第10話 無礼者めら、逃さぬっ


 話は戻る。

 信春と直治どのに、円を描き与えた翌日。


 何ごともなかったかのように、他の弟子たちとともに顔を出した信春と直治どの、再び同じことを繰り返した。

 いや、もっとたちが悪い。


 昼どきを過ぎて、絵筆に倦んだ信春め、このようなことを言い出したのだ。

「おう、源四郎。

 昨日の円は、なかなかに傑作であったな。

 なんの意味があるかもわからぬが、次は四角も描いて欲しいものだ。

 田楽を描くときの参考にさせてもらおう」

 この信春の言い草に、師筋の者として怒らない法があろうか。

 たわむれにしても、武家、寺社の襖絵に、豆腐田楽など描かれることがあろうか。


 そこへ、直治どのがさらに追い打ちを掛けてきた。

「源四郎どの。

 たしかに信春どのの仰るとおり、あれは傑作でございましたなぁ。

 私め、ほれ、このように紙を用意して参りました。

 四角を描いた御真筆を頂くために、これこのとおり。

 私めは田楽などとは申しませんが、襖絵に重箱くらいは描くことがないとも限らぬゆえ」

 とは、なんだ?

 俺の頭の中で、なにかが切れる音がした。

 絵筆を置き、奮然と立ち上がる。


「おのれら、覚えておれよ。

 そのような戯言、のちのちまで決して忘れ……」

 俺、今日はそこまでしか言えなかった。

「兄上、お控えを」

 小蝶の叱咤に、思わず俺は口を閉ざした。

 

「手本を描けと言われれば、描いてやるのが師のつとめ。

 兄上、ここはこらえていただかないと」

「小蝶、昨日とは正反対ではないか。

 この2人の頭に、蛤を投げつけた者の言い草とも思えぬ」

「お忘れになってはいけませぬ。

 この二人、関白様からお褒めいただいた身」

 

 そこまで言われて、俺の頭もようやく働き出す。


 他の者の言うことではない。

 絵筆を能くする小蝶の言なのである。

 とはいえ、そう言うお前こそ、昨日はそれを忘れていたではないかとは思う。


 そこで頭が冷えたか、俺、もう一つの考えが頭に浮かんだ。

「……もしや」

「その、『もしや』でございます」

 小蝶は断言する。


 なるほど。

 そういうことか。

 だから小蝶め、昨日は実力行使に出たが今日は俺を止めたのだ。


 では……。

「信春、直治どの。

 昨日の円、よほど不要のようでござるな。ぜひとも、お返し願おう」

 俺、そう鎌をかけた。


「あれなら、鼻をんで捨て申した」

「私めも、他に紙がないもので、焚付たきつけにしてしまいました」

 共に、返さないつもりらしい。

 こいつら、実は後生大事に抱え込んでいるわけだ。


 俺、二段構えの鎌をかける。

「俺が四角を描いたら、また鼻を擤むのか?

 ん、信春。

 また、焚付にするのか?

 どうだ、直治どの」

 ここで信春、ぐっと詰まった。

 直治どのも、そわそわと視線が泳ぐ。


 結局、この二人、素直でないのだ。

 同時に、この俺に対して「いつかは上を行く」という……、いや「明日にでも上を行く」という野心を持っている。

 だが、手本を描いてもらったというのは負けであるし、後々まで絶対的な師弟関係の証拠となる。それを避けようと、手練手管を使っているのだ。

 その意気や良し。

 ただ、だからと言って、真筆の手本は欲しし、頭を下げるのは口惜ししの葛藤を面と向かって正面からぶつけられるなど、俺としてはあまりに疲れる。


 俺は、内心でため息を付きながら聞いた。

「小蝶、なぜわかった?」

「昨夜、明け方まで長屋の二部屋で灯火が消えませなんだ。この灯し油が高い時節になにをしているのかと思えば、墨染のようになったずしりと重い紙が何枚も焚付の中に増えておりまして。

 さぞや稽古に励まれたのでございましょうよ」

 ここで俺、ため息が実体になってしまった。


「信春、直治どの。

 昨日の円、不要でござろうからお返し願いたい」

 再度、俺は重ねて言う。

「だからそれについては、先程も申したとおり……」

「では、描いて返してもらおう。

 今でもかまわぬ。そこにある紙を使えばよい」

 昨夜の稽古の結果、見せてもらおうではないか。

 俺と張り合うなら、すでにその力は見せられるだけのものになっているのだろう?


