欲しくて欲しくて堪らない。
青桐は朔の背に手を回し抱き起すと、そのまま抱え上げた。うわ、と驚いた朔が手足をばたつかせた。
「や、やだ馬鹿、何して」
「じっとして」
そのまま開いていたドアから出て、向かいのドアを蹴り開けた。真っ暗な部屋の真ん中に置かれたベッドに朔を下ろし、青桐はそのまま朔に覆い被さった。
「ん…っ」
「どこ行くの」
逃げようと体を捻った朔を背後から抱きしめて、強引に唇を奪う。もっと深くつながりたくて頭を抱え込むようにして貪った。
息継ぎの合間に解けた口づけに、朔は震える声で言った。
「ま、待って、あおぎ…」
「なんで、なんで逃げるの」
上に逃げようとする体を青桐は引き戻して両腕で囲い込む。
「逃げてな、…っ、ちょっと、ま…っ」
「駄目」
「待って、俺、話があって、…だから」
「そんなのあとでいい」
「あとじゃ、だ──、んっ、あ、ああ…っ」
朔、と青桐は囁いた。
朔の目は真っ赤だった。
闇に慣れた目に、その目から涙が溢れ出し、こめかみを伝っていくのが分かる。
「なん、なんで…っ、もう、こんな」
「ごめん、ごめんね」
ごめん、と言いながら青桐は朔の涙を舐めた。
どこかそれは甘い。
「俺も、朔といるといつもおかしくなる」
唇を噛み締めて上目に睨んでくる朔に、青桐は微笑んだ。
「ずっとこんなことばっかり考えてた」
「…なんで?」
「え?」
朔の指が青桐の頬に触れる。
「青桐はなんで、俺を好きになったの」
「……」
ゆらゆらと涙の膜の張った底から見上げる朔の目は、本当に何も覚えてないのだと物語っていて、青桐は胸の内で苦笑した。
覚えてなくても仕方がない。
「…初めて会ったときから、好きだったよ」
はじめて、と朔は呟いた。
何かを思い出すように、朔は何度か瞬きをした。
「一年のとき、俺、…青桐と話した?」
「話したよ。一回だけだったけど」
「それで…?」
よく分からないという顔をした朔に、青桐は笑みを向けた。
「そうだよ。俺にはそれで充分だった」
「青…、ん、っ」
何かを言おうとした朔の唇を青桐は口づけで塞いだ。
「もう黙って」
「あ、あ…っ」
「朔、欲しいから、お願い」
力の抜けた朔の体を唇で辿る。
全部欲しい。
ずっと、ずっと、…
「さく、さく…っ」
「……」
朔の手が、そっと青桐の髪を撫でる。
言えない青桐の代わりに、小さな声で朔が、好きだと言うのが聞こえた。
どうしようもないほどの愛しさが込み上げてくる。泣き出したくなる衝動を堪え、青桐は朔の体をきつく掻き抱いていた。
はじめは気がつかなかったのだ。
入学式を終えたその足で教室に向かった。
無理を承知で父親に掛け合って受けた高校は、どこかのんびりとした雰囲気のところだった。
窓の外の桜は、もう散ってしまっていた。
『アオ』
廊下を歩いていると、後ろから小学校からの付き合いの丸岡が声を掛けてきた。
『何組?』
『二組。そっちは?』
『四組。離れたなあ』
丸岡と別れ、青桐は教室に入った。
入った途端に周りの視線にさらされる。
ああ、面倒だな。
そう思いながらも顔は自然と笑みを作れるのだから不思議なものだ。
出席番号順に割り振られた席に着く。
青桐は一番だった。窓際の一番前。
息苦しさを感じて窓を開けると、気持ちの良い風が吹き込んできた。
視線を感じて横を見る。
隣の女子がにこりと笑うので、青桐もそれに笑い返した。どうでもいい話題を振られ、適当に相槌を打った。
ほとんどの生徒が席に着いたころ、遅れてひとり教室に入って来た男子生徒がいた。
『へえ、青桐くんって何でも知ってるんだ』
『そう? 普通じゃない?』
話しながらも、なぜかふと、青桐は彼に目を向けていた。
細く、すらりとした立ち姿。
まっすぐな黒い髪が目元を覆っている。
入って来た風が、彼の目にかかる髪を揺らした。
『……』
その目がすっと青桐を見た。一瞬目が合ったかと思ったが、彼の視線は青桐を通り越して、すぐに他のほうを向いていた。席を探していたのか、くるりと向きを変える。
入学式で付けられた胸元の名札が翻った。
『──』
あ、と青桐は思わず声を上げそうになった。
藤本朔。
その名前を忘れたことはない。
ふじもと──
間違いでなければ、あれはきっと、あのときの──半分の月だ。
***
「あ、あっ、や、…っ」
「朔、もっと、ねえ、…俺を見てよ」
「も、嫌だ、やあ…っ」
朔は枕に顔を押し付けて、真っ赤になっていた。
「目え開けて、ね、…こっち向いて」
「い、あっ、あ」
腰を捩った朔が体を震わせて枕から顔を上げた。すかさず青桐はそれを取り上げてベッドの下に投げ捨てた。
追いかけようとした朔の手を捉えて指を絡ませ、体をベッドに縫い付けた。
「朔、俺を見て」
汗の浮いた額に貼りつく髪を掻き上げ、青桐はそこに口づけた。
あおぎり、と拙く朔が呟いた。
愉悦や羞恥でぐちゃぐちゃになった瞳が彷徨って、青桐の視線の先でゆっくりと焦点を結んだ。とたんにくしゃりと泣きそうに朔の顔が歪んだ。
朔、と青桐は笑った。
「やっと…掴まえた」
「…あ、あ、…っ」
「朔」
見てて、と青桐は囁いた。
好きだ。
好きだ。
こんなにも、こんなにも、朔が好きだ。
「ひ、あ、あああ、…っ!」
朔を腕の中に閉じ込める。
「さく、朔…っ」
嫌々をするように朔が首を振る。青桐は目を逸らすことを許さないとばかりに朔の頬を両手で包み、目を合わせた。
「もう、や、…っあ、やだ」
「駄目、…逃げないで」
「あ、あ、あっ」
早く強く、──優しくしたいのに──もっともっとと、欲情が暴走する。
止まらない。
駄目だ。
「くそ、朔、さく…っ」
ごめん、と青桐は呟いた。
細い指先が青桐の目にかかる髪を払った。
「…いい、だい、…」
大丈夫、とふわりと微笑んだ朔に、青桐の胸が締め付けられる。
好きだ。
好きだよ朔。
言葉に出来ないもどかしさに青桐の目頭が熱くなった。
ぽとりと、涙が落ちた気がした。
「──ア」
もう止まらなかった。
堰を切ったように青桐は朔を激しく揺さぶった。喘ぐ朔の甘い声が青桐の理性をどろどろに溶かしていく。
高く悲鳴のような声を上げて、朔が絶頂に達した。
合わさった肌の熱さに目が眩みそうだ。
「…くっ」
朔の首筋に顔を埋め、青桐は息を詰めた。
朔の中に解き放つ。
抱き締めた体が震えた。
「あ、あ…」
小さく声を上げる唇に口づける。
甘い舌を甘噛みし、宥めるようになぞった。
「…ん…」
朔はそのまま緩やかな眠りに落ちていった。弛緩した柔らかな体を胸に抱き込むと、青桐もまた満たされたまどろみの中に沈んでいった。
眠りにつく瞬間、どこかで猫が鳴いていると、ふと思った。
***
『ねえ、あのさ』
呼ばれた朔が、ゆっくりとこちらを向いた。
ああ、これは夢だ、と青桐は思った。
はじめて話しかけたときと同じ光景。
夢を見ているのだ。
『…え?』
自分が呼ばれているとは思ってないような口ぶりで、朔が言った。
『これ要らない?』
移動教室の合間だっただろうか。
たまたま教室にふたりで残されていた。
この機会を逃してはいけないと、青桐は朔に話しかけたのだ。
春だった入学式から、気がつけばもう、夏が終わろうとしていた。
空調の効いた室内にも、蝉の声がうるさく響いていた。
『…俺?』
『そうだけど』
朔は席に座って何かを書いていた。日直だったか、何だったかは、青桐にとってどうでもいいことだった。
『なんか貰って、食いきれないし』
それは半分嘘で半分本当だった。
朔に話しかけるきっかけのために、いつも青桐はそれを持ち歩いていた。今日は偶然にも、同じものをクラスメイトがくれたのだった。ただ、そちらは青桐の好きな味ではなかった。食べられないことはないが、特に好きとも言えなかった。
『そうなんだ』
『はい』
手のひらにふたつ載せて朔の目の前に差し出した。
朔は少し迷って、青桐を見上げた。
『どっちも好きだから、好きなほう先に取って』
にこりと笑う、その顔に、ああやっぱりそうだ、と青桐は確信した。
彼は青桐がどちらかが嫌いなのだと見抜いているのだ。
青桐は好きなほうを取って、残りを朔に渡した。ありがとう、と朔が受け取った。
朔の指先が、小さな包みを開いてその菓子を口に入れた。
そしてまた、何事もなかったかのようにノートに目を落とし、ペンを走らせていく。
今しかない。
ずっと訊きたかったことを、青桐は言った。
『なあ、栄清総合病院って、行ったことある?』
ああ、と下を向いたまま朔が言った。
『父親が入院してたとき、行ったことあるよ』
『それ、いつ?』
『五年生…、かな?』
『あそこ、毎年中でハロウィンやってるの、知ってる?』
『ああ…それ、行ったことあるよ。お菓子貰ったかな』
少し考えるようにして、朔は言った。
ああ、そうだ。
やっぱりそうだった。
朔は、あのときの子だ。
『それが?』
『いや、なんでもないけど』
青桐がそう言うと、朔はもう青桐を見なかった。
寂しい。
もっとこっちを見て欲しい。
自分だけを見て欲しい。
仲良くなりたい。
もっと、もっと、朔のことを知りたい。
好きになって欲しい。
けれど青桐が次に朔に話しかけることが出来たのは、翌年の春の終わりだった。
ようやく辿り着いた幸福は、青桐の記憶にある欠けた月をゆっくりと満月に変えていく。
いつもどこか足りない、
やがていつか、すべてが満たされる未来を、あのころの自分はどれだけ想像することが出来ていたのだろうか。
「…──」
ふっ、と目が覚めると、まだ真夜中だった。
腕の中にいる朔は、静かな寝息を立てていた。
青桐は朔を起こさないように、そっと起き上がった。
ベッドから下りようとして、ふと、足下に気配を感じた。
「……」
見れば、月明かりの中、小さな体がベッドの下に蹲っていた。
長い尻尾がはみ出している。
そういえば、朔は話しがあるとしきりに言ってた。
このことだったのか。
「く…」
青桐は声を殺してひとしきり笑うと、足下の小さな猫に手を伸ばした。
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