 だが、信春の態度はいきなりおどおどしたものになった。

「今はまだ、いろいろと不都合があり申して……」

 なんだ、つまらぬではないか、信春。

 先ほどの勢いなら、さらりと描いてみせるかと思ったぞ。


「直治どの、そなたからはお返し願えるか?」

 俺、矛先を変える。

「拙者、急に持病のさしこみが……。

 痛、痛、いたたたたた……」

 年下なのをいいことに、あまりにお粗末な仮病芝居に逃げるか、直治どの。


 小蝶が仁王立ちに立った。

「お二人とも、もはや見抜かれておりまする。

 その上で、その場で御手自らの手本をいただくのに、その態度はないでしょう。

 いかに兄上に対して角逐※の意があれども、礼は尽くしなさい。

 少なくとも今は一歩先を行く者に対して、人としてそれは当然のことっ」

 この声に、信春、直治どの、二人共小さくなった。


 結局、頭を下げるのは口惜ししの葛藤も、小蝶の真正面からの正論には勝てないらしい。

 特に信春、お前にとっては小蝶は六つも歳下ぞ。あっさりと負けるのは、あまりに情けなかろう。


 しかし小蝶め、いつから、ここまで強くなったのだろうか。

 やはり、男と同等のことを成せと、父から言われたことが効いているのだろうか。


 小蝶がくるりとこちらを向いた。

「……ただ、兄上。

 この二人が、自らの筆が兄上に及ばぬことを認めたも同然なのは、ぜひとも汲んでやっていただけぬでしょうか」

「……わかった。描こう。

 だが一言、本人たちからなにかあって然るべきであろう」

「だ、そうですよ。

 お二人共、我が兄にかかっては赤子の手を捻るようなものなのですから、伏してお願いするのです」


 なんでそうなるのだ?

 最後の一言はあまりに余計であろう? それでは台無しではないか。

 俺に、角逐※の意を汲んで大人の対応をしろということではなかったのか?

 信春と直治どのも、一旦は我を捨て、大人の対応をせよということではないのか?


 信春と直治どの、ともに先ほどまでの神妙さが消え失せて、「けっ」と唾でも吐きそうな顔になっているではないか。


 思わず俺、せずとも良い確認を小蝶にしてしまう。

「小蝶、お前は二人の思いを代弁したのではないのか?」

「はい、私は兄上が日の本で一番の絵師だと思っております。

 関白さまからお褒めをいただいたこの二人も、おそらくは一緒でございましょう。

 兄上、ぜひにもよきお導きを」

 信春め、ついに口に出したな。「けっ」と、吐き出してくれたな。


 だが信春、気持ちはわかるぞ。

 小蝶め、やはり、お前……。

 結局お前は、自分の思いをまくし立てただけで、二人の意を汲んでやったわけではないのだな……。


 昨日は、俺を粗略に扱った二人を許さず、今日は実は粗略ではなかったと判じたから庇ったというわけか。

 わかりやすすぎて、かえって頭が痛くなってきた。


 でもって、小蝶の思いとは……。

 溜息しか出ないぞ。


 小蝶は最初から俺の妹ではないことを知っていた。俺は血を分けた妹だと思っていた。

 なるほど、小蝶の俺への距離感が近い理由がよくわかった。

 だが、俺のお前を見る目は、一朝一夕で妹から女には変わらんぞ。

 そもそも工房の面々にしても、狩野の一族の娘と思うからこそ、ここへの出入りを許しているのだ。



 絵競いは終わった。

 だが、俺の周りの問題は、不本意にもさらにうずたかくなった気がする。

 ひょっとして、関白様は、ここまで見抜いて俺に人使いの修行をせよとおっしゃられたのやもしれぬ。

 俺、ため息とともに再び絵筆を握る。


 もはや後戻りはできぬ。

 なら、いつか祖父を超えるためにも、ひたすらに前に進もうではないか。

 世におのれの分身を残し、生きた証しを残し、派を繋いでいく。

 それが我が務めなのだ。



※角逐 ・・・ ライバル

